ティモレオン・ド・ショワジー

 フランソワ=ティモレオン・ド・ショワジー(パリ生まれ、1644−1724)は、ルイ十四世の時代のフランスの作家です。また、聖職者であり、全財産を失うほどの賭博狂で、しかもアカデミー・フランセーズ会員(1687年)でした。司祭として、サン・セーヌ修道院の院長となり、『キリスト教教会史』全十一巻、また、ルイ十四世治下のフランスの歴史的証言である『ルイ十四世時代の歴史的回想』を書き、1685〜1686年には、海外布教使節団としてシャムへも赴きました。

 しかし、それよりも彼を有名にしたのは、女装が許されず、ほかの女装者が社会的に追放されたりしている時代に、宮廷でも教会でも公然と女装で現れ、人々から詐欺師、偽信心家、変態者と言われながらも、本人は最後までキリスト者であることを疑わず、ひんしゅくにもめげることなく快活に振る舞いつづけた”女装の聖職者”であったことです。

 この時代、宮廷では幼い男の子が女の子の格好で育てられることは特別なことではなかったようですが、普通は10歳を過ぎるころには、男の子は剣や帽子を付けさせられ男の格好をさせられて、男として育てられました。しかし、ティモレオンは、ルイ14世の弟フィリップ・ドルレアンの遊び友達として、18歳まで女の格好で育てられました。
 18歳になった彼は、ソルボンヌで神学を学ぶため女装を堅く禁じられました。
 1666年神学課程が修了するとすぐにボルドーに行き、旅周りの一座に入り、女優として舞台に立ちました。
 ティモレオンの女装は、完璧で言葉遣いも振舞も女として疑われることはなく、「ある大きな町の劇場に女優として五カ月間も出演したこともございます。誰もわたくしが男だとは気づかないのです。言い寄る男も少なくありませんでした」という程のものでした。

 彼の女装は、1669年母ジャンヌ=オランプの死を契機に宮廷貴族の後ろ盾を得て公然と行われるようになりました。
 彼は、リュクサンブール宮殿に戻るまでの14年間、デ・バール伯爵夫人あるいはド・サンシー夫人という仮名を使って女性として振舞いました。パリの宮廷やサロンで彼の出自を知っている者は女装者として彼に接していましたが、デ・バール伯爵夫人という仮名を使って現れた田舎町プールジュの土地で交友を持った人々は、ティモレオンを伯爵夫人と思い込んでいました。
 ティモレオンの女装は、自己愛的なもので、同性愛とははっきり異なるものでした。性愛の対象は常に若い女性で、彼は、自分の女性としてのイメージを確認するために、付き合った若い女性には男装をさせ結婚式まで挙げました。社会的にはレスビアンの貴夫人とも認知されていたともいいます。
ティモレオンは、晩年、この時期のことを自伝として『デ・バール伯爵夫人の物語』(女装した男の色恋沙汰の物:1736年に出版)や『アベ・ド・ショワジ一女装冒険譚』に著しています。

「この奇妙な楽しみがどこから来るのかと考えてみますと、こう言えるのではないでしょうか。神の本性とは愛され賛美されることにあります。人間もその弱さが許すかぎりにおいて、同じ望みを持っているのです。ところで、美が愛を生み出すものであり、美は一般的に女性の属性とすれば、他人に愛されるような美しい顔立ちをした男は、あるいはそう信じる男は、女の格好をしたほうが効果的であり、女装をすることで魅力を増そうとするのです。そうして、愛されるという無上の喜びを感じるのです。わたくし自身、甘美な経験を通して、その喜びを一度ならず感じたものです。美しい着物を着て、ダイヤを飾り、つけぽくろを付けて、舞踏会や観劇などに行ったとき、近くで「まあ、なんて美しい人」というささやきが聞こえると、何物にも代えがたい喜びが湧いてくるのです。それほど、その事びは大きいのです。野望も、富も、愛も、その喜びに勝るものではありません。と申しますのも、わたくしたちは他人を愛するよりも自分自身をいつも愛しているものでございますから」

参考:「女装の聖職者 ショワジー」立木鷹志著 青弓社(2000.9.15)

    

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