シュヴァリエ・デオン

 通称 シュヴァリエ・デオン(1728〜1810年)は、生涯の49年は男、後、33年は女とみなされ、性別不明な不可解な人物として数奇な運命を送りました。
 洗礼名はシャルル=ジュヌヴィエーヴ=ルイ・オギエスト=アンドレ=ティモテ・デオン・ド・ボーモン、 1728年10月5日、ブルゴーニュ・ワインの中心都市ディジョンに近いトンネールで生まれた実在の人物です。
 小柄で美しいデオンを、母親は女装させて8歳まで女の子として育て、彼も女装を好み、世間から少女として扱われるのを喜びました。
 成長してからは、パリの社交界に進出し、文学者や詩人たちと交際し、自分でも作品を書きました。のちに彼自身の残した回想録によると、この頃、彼はロシュフォール伯爵夫人という女性と親しくしていましたが、彼女は、自分の衣裳箪笥の中 から選んだ豪華な服をデオンに着せて、宮廷の舞踏会に連れて行くのを楽しみにしていたといいます。デオンも、こうして自分がすっかり女になり切り、社交界の紳士淑女の注目の的になることに、悦びを味わっていました。

 1755年、ルイ十五世は、個人的な秘密外交機関「王の機密局」を秘かに設立し、当時イギリス寄りの外交姿勢であった ロシアの女帝エリザヴェータ懐柔のために、美青年デオンをサンクト・ペテルブルクに派遣しました。ルイ十五世は、この女装の天才を利用して、外交上の秘密の任務に当らせようと考えたのです。このロシア行きでは、付添人にイングランド貴族で毛皮商を名乗るダグラス・マッケンジーがつけられ、デオンはダグラスの姪というふれこみで女装させられ、叔父とともに転地保養に出かけるマドモワゼル・リア・ド・ボーモン嬢として過ごさねばならなりませんでした。
 出発前に、デオンはルイ十五世から二重に製本されたモンテスキュー『法の精神』を渡されます。この書物には、仏露同盟を画策したルイ十五世から女帝エリザヴェータへの親書が巧妙に隠されていて、それをロシアの宰相ベストゥージェフには気づかれないようにして女帝にとどけるのが、デオンに託された第一の任務でした。

 1755年7月にパリを出発したダグラスとマドモワゼル・リア・ド・ボーモンは、10月にサンタト・ペテルブルクに到着しました。
 ダグラスはただちに英国大使ウィリアムズを訪れ、宮廷への紹介斡旋を願い出ましたが、好ましい返事は得られませんでした。スウェーデン大使やオーストリア大使にも助力を願いましたが、駄目で、それどころか、ロシアの宰相ベストゥージェフは、早くも偽毛皮商人の正体を見抜いてしまい、ダグラスは急遽、国境まで逃げ帰らなければなりませんでした。
 しかし、リア・ド・ボーモンは、ベストゥージェフがフランスの敵であるなら、彼の対抗馬を探せばよいと考え、宰相の不倶載天の政敵である副宰相ヴォロンツォーフに取り入ることにしました。
 ヴォロンツォーフの籠絡には、デオンの女装は大いに役立ち、美貌のマドモワゼル・リア・ド・ボーモンはたちまち気に入られ、一切の門戸が開かれ、女帝の部屋に出入りする特典すらも得られました。皇后エリザヴュータの宮廷に入りこむことに成功した彼は、朗読係としてこの女帝に仕えました。この奇妙な女性大使にすっかり魅了されてしまった女帝は、デオンにルイ十五世宛の自筆書簡を託しました。
 年末に、『法の精神』の細工をされたカヴァーのなかに隠されたロシア皇后の親書を携えてシュヴァリエ・デオンは、意気揚々とヴェルサイユに戻りました。

 ルイ十五世はデオンの力量を買ってロシア大使館書記に登用し、帰国後、剣術の得意な彼は龍騎兵連隊長にまでなりました。そして1762年、今度はフランス国王の全権公使として、ロンドンのジョージ三世の宮廷に派遣されます。デオンの外交官としての手腕は、目ざましいものがあったらしく、フランスとロシア、あるいはフランスと英国とのあいだに、幾つかの重要な条約を結んでいるほどですが、ロンドンの社交界でも、やはり彼はしばしば女装をして、ひとびとを驚かしては楽しんでいたそうです。
 彼のロンドン生活は贅沢をきわめ、その自宅で催された大園遊会は、宮廷のそれにも匹敵するといわれ、国王や政府は、次第に彼を厄介視するようになりました。しかし長年にわたるスパイ生活のおかげで、彼ほルイ十五世の署名のある、重要な機密文書をいっぱい持っているので、フランス政府は、仕方なく彼に法外な金をあたえて、ロソドンで気ままに遊ばせておくよりほかなかったようです。
 ついにデオンは、機密文書を抵当にして、多額の借金までしてしまいます。
 デオンはルイ15世の死後、およそ外交などに関心のない後継者のルイ16世により、やっかいものとして遇されるようになりました。そこに、天敵であった英国大使ゲルシイ伯爵との間に確執が起こり、彼の性別に関する疑惑が政治問題に発展します。当局者の命を受けてこの機密文書を彼の手から取り返し、交換条件として、フランス本国に帰ることを許可する約束を彼にあたえたのは、劇作家のボーマルシェでした。死ぬまで女として暮すべし、という一件もそのとき、彼によって強引に承認させられてしまいました。
 当時、騎士デオンが果して男であるか女であるかをめぐって、ロンドンやパリで、賭けが行われていたのです。デオンを無理やり女にしてしまうことで、利益を得る人間もいたのです。

