2 小 袖

 平安時代の後期頃より、貴族の下着である白小袖が上着として着られるようになり、肌着と見間違われないように色や文様を付けるようになっていきました。絵巻にも、都やその近辺の庶民が着ていた小袖に色や文様をつけたものが描かれています。
 小袖の形は袖口の狭いのを特徴としていて、小袖という名も袖口の小さな着物というところからきています。公家が着ている広袖(大袖)の衣と比較して、下着に用いた筒状の袖のものを小袖と云いました。
 つまり、小袖とは袖の広さをいうのではありません。時代とともに、小袖の形は、ゆき・袖丈・袖幅・身丈・身幅・ふき等の長短が変化して、袖の下辺部に丸みが付き、袖丈が長くなって袂ができても袖口は小さく昔のままであったので、こういう袖の着物を小袖と呼ぶようになったのです。
 この袖の形は、今日まで受け継がれていて、小袖は現代のきものの基になったと言われています。

2-1.小袖の変遷

 現代のきものの基になった小袖が、社会の主体的な衣服となったのは、室町時代中期以降のことです。室町時代後期、戦国の世となるにつれ、小袖が発達して、絹の小袖、麻布の小袖の相違はあっても、日本の多くの人々が小袖を着る時代となりました。武士や町衆と呼ばれる庶民は小袖を立派にして上着として用いるようになっていきました。女性は、公家以外には袴をはく人はほとんどいなくなり、小袖で過ごす生活が普通となりました。
 このころの小袖は、対丈(ついたけ)で身幅の広く、袖幅が狭い(身幅のほぼ半分)もので、縦褄が短い仕立でした。

腰巻姿
 上級武家の女性は、小袖と同じ形で身丈の長い着物を打掛と称して、公家の袿姿を手本にして小袖の上に羽織るように着ました。これによって普通の人々とは異なる身分であることを示したのです。その下に着た小袖も、武家の格式と華麗な美しさを表わすために公家の袿をまねて何枚も襲ね着したのです。これを打掛姿、腰巻姿(小袖の着流しの上に、別の小袖を打掛てから両肩を脱いで腰に巻く姿)といいましたが、打掛姿の構成は上から打掛、間(あい)着、下着、肌着となっています。
 公家の装束では下着の白小袖以外は帯で締めず羽織るだけで、それぞれの材質、色彩、文様の組み合わせに気を配り、季節観などを表現していますが、それに対して、小袖では打掛を除き一枚一枚を絎(く)け紐や3〜4センチの細巾の帯で締め結んで、色彩や文様の制約が無く自由なのが特徴です。

寛文小袖
 長くつづいた戦国の世も終りを告げ、江戸時代になると寛文時代(1661〜72)を中心とした時期に、流行した大胆で伸びやかな調子の文様を絞り染と刺繍で描いた寛文小袖と一般に呼ばれるものが現れました。慶長のころには、強装束の固い材料は礼装のみとなり、練絹、紗綾、綸子の様な柔らかい素材で身幅を狭め、袖幅を拡げて身幅と同様に仕立てるようになりました。元禄ごろになるとユキ・丈の長いゆったりしたものになって、いわゆる左褄をとるきものになっていきました。

 小袖形態の細部の変化はありましたが、全般から見れば次第に長大化して、身丈をまし、袖幅をまして、しだいに今日の和服の形となっていったのです。

褄をとる女

  

 (1) 袖丈の変遷

 元来は留袖(付詰袖)に対して、振りある小袖のことを振袖といったのですが、後には袖丈の長いきものを指すようになり、今日に及んでいます。
 振りのある小袖は幼児や少年、少女には古くから用いられていて、室町時代にはそれを脇明けの小袖と呼んでいました。
 こうした伝統から、振袖は江戸時代にあっても、西鶴の『俗つれづれ』に

 「少年の時は脇明の袖下長く、男子は十七の春定まって丸袖に成し、女子稼につくも付かざるも十九の秋塞ぐ事、律義千万なる代も有って過げる。今時の芝居三十六七までも大振袖は是れ世渡りの種ぞかし…」

