(現代のきもの)

3 女 紋

3-1 女紋とは

 女性の着物の紋にどのような紋を付けるかについては、地域差があり一定していません。
 どの紋を付けるかで分けてみますと、次のような種類があるようです。

1.正 紋 家の紋、いわゆる「家紋」で、男女の区別なし。 未婚女性は父親、既婚女性は舅・夫と同じ紋章
2.副 紋 正紋とは別に定めた女性用の紋。「替紋」とも呼ばれます。 未婚女性は母親、既婚女性は姑と同じ紋章
3.父系紋 女性の生家の正紋。「里の紋」 生家の父親の紋章または生家の女性用の紋章を生涯使い続ける
4.母系紋 女性の母方に受け継がれる紋。「女紋」 所属する家の紋章とは無関係に、母から娘に代々伝えられる紋章
5.私 紋 個人的嗜好で選んだ紋。「通紋」 好みのデザインの紋章を自由に選んで使用する

 家によってはいくつも紋章を持っていて、唯一正式の家紋を表紋(おもてもん)、または定紋・正紋と呼び、そのほかを略式、あるいは、私的な家紋として裏紋・替紋・副紋などと呼んで使いわけています。親子夫婦の間柄であるにもかかわらず、男女が異なる紋章を使用する例は珍しいことではありませんし、それらの紋章は、いずれも本人が所属している家の構成員であることをあらわしていることにかわりはありませんが、関西以西で使われる母親ゆずりの「女紋」はそうではありません。これは、あきらかに婚入した女性の生家を経由して女性の系譜をたどっているものです。そして、女性が父方・夫方の紋章を使うことはありません。
 つまり、「女紋」は、その家に生れた女だけが用いるものです。嫁は自分の母方の実家の紋を使います。ですから、この女紋は、実家で何かコトがあるときに着てゆくことになりますと、女たちがみなずらりと同じ女紋を着けることになるのです。なかでちがう紋を用いているのは他家から嫁いできた嫁で、これはまたその実家へいくと、同じ紋の仲間と群れることになるのです。そして女たちは、同じ紋同士の連帯感をじっくりたしかめ合い、違う女紋をつけている嫁を、それとなく排斥し合うとか……。

 女紋の出来た理由は、様々にいわれていますが、嫁入り道具に女紋がほどこされることから、財産権の表明と出自の確認が主目的であるといわれています。
 女紋のついた品物に手を付けた男は社会的信用をなくしたといいますし、女紋の効用と言えるかどうか分かりませんが、同族女性の着物の貸し借りに便利であるとか、たとえ離婚してもそのままにきものが使えるとか、などといわれることもあります。関西・西日本では「染め抜き紋」が一般的ですが、女紋の習慣の無い関西・東日本の方に「縫紋」や「貼付紋」が多いというのも女性の自衛手段なのだと思えば納得できる気がしますね。また、江戸時代に、夫婦が離婚した場合には、江戸では男子・女子とも夫についたのですが、大阪では男の子は父親に、女の子は母親につく習わしであったということも、関西で女紋が普及した背景の一つであろうかと思います。
 また、女紋が習慣化したのは、江戸時代の後半以降のことといわれますが、このころ婚礼道具をそろえられるのは、相当経済的余裕のある階層の人達ですから、もともとは実家の家柄を示すためものであるともいえます。女紋も、もともとは家紋の替紋であったと言います。女性の優雅な衣服や調度に合わせた繊細な替紋が、女紋として定着していったのです。
 女性の地位が低く、○○の女(むすめ)とか○○の嫁とかしか呼ばれずに、女性の名前が残らない時代には、女紋こそが出自を示す大切なものであったのではないでしょうか。時代が下っていくに連れて、一般の者もこれを真似るようになっていくために、女紋として代々母から娘に伝えることで差別化を図るようになったのではないかと思います。一般に「通紋」としての「五三の桐」を女紋という場合もありますが、本来の「女紋」を使用する人達の中には、これを貸衣装の紋と考えている人も多くいます。