 また、一説によると、かつてロシア旅行の折、デオンはドイツのザクセン地方で、メクレンブルグ公爵の邸に逗留したことがあったのですが、その公爵家の令嬢が、イギリス王ジョージ三世の妃ソフィア・シャルロットで、旧知の二人は、ロソドンで急速に親しくなり、ある晩、一緒にベッドに入っているところを発見されてしまいました。フランスとしてはイギリス王を安心させるために、つねづね女の服装をして人目を惹いていたデオンが、じつは本物の女であったということにしてしまえば、イギリス王もコキュ(寝取られ男)の不名誉から免れられるとして、フランスへの帰還に際して、彼を無理やり女に仕立てあげてしまった、というのです。

 最初の仕事で、ロシア女帝に近づく為に女装をしたことが、噂に余計に真実味をもたらし、デオン自身もついに、「貴族の家に男が生まれず、父は仕方なく娘を世継ぎの男子として育てることにしたのです」と、外からの圧力で自ら女であると宣言せぎるを得なくなります。
1777年8月27日、49歳のデオンにルイ十六世の厳命が届けられ、終生、女として生きることを余儀なくされました。

「朕はシャルル=ジュヌヴィエーヴ=ルイズ=オギュスト=アンドレ・ティモテ・デオンに、常日頃着用している龍騎兵の軍服を脱ぎさり、己が性の衣服を身につけることを命じる。同時に、女性にふさわしい身なり以外の服装で、王国内に姿を見せることを禁じる」

 このときデオンの女装一式の誹えを買って出たのは、22歳の若き王妃マリー・アントワネットでした。、彼女は取り巻きの一人ド・ポリニャック伯爵夫人から「哀れな女騎士」の話を聞かされ、彼を女に違いないと信じきって、同情し、関心を持ったのです。
 王妃は、ヴェルサイユのドレスメーカー、ローズ・ベルタン嬢に衣裳を誂えさせ、届け役の侍女に
「どうかあの女に、くれぐれも申し伝えてほしい。剣の代わりに、扇子を持たせることにします、そうすれば、一層女の騎士らしくなりましょう」と命じ、下賜金二万四千リーヴルとともに一本の扇子をそえて、王妃の贈り物としてデオンに授けました。

 ローズ・ベルタンの衣裳一式が出来上がり、1777年10月21日、「童貞一万一千の処女殉教者聖ウルスラの祝祭日に、男性服を完全に放棄し、永久に女性となる儀式が取り行なわれました。
 このセンセーショナルな変貌が大評判となったことは言うまでもありません。これ以降デオンは女装を通し、剣による決闘の時ですら女装をやめませんでした。
 デオンは煩わしい世間の猟奇趣味から逃れるために、ヴェルサイユのコンテ通りの小さなアパルトマンに身を隠しました。女性という新しい「人格」に生きることは、デオンにとっても容易ではなかったらしく、書簡には、苦労のほどを訴えています。

「隠れ家としたアパルトマンのなかで、私は悲しい運命を何とか身につけようとしています。軍服とサーベルを棄て去ってからの私は、尻尾を失ってしまった狐さながらの愚か者です。先のとがった靴やハイヒールで歩こうと努力していますが、一度ならず、もう少しで首の骨を折るところでした……」

 11月の中旬を過ぎてから、「女」となったデオンは宮廷に姿を見せました。予期していたことながら、物見高い連中の好奇の的となりました。
 しかし、残酷なことに、人々の好奇心は、かつてサンタト・ペテルブルクで評判となったマドモワゼル・リア・ド・ボーモンの、あの可憐で華車な「女らしさ」に寄せられたものではありませんでした。
 新聞は、「ひげを刷り、ヘラクレスの体つきをした筋骨たくましい人間は女性とは信じ難い」、と露骨な記事をのせ、皮肉屋のヴォルテールは「化物」と一笑に付し、昔ながらの一人の友人に、「女でも男でもない両性動物」と書き送っています。50歳になろうとしていたシュヴァリエ・デオンには、生娘のイメージはもう縁遠いものだったのです。

 1810年、フェンシングの傷がもとで、ロンドンの裏町で死にました。享年83歳。遺体は解剖され、立ち会った医者の証明書によって、彼が正常な男子であることが明らかにされましたが、別の医者の意見によると、彼の肉体は異常に丸味をおび、髭はほとんどなく、胸はどう見ても男の胸ではなく、手脚にも毛が生えていなかったそうです。

参考図書
「女装の剣士 シュヴァリエ・デオンの生涯」窪田般弥
「仮想の騎士」斉藤直子

    

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