とあるように、本来はもっぱら十代の若い人たちのものでした。

 江戸時代初期の振袖は大振袖といっても、一尺五寸の袖丈が通例で、六尺袖とも呼ばれていました。六尺というのは一尺五寸で片袖三尺、両袖で六尺の用布に由来していると言われます。
 袖丈は寛永頃(1624〜1644)は鯨尺の一尺七、八寸、貞享頃(1684〜1688)に二尺、元禄(1688〜1704) には二尺四、五寸、宝暦・明和頃(1751〜1772)は三尺袖と通称された三尺八、九寸の地を引きずるまでになりました。袂の形も初期には薙刀の刃のような丸味のある形であったので、なぎ袖と呼ばれ、また別に鶯袖、そぎ袖などとの呼称もありました。
 今のような角袖風の袂になったのは元禄末期からのことです。なお現在では二尺五、六寸丈のものを中振袖と言っていますが、今の訪問着の袖丈ぐらいのものを大振袖に対して、そう呼んだのです。

 年令に拘らず花嫁は振袖を着用しましたが、嫁して後振袖を止めるのを「袖留」と言って祝いました。江戸時代には一定の年令に達すると、振りを縫いふさいだ付詰袖のきものに替える風習がありました。この振りを留めた袖が留袖で、大奥などでは袖留の祝が行われました。今日では一般に婚礼に着られる褄文様の紋付を留袖と称していますが、留袖の由来はこの「袖留」の祝に基づいています。
 脇明けを縫いふさぐ留袖は本来男女共、小児と大人の区別であったのですが、女性の小袖類は帯の巾が広くなるのに伴って、付詰袖では具合が悪く、また袖丈も長くなったため、既婚者も振りを付けるようになり、未婚、既婚の別はもっぱら袖丈の長さ、つまり娘は二尺四、五寸(約83センチ)から三尺八、九寸(約118センチ)に及ぶ大振柚、嫁入後は一尺二、三寸(40センチ前後) の袖丈ということになって、この振袖を短く留めることが、留袖の意味になってきたのです。

 (2) 帯の変遷

 当初の帯は、小袖を身につけるという実際的の面のみしか意味がなかったので、いたって細いもので、内衣の紐が表面に表れたという程度でした。また結び方も、結び目も一定でなく、地質も表着の余裂 (あまりぎれ)を利用し、平ぐけにするというのが普通であったようです。しかし、桃山時代から江戸時代初期には、平ぐけ帯の他に名護屋帯と呼ばれる組紐の帯も用いられるようになりました。

 江戸時代になって、小袖の形態は現在のきものにほぼ近くなりましたが、寛文前頃までは依然として一般の女帯は二寸乃至二寸五分巾で、六尺五寸ぐらいの長さであったようです。結び方は突込(つゝこみ)帯といって、帯の端を巻きつけた帯の間にはさみ込んだ簡単なものか、花結びくらいでした。

見返り美人図(吉弥結び)
 しかし、寛永頃から、遊女達はすで五寸程の広幅の帯を用いていたようで、寛文、延宝の頃から、この広幅の帯が一般に流行しはじめ、特に当時人気のあった歌舞使役者の上村吉弥が、舞台に広幅帯を結んで出たことがきっかけとなって、広幅尺長の帯が広く用いられるようになったと言われています。
 結び方も、この吉弥のそれを真似て、帯の両端に鉛を入れ、結び余りがだらりと垂れるようにしたのを吉弥結びと称え、非常な流行をみたと伝えられています。
 このように、次第に幅広となっていった帯は、元禄時代には九寸近い幅となり、長さも八尺から一丈二尺でした。地質も繻子、綸子、モール、ビロード、緞子、繻珍、唐織などの他友禅、刺繍、絞等もありました。結び方もいろいろな形ができて吉弥結び、同じく歌舞伎役者の水木辰之助から流行った水木結び、カルタ結び、はさみ結び、ひっかけ結び、御所結びなどの種々の結び方が起って、それぞれの身分や職業年齢によってその形を異にするようになりました。
 一丈二尺に九寸幅というのが、ほゞ享保以後帯の規準となり、結び方も更に種類が増して帯は女装美の中心をなすに至りました。
 現在も行われている文庫結びは宝暦、明和の頃に始まり、また最も一般に普及している太鼓結びは、文化十年(1813)江戸亀戸天神の太鼓橋が再建された時、芸者衆がそれにちなんで結んだ帯の形と言われています。

 初期の帯は、前帯中心でしたが、横結びも後ろ結びも併せて行われていました。しかし、帯が広くなるにつれて前結びの結び目が邪魔になったことから、文化文政のころからは次第に後ろ帯が中心になっていきました。帯留をするようになったのも、ほぼこの頃からで、結び方も二十種以上あったようです。