 現在でも、「女紋」を知らない関東・東日本の方に嫁いだ女性が葬祭の際に婚家の紋を使わないことに腹を立てて、離縁されたり、「いつまでも婚家に馴染まない嫁」と言われたりすることもあるようです。たかが紋ではありますが、この地域差に理解がないがために、きものの紋の付け方でひとつで悲劇に発展してしまうようなケースも実際にあるようですから、馬鹿にすることは出来ません。紋一つをとっても、日本の根深い女性問題、家長制度をかいま見ることが出来るのです。

 一般に、紋の大きさは、男紋の一寸(鯨尺、約38mm)に対して、女紋では五分五厘(約20mm)と小さくなります。

 紋の位置と数

用 途 紋を付ける所
五つ紋 正礼装 黒留袖、喪服、黒羽二重羽織(色留袖等) 背縫い中央(1)、両外袖(2)、両胸元(2) *
三つ紋 準礼装 色留袖(絵羽織、色無地等) 背縫い中央(1)、両外袖(2)
一つ紋 略礼装 (振袖、江戸褄風の訪問着)、色無地、江戸小紋、絵羽織、四つ身等 背縫い中央(1)

*それぞれ、背紋、袖紋、抱き紋(胸紋)といいます

3-2 きものの紋(呼び方・分類)

a) デザインの形式

名称 日向(ひなた)
(陽紋)
陰紋 葉陰紋
(中陰紋)
絵柄を面で表す
輪郭を細い線で表す 太めの輪郭線で表す
用途 正式 略式 略式
五つ紋、三つ紋、一つ紋 一般的に一つ紋 三つ紋、一つ紋
黒留袖、黒羽二重羽織、喪服、(色留袖、色無地の一部等) 色留袖(色無地、江戸小紋等) 色無地、江戸小紋等

b) 技 法

名称 技法 用途
染抜紋 生地の紋場に、初めから紋を染めたもの。 正式 黒留袖、色留袖、黒羽二重羽織、喪服、色無地の一部等
色絵染紋 紋場だけを色抜きし、改めて紋を描く。 正式 紋なしで石持でない染め上がり生地に紋を付ける場合、または紋を変更する場合。
縫紋 刺繍により紋を縫い出す。
略式 色無地、江戸小紋等
貼紋
(切付紋)
別の白生地に書いた紋を、貼り付けるか、まつり付ける。
略式 紋の変更時に生地が弱っていたり、染め直しで前の色がうまく抜けない場合、または、織りの着物に染め紋をつける場合等。

C)柄(通常の家紋以外のもの)

名称 説明 用途
伊達紋 紋本来の意味を持たず、山水、花鳥、文字などを装飾的にデザインした紋。 おしゃれや、他人に自分の素性を知られたくない場合に使われた。芸妓等の華美な衣服に用い、おしゃれとして付けることもあります。
加賀紋 友禅染めなどで花鳥風月の図案に極彩色を施した紋。 中央に本来の紋を据え、その周囲を飾るものと、装飾だけで紋を据えないものとがあります。少年少女の羽織等に用い、おしゃれとして付けることもあります。
比翼紋(二つ紋、並べ紋) 二つの紋を並べて作った紋。 名家同士の婚姻等を機に、両家家紋を並べて作った。また、江戸時代、相愛の男女が対の小袖に比翼紋を染めて逢引きしたり、ひいきの役者の紋と並べて作ったそうです。

d)紋の選択

名称 説明
表紋(定紋) 家紋のことで、各家の正式な紋。一般に男系を通じて受け継がれる男紋を用います。
裏紋(替紋
、副紋、控紋)
略式の紋で、複数の紋を持つ家では表紋以外の紋。また女性の、婚家の紋に対する実家の表紋、女紋、通紋等のことです。
実家の表紋 実家の家紋。
女紋 女系で受け継がれる紋で、結婚後もそのまま使用し、その娘が母方の家紋を受け継ぎます。 表紋に比べて小形で線の細い優美なものが多く、丸のないもの、陰紋や中陰紋、「糸輪」という細い円の中に原型の紋の一部を表わす「覗き」などが多く使われます。
通紋 五三の桐等、その家の家紋に関係なく、どこの家でも用いてよいと考えられている一般的な紋です。

