エラガバルス

 セウェルス朝のローマ皇帝エラガバルス(ヘリオガバルス)は、シリア人で本名はウィリウス・アウィトゥス・バッシアヌス(後にマルクス・アウレリウス・アントニヌス)です。後世、エラガバルスとかヘリオガバルスと呼ばれるようになりますが、エラガバルスもヘリオガバルスも太陽神からとったあだ名です。
 セプティミウス・セウェルスの皇后ユリア・ドムナの妹マエサの孫という血統から14歳で帝位に就き218年から222年の4年という短い期間ですが、ローマを統治しました。

 この少年を皇帝に据えるという計画は、母ユリア・ソアエミスの愛人ガンニュスの思い付きでした。
 217年4月8日カラカラ帝はメソポタミアで謀殺されますが、カラカラ帝に世継ぎがいなかったためクーデターの首謀者であるマクリヌスが皇帝となりました。しかし、元老院は彼が騎士の出身であることに不満をいだいていました。
 祖母マエサは、エラガバルスの実の父親はカラカラ帝だといううわさを広めました。ガンニュスは、母子を「ガリカ」の兵営に連れていき、218年5月16日の朝、軍隊の前で皇帝であると宣言させたのです。反乱軍は、時の皇帝マクリヌスの軍隊をあっけなく打ち負かし、6月8日、ローマ皇帝として承認されました。
 新皇帝となった14歳のエラガバルスは、すぐにはローマに赴かず、数ヶ月、アンティオキア、ニコメディアに滞在し、その間にガンニュスを処刑しています。こうして、政治の実権は、母のユリア・ソアエミスと祖母ユリア・マエサの手に移りました。

 219年春、皇帝一行は、ニコメディアを発ち、夏には、シリアのエメサ神殿から運んできた太陽神崇拝の聖石「黒い石」とともにローマに到着しました。そして、この聖石をパラティヌス丘に据え、新しいエラガバルス神殿を建設しました。
 エラガバルスは、祖母の実家エメサの家に生まれ、5歳の時からシリアの太陽神「エラガバルス」に仕える祭司長を務めていました。シリアはもともと母系制ですが、女は太陽神の祭司にはなれないことになっていました。彼は帰依する太陽神を、ローマの最高神にしようと熱心に布教し、毎日、夜明けにはたくさんの牛と羊を生贄として祭壇に捧げました。
 ローマは多神教社会のため宗教に寛容で、領土の拡大に伴って各地の土着神を受け入れていましたが、彼は全ての神は太陽神エラガバルスに従属していると考え、ウェスタの聖なる火、キュベレの御神体など他の宗教の御神体をエラガバルス神殿に移して、この神殿に詣でるように強制しました。
 また、エラガバルス神の祭司である自分が女性祭司を娶れば、神のごとき子供が産まれるに違いないと「ウェスタの巫女」アキリア・セウェラと禁断の結婚をしています。当時、ウェスタの巫女は、処女を貫くことが義務つけられ、禁を破って男と肉体関係を持った巫女は生き埋めにされる定めでしたが、皇帝は、この掟を平然と無視したのです。

 ローマでも、太陽神「ソル」が古くから知られ、また、ペルシャの太陽神を奉じるミトラ教も信じられていましたが、ミトラ教が女人禁制であったのに対して、エラガバルス神は、両性具有の神性を有していました。
 彼が纏っていた司祭服は、足下まで届く長袖の金糸だけで織った布、紫貝で染めた絹の服で、ネックレスや腕輪等の装身具、頭には宝石のちりばめられた宝冠をかぶって、顔は白粉、ほお紅、アイシャドーで厚化粧していました。

 富と権力を握った少年皇帝は、ぜいたく三昧の生活を送りました。毎日衣装を換え、毎日違う宝石を付けました。ある宴会では、夏の盛りに宮殿の庭園に雪山を作らせたり、何トンもの薔薇の花びらを天蓋に乗せておき、その綱を緩めて、客人たちを窒息させたと伝えられています。
 スキャンダルも絶えませんでした。公共浴場では女風呂に入ったり、頻繁に売春宿に行き、そこで鬘を被って自ら娼婦として振る舞ったりしました。また、配下の者に巨根の男を探しださせ、宮廷に連れてきてその精力を楽しんだといいます。ついには、ヒエロクレスというカリア人奴隷と結婚しました。行動や服装だけでなく、肉体的にも女になりたがって、医師達に「自分の身体を手術して女陰を作れないか」と尋ね、望みをかなえてくれたら礼をはずむと言ったと伝えられています。

エラガバルスの薔薇(アルマ・タデマ画)

「エラガバルス帝は自分の全身を脱毛させていた。いかにも健康そうに見え、最大限の肉欲を起こさせる身体でいることこそ、人生最大の楽しみと考えていたからだ」(皇帝列伝)

「この「女」が夫としたのは、カリア人奴隷のヒエロクレスだった。以前はフリギュア王ゴルディオスに寵愛され、王に戦車の操縦を教えた男だ。〜その他にも何人かの男が皇帝から優遇され幅を利かせていた。彼らは反乱の際に皇帝に味方した者と、そして皇帝と肉体関係を持った者たちだった。皇帝は「ふしだらである」という評判が立つことを自ら望んでいた。だからこそ、もっともみだらな女たちの真似までしたのかもしれない。しかも、しばしば浮気の現場を平気で「夫」の目に触れさせた。そのため、激怒した「夫」にひどくなぐられ、よく目の回りに黒いあざをこしらえていた」(カウシス・ディオ)

「エラガバルス帝は、自分の性器をそっくり切り落とそうと考えたが、そうしたことを思い付くのも性格が女性的だったからだ。彼が実際に受けた手術は割礼で、これは太陽神の司祭として必要なことの一つだった。そのため彼は、仲間の多くにも同じことをさせた」(カウシス・ディオ)

 実質的な摂政役の祖母マエサは、彼の振舞に危惧の念を募らせていきました。彼女は、かつてセウェルス帝の妃の妹として宮廷生活を経験し、政界事情にも通じていたので、皇帝の宗教改革、皇帝らしからぬ服装、男漁りの日々がローマ的伝統と相いれぬことを認識していたのです。
 彼女は、もう一人の孫アレクシアヌスを後継者にしようと考えます。アレクシアヌスは、近衛兵に人気があり、エラガバルス帝は、アレクシアヌスを支持する近衛兵を逮捕しようとしますが、222年3月11日怒りに燃えた兵士が宮殿に乱入。身の危険を感じたヘリオガバルスは便所へと逃げ込みましたが、母のソヤミヤスと共に惨殺(一説には、衣装箱の中に隠れて逃げ延びようとしたところを発見されて殺されたともいう)され、首を切られたうえ裸の死体を市中を引き回わされ、石を抱かされてテヴェレ河に投げ込まれるという悲惨な最後でした。

    

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