 (3) 染織・模様の変遷

 小袖はもともと内衣(ないい・下着)であったため白地から発達していきました。最初は、この形を残したまま、肩裾にのみ模様をつけ中間を空白にしたものや、腰部のみに模様をつけたものなどがあらわれてきます。一方民間の小袖では、全体に簡単な色や模様をつけたものや左右半身づつ色を変えた「片身がわり」の小袖も用いられるようになっていきました。

片身がわり
肩裾模様

 室町から桃山時代にかけては技術の面でも新しい分野がひらけました。この頃の衣服の代表的なものは、薄絵・繍もの・つじが花などです。薄絵は摺箔(すりはく)のこと、繍ものとは繍箔・縫箔(ぬいはく)のことで、これらは当時盛になった能衣裳などにそのけんらんさが見られます。外来の文様や、新しい手法によって、従来の有職文様から自然風物などの文様に移って、次第に小袖の模様は豪華なものとなっていきました。

友禅模様

 江戸時代になると、地方での機業も盛んになり、衣服も豊富になってきました。金銀糸の縫はすたれて彩色縫がおこり、貞享、元禄期には、総鹿子絞や糊防染と顔料化させた染料や顔料を塗り付けて色挿しを行う技法の友禅染が完成されました。これは長い年月にわたって工夫が凝らされ、徐々に発達し、開花したもので宮崎友禅という画法師が一人で発明したわけではありませんが、彼は従来のものに加えて一段と美しい染色を完成させたのです。これによって絵模様という小袖染織の到達点にたどり着きました。

 その後、友禅染がさらに技巧的になり、文様というより平板な絵となり、説明的となって生々とした調子を失い内容も薄れてきた頃には、多彩で華やかな友禅染の世界と対照的な、粋(いき)や渋好みという新しい美意識が町人の中から生まれ、縞物や小紋が流行しました。

 模様の配置では、江戸時代前期の寛文(1661〜1673)前後には多くの場合、肩の方に文様の重点が置かれ、上から下へと垂下するような構成となっていました。それが元禄(1688〜1704)前後からは次第に逆転して、文様の重点は裾の方へ移っていきました。それは、腰あたりまでの半文様から更に宝暦(1751〜1764)頃には一尺模様、七寸模様などといわれる裾から褄の上方へかけて模様がつけられる江戸褄ができました。
 江戸褄とは江戸褄文様の略称ですが、今日一般にはこの文様づけをした既婚婦人の正装である黒留袖を指しています。本来は裾から立褄( たてつま)にかけてついた文様の配置法に対する呼称で、かならずしも礼装に限られたものではなく、芸者の座敷着などには、この江戸褄が盛んに用いられました。

江戸褄

 こうした変化は、一つには帯の幅がだんだん広くなり、帯結びの位置も次第に後に統一されるようになって、服飾上帯のしめる役割が非常に大きくなったこと、二つには、結髪がしだいに大形化し、櫛笄の使用が著しくなったこと。更に三つには身丈を長く仕立て、裾引きに着る着付が一般化したことからできてきたものです。

 このように帯の発達とともに、模様はしだいに下方に蔵められるようになり、その空白に花鳥草樹などを丸く模様化した伊達紋をつけることも行なわれるようになって、これから定紋付もできてきました。
 さらに褄文様の流行は「江戸褄」「惣江戸褄」「褄下もやう」という細分化をみたほか、江戸褄文様が更に襟から胸にまで及ぶ島原褄の出現をみるに至りました。

 

2-2.小袖の着方

 女性の礼装は室町末に打掛を中心とした形式ができ、江戸時代にこれが完成して、御殿女中のかいどり姿となりました。
 その構成は、冬は打掛・間者・下着類・付帯、夏は、腰巻・帷子(かたぴら)・下着類・提帯(さげおぴ)でしたが、季節によって次のように着る時期が決まっていました。

 四月一日より五月四日までは袷。五月五日より八月晦日までは単帷子(ひとえかたぴら)。九月一日より九月八日までは袷。九月九日より三月晦日までは染小袖(綿入)です。
 打掛から腰巻になるのは四月一日から九月八日までで、江戸末期安政ごろからは略儀には五月五日から用いました。腰巻はお小姓以下は用いないとされていました。

 衣服を二領・三領重ねる場合には、古くは別々に襟を合せたましたが、安永・天明頃からはニつ衿・三つ衿といって重ねて合わすこようになりました。

(1) 打掛

打 掛
 一番上に着る小袖で地質は綸子と縮緬地があり、中臈以上は綸子で、色も自・黒・赤・桃色などで、これに金銀彩糸(いろいと)の総縫(そうぬい)模様、鹿子(かのこ)入りなどの美しいものでした。しかし桃色地には総模様はつけず、また、御次女中以下は金銀彩糸の縫の半模様の綿入の縮緬類を用いました。裏はすべて紅羽二重です。

