2-3.小袖の付属衣料
(1) 被衣
かつぎ、またはかづきとも読まれています。衣をかづくという動詞から衣かづきとなり、かつぎと呼ばれるようになったようです。
かつぎは衣かつぎという言葉でもおわかりのように、女性が外出の折、頭からかぶった特種な服具のことです。
こうした風習は平安時代頃から始ったようです。鎌倉時代には庶民間にも普及し、庶民は小袖、帷子の類をかづいていました。公家では中世以後五歳になると外出には被衣を用いる定めが出来、「被衣初め」という儀式も行われました。
室町時代の筆になる『犬上購御名之事』という書物によると、
「女房はかづきはなして、白かたびらき
るべからず、そのうへほんしきは、かづ
きもねり也。袖は左をうゑにかさねるな
り」
とあって、着装上のしきたりも生まれたようです。
近世になると、公家女房の被衣も小袖形になり、生地には主として絽などが使われるようになりました。またその形態は、襟肩明きを肩山から10センチ程下げてつける独特の仕立もなされるようになりました。京阪等では永く後世まで被衣の風習は続きましたが、江戸では早い時期から、その風俗は中止されてきました。それは被衣をかぶった刺客が老中松平伊豆守を狙ったという事件があったからだと伝えられています。
庶民の被衣は常の小袖の仕立と全く変りなく、生地は主として麻で、全体に型染で文様を染め出したものが多く、色も藍を主体にしたものでしたが、丁度頭上にあたる部分に菊花や梅花の円文が付けられているのが特色でした。
地方によっては近年まで、婚礼の花嫁や葬儀の際に近親者が白絹の被衣をかぶる風習が残っていました。
(2) ゆかた
ゆかたは湯帷子(ゆかたぴら)の略で、昔は内衣、明衣の文字も使われてきました。この湯帷子は本来湯あみの際に身にまとった衣のことですが、湯あみの後に身を拭い、汗取りに着た衣も同じように呼ばれてきました。
そのため室町時代の末頃には「身拭い」とも呼ばれていました。近世に至るまで湯帷子は主として上級者のものでしたが、室町末頃から次第に一般にも普及し、江戸時代には広く庶民にも用いられるようになりました。しかし、庶民の世界では、湯上りの衣として用いられただけでなく、木綿の単衣という実用性によって、夏の普段着や時には雨具としても利用されました。
そうしたわけで、江戸中期末ごろからは、ゆかたは身拭いという補助的な衣と、夏の庶民の常着という新たな衣服との二つに分化するようになりました。そして、浴衣として用いるときは袂を縫ず広袖として、また、単衣の代わりに着るときのゆかたは、帷子や単衣の円袂に対して角袖という形態上の特色を生じたのです。
こうして、ゆかたは庶民にふさわしい夏衣裳として一つの地位を占めることとなったのですが、所栓は家着であり、江戸時代には、遊びなどのほかは日中の外出などには原則的には着用されなかったようです。
(3) 襦袢(じゅばん)
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半襦袢
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襦袢というのは外国語です。といえばまさか、とおもわれる方もあるかも知れませんが、襦袢はポルトガル語からできた言葉なのです。襦袢という言葉が一般に使われるようになったのは江戸時代になってからのことです。
襦袢と呼ばれる以前の肌着は装束の単衣であり、内衣としての小袖でした。鎌倉時代には肌小袖と呼ばれていました。
ポルトガル語のジバン(JIBAO)は丈の短い袖なしの一種の胴着のようなもので、その当時、肌着とされていたのも同じく丈の短い半襦袢であったようです。この半襦袢はその後も長く用いられており、当時は長襦袢より一般的なものでした。女褌(したばかま)の形に似たものを京阪では 「裾除(すそよけ)」、「脚布(きやふ)」、江戸では 「蹴出(けだ)し」と呼びました。つまり一般には半襦袢に裾除が用いられたのですが、これが一緒になったのが長襦袢だといわれています。
長襦袢が現れたのはほぼ元禄頃といわれ、遊女などから流行しはじめたようです。
その生地も羽二重や綸子、絖(ぬめ)などの絹物に墨絵や刺繍などをほどこした大へん贅沢なものでした。このように長襦袢が派手になり装飾性が強くなったのにともなって、実用的な半襦袢は腰切襦袢とも呼ばれ、また肌着と別に半身の肌襦袢ができました。
(4) 足袋
今日では足袋は防寒という実用目的だけでなく、儀礼的な意味も多分にもっています。礼装にさいして、誰しも足袋をはく習慣となっているのは、その表われです。この儀容と実用という相反する足袋の性格は、足袋が二つの系統から発達してきたことを物語っています。
第一の系統は奈良時代に制定された礼服や朝服一具の中に含まれてきた襪(しとうず)です。襪は指先の分れていない靴下式で、礼服には錦、朝服には白絹が生地とされていました。この朝服の襪はその後束帯に受継がれ、白絹の襪は儀容を整えるための必要品であり、貴人の用いるものとされてきたのです。
これに対して第二の系統は、もっぱら足の保護や保温を目的とした革製の単皮から出発したもので、室内より室外ではくものとして武家や庶民間で用いられてきました。中世武家では主君の許可なしには殿中で足袋をはけず、素足が普通であったのです。
病人でも足袋をはくことを許されたのは50才以上で、時期も十月一日から二月二十日の間とされていました。
御殿女中にあっても同様で「襪御免」の許しがなければ足袋ははけませんし、期間は九月十日から三月晦まででした。指先の割れた現在の足袋の形ができたのはいつごろかは明確でありませんが、絵画資料などからは鎌倉時代とされています。
女性も古くは革製の足袋をはいていましたが、江戸時代初期頃は紫に染めた鹿皮の足袋が晴れの装いでした。
革足袋に代って木綿足袋が普及したのは明暦三年(1657)の江戸大火後のこととされています。現在のような「こはぜ」が考案されたのは元禄頃のことで、それまでは紐で足首にくくるという作りでした。
前述のように武家では足袋は許可制でしたが、町人の使用は自由で制限はありませんでした。そのため江戸時代には、白足袋のほか薄柿や黄、浅黄、萌黄、紺、鼠、黒などという色足袋や、小紋染足袋などもつくられ、男女共に用いられました。
江戸時代、足袋は防寒のため広く普及しましたが、足袋は野暮だと真冬でもはかず、素足の美を誇りとした深川芸者もいたそうです。