e)女紋の代表的なモチーフ

五三の桐 通紋として有名で、縁起の良い紋章とされています。「桐」は皇族の替え紋で、皇女が降嫁するする際に贈られる下賜紋でもあります。豊臣秀吉もこの紋を下賜され、また、自らも家臣に再下賜しています。
生命力が強く、他にからみつきどんどん成長することから、女の性(さが)を象徴する縁起の良い植物だと言われています。江戸時代には、芸人、水商売をはじめ大名家まで広くもちいられました。
揚羽蝶 左右対称の紋形式の原則を破った珍しい形の紋です。壇ノ浦で亡びた平氏の女の魂は抜け出して蝶になったとか。平氏諸家に多く見られる優美な家紋として知られています。

f)主な女紋


3-3 紋 の 歴 史

 わが国において、紋章がもちいられはじめたのは平安時代のこととされています。皇族や貴族たちが、中国風の雲竜紋など、瑞兆を尊ぶ文様や、好みの花鳥紋を選んで衣服や牛車にほどこしていたのが始まりといわれます。
 藤原氏の隆盛とともに門地門閥が政治的にも重要な要素となって家系を尊ぶ風が生じ、貴族たちのあいだでは、正装の束帯の袍(ほう)や牛車に自家特有の文様をもちいることが流行しました。後には、その文様によって人物を識別することもおこなわれるようになり、貴族の世界では、衣服の文様はしだいに固定化して特定の身分をあらわすようになっていきました。

 その後、あらたな支配勢力として武家が台頭してくるようになると、戦場でその存在をアピールするため、遠目にもわかりやすい奇抜で独創的な旗指し物や馬印の類がさまざまに考案され、集団の標識として重要な機能をはたすようになりました。また、旗指し物や馬印とは別に、所属と主従関係をあきらかにする識別標識も必要になってくるようになると、紋章が家紋として整備されるようになり、しだいに紋章を家門の表象として制度化していくようになったのです。
 江戸時代に、礼服への使用が定められると、デザインも優美になり、様式化が進みました。また、裕福な町人もこれを真似て様々な紋を作ったので、家紋は多数に膨れ上がり、今日に至っています。

 平安時代の貴族たちに愛好されたものは、優雅な有職(ゆうそく)文様でしたが、戦場での識別標識化が進行した武家の紋章は、視覚的なインパクトの強さが求められたために、大胆奇抜なものが多かったのです。しかし、近世にいたって世情が安定するとともに、紋章のデザインはふたたび優雅さが希求されるようになって洗練の度を増してゆき、同時に、紋章は、武家が支配する封建体制のなかで家格・出自を示す家紋としての政治的・社会的意義が重視され、ステイタス・シンボルとして下賜・継承のシステムが制度化されていきました。そして、それは、武家の主従関係だけにとどまらず皇族や公家たちの使用する紋章にも波及していったのです。

 皇族の紋章は、同じ菊花紋ではあっても、嫡流と傍流によってデザインが異なっていて、近代における皇族の紋章のあり方は、制度化された紋章の典型です。
 皇族の紋章というと、私たちはすぐに十六弁の菊花紋を思いおこして、皇族なら誰もがこの紋章を使っていると思いがちですが、実際はそうではありません。皇族の紋章に関する取り決めは、大正十五年(一九二六)に制定された皇室儀制令によっていますが、現在の皇室の紋章は「十六薫八重表菊形」で、この紋章は、天皇と太皇太后、皇太后、皇后、皇太子、皇太子妃、皇太孫、そして、皇太孫妃以外の皇族は使えません。傍流の宮家には、別にそれぞれの紋章があって、ひとくちに菊の紋章といっても、皇族の紋章には多くのバリエイションが見られます。そして、親王以下の皇族は、共通の紋章として「十四葉一重裏菊形」を使用することになっているのです。また「五七の桐」は、皇室の替紋にあたるものです。

  

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