(2) 間着

 小袖の中心となるもので、打掛の下に着ます。中臈以上は綸子、それ以下は縮緬、色は赤が主で、緋綸子の金糸縫取模様、他に白・黄などがあります。縮緬地の間着も同じで、鬱金の紋縮緬には縫をせず、御次女中以下は、緋縮緬は金糸、白縮緬は銀糸の五定紋をつけ、以下は細入の紋裾といって裾模様の三つ定紋付を着ました。

間着と下着

(3) 下着

 胴着・肌着の類は表裏とも原則として白羽二重です。

(4) 付帯

 間着の上にする帯で、地は繻子で、仕立幅七寸位(2.6センチ)、それに金糸の総縫模様があります。お小姓は緋繻子、お側お次は黄繻子、それ以下は黒繻子で裏は黄繻子の腹合せでした。つけ帯はまた、かけした帯とも、かけ帯ともいいました。

(5) 腰巻

 練貫(ねりぬき)地の黒を本式として、これに金銀彩糸の総縫模様です。裏は紅の生絹ですが、のちには練貫を用いました。

(6) 帷子(かたびら)

 中臈以上は本辻といって、白または黒地の晒麻に金銀彩色の総縫模様をしたもので、袖口には紅羽二重をつけました。下着はさらしを用い、袖口は白羽二重です。お小姓、お側女中は茶屋辻といって、帷子で白地に茶や藍色などで模棟を染め出したものに、袖口には紅羽二重をつけ、下着はさらしで、袖口は白羽二重をつけました。御三間・御乳などは紋裾の帷子にさらし染模様の下着です。

(7) 提帯(さげおび)

 帷子の上に締める帯で、中臈以上は唐織・錦など、小姓以下は錦・繻子の類、裏は紅絹。幅ははじめ二寸五分(9.1セソチ)位でしたが次第に広くなり、三寸五分(13センチ)位となり、長さは曲尺(かねじやく)で一丈二尺(3.63メートル)位です。両端を丸く棒状にくけ、これに板目紙の芯を入れ、結んだ余りを固く突張らして、これに腰巻の袖をかけるといったことも行なわれました。

 

2-3.小袖の付属衣料

(1) 被衣

 かつぎ、またはかづきとも読まれています。衣をかづくという動詞から衣かづきとなり、かつぎと呼ばれるようになったようです。

 かつぎは衣かつぎという言葉でもおわかりのように、女性が外出の折、頭からかぶった特種な服具のことです。
 こうした風習は平安時代頃から始ったようです。鎌倉時代には庶民間にも普及し、庶民は小袖、帷子の類をかづいていました。公家では中世以後五歳になると外出には被衣を用いる定めが出来、「被衣初め」という儀式も行われました。

 室町時代の筆になる『犬上購御名之事』という書物によると、

 「女房はかづきはなして、白かたびらき
 るべからず、そのうへほんしきは、かづ
 きもねり也。袖は左をうゑにかさねるな
 り」

とあって、着装上のしきたりも生まれたようです。

 近世になると、公家女房の被衣も小袖形になり、生地には主として絽などが使われるようになりました。またその形態は、襟肩明きを肩山から10センチ程下げてつける独特の仕立もなされるようになりました。京阪等では永く後世まで被衣の風習は続きましたが、江戸では早い時期から、その風俗は中止されてきました。それは被衣をかぶった刺客が老中松平伊豆守を狙ったという事件があったからだと伝えられています。

 庶民の被衣は常の小袖の仕立と全く変りなく、生地は主として麻で、全体に型染で文様を染め出したものが多く、色も藍を主体にしたものでしたが、丁度頭上にあたる部分に菊花や梅花の円文が付けられているのが特色でした。
 地方によっては近年まで、婚礼の花嫁や葬儀の際に近親者が白絹の被衣をかぶる風習が残っていました。

(2) ゆかた

 ゆかたは湯帷子(ゆかたぴら)の略で、昔は内衣、明衣の文字も使われてきました。この湯帷子は本来湯あみの際に身にまとった衣のことですが、湯あみの後に身を拭い、汗取りに着た衣も同じように呼ばれてきました。
 そのため室町時代の末頃には「身拭い」とも呼ばれていました。近世に至るまで湯帷子は主として上級者のものでしたが、室町末頃から次第に一般にも普及し、江戸時代には広く庶民にも用いられるようになりました。しかし、庶民の世界では、湯上りの衣として用いられただけでなく、木綿の単衣という実用性によって、夏の普段着や時には雨具としても利用されました。

 そうしたわけで、江戸中期末ごろからは、ゆかたは身拭いという補助的な衣と、夏の庶民の常着という新たな衣服との二つに分化するようになりました。そして、浴衣として用いるときは袂を縫ず広袖として、また、単衣の代わりに着るときのゆかたは、帷子や単衣の円袂に対して角袖という形態上の特色を生じたのです。

 こうして、ゆかたは庶民にふさわしい夏衣裳として一つの地位を占めることとなったのですが、所栓は家着であり、江戸時代には、遊びなどのほかは日中の外出などには原則的には着用されなかったようです。

(3) 襦袢(じゅばん)

半襦袢

 襦袢というのは外国語です。といえばまさか、とおもわれる方もあるかも知れませんが、襦袢はポルトガル語からできた言葉なのです。襦袢という言葉が一般に使われるようになったのは江戸時代になってからのことです。

 襦袢と呼ばれる以前の肌着は装束の単衣であり、内衣としての小袖でした。鎌倉時代には肌小袖と呼ばれていました。

 ポルトガル語のジバン(JIBAO)は丈の短い袖なしの一種の胴着のようなもので、その当時、肌着とされていたのも同じく丈の短い半襦袢であったようです。この半襦袢はその後も長く用いられており、当時は長襦袢より一般的なものでした。女褌(したばかま)の形に似たものを京阪では 「裾除(すそよけ)」、「脚布(きやふ)」、江戸では 「蹴出(けだ)し」と呼びました。つまり一般には半襦袢に裾除が用いられたのですが、これが一緒になったのが長襦袢だといわれています。

 長襦袢が現れたのはほぼ元禄頃といわれ、遊女などから流行しはじめたようです。
 その生地も羽二重や綸子、絖(ぬめ)などの絹物に墨絵や刺繍などをほどこした大へん贅沢なものでした。このように長襦袢が派手になり装飾性が強くなったのにともなって、実用的な半襦袢は腰切襦袢とも呼ばれ、また肌着と別に半身の肌襦袢ができました。

(4) 足袋

 今日では足袋は防寒という実用目的だけでなく、儀礼的な意味も多分にもっています。礼装にさいして、誰しも足袋をはく習慣となっているのは、その表われです。この儀容と実用という相反する足袋の性格は、足袋が二つの系統から発達してきたことを物語っています。

 第一の系統は奈良時代に制定された礼服や朝服一具の中に含まれてきた襪(しとうず)です。襪は指先の分れていない靴下式で、礼服には錦、朝服には白絹が生地とされていました。この朝服の襪はその後束帯に受継がれ、白絹の襪は儀容を整えるための必要品であり、貴人の用いるものとされてきたのです。

 これに対して第二の系統は、もっぱら足の保護や保温を目的とした革製の単皮から出発したもので、室内より室外ではくものとして武家や庶民間で用いられてきました。中世武家では主君の許可なしには殿中で足袋をはけず、素足が普通であったのです。

 病人でも足袋をはくことを許されたのは50才以上で、時期も十月一日から二月二十日の間とされていました。
 御殿女中にあっても同様で「襪御免」の許しがなければ足袋ははけませんし、期間は九月十日から三月晦まででした。指先の割れた現在の足袋の形ができたのはいつごろかは明確でありませんが、絵画資料などからは鎌倉時代とされています。

 女性も古くは革製の足袋をはいていましたが、江戸時代初期頃は紫に染めた鹿皮の足袋が晴れの装いでした。
 革足袋に代って木綿足袋が普及したのは明暦三年(1657)の江戸大火後のこととされています。現在のような「こはぜ」が考案されたのは元禄頃のことで、それまでは紐で足首にくくるという作りでした。

 前述のように武家では足袋は許可制でしたが、町人の使用は自由で制限はありませんでした。そのため江戸時代には、白足袋のほか薄柿や黄、浅黄、萌黄、紺、鼠、黒などという色足袋や、小紋染足袋などもつくられ、男女共に用いられました。
 江戸時代、足袋は防寒のため広く普及しましたが、足袋は野暮だと真冬でもはかず、素足の美を誇りとした深川芸者もいたそうです。

  

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