ネロ

 ネロは名前を知られているローマ皇帝の中でもいちばん有名な人物ではないでしょうか。書物や映画によって、残虐非道の暴君ネロという悪名が広く知れ渡っています。
 古代ローマ帝国の第5代皇帝ネロ(在位54〜68年)は、37年12月15日、アンチオに生まれました。
 皇帝ネロは男性と二回結婚していますが、一回目は男性として、花嫁衣装に身を包んだスポルス・サビナと荘厳な式を挙げ、彼を女王と呼ばせました。二度目は、ネロ自身が花嫁になってピュタゴラスという男と結婚式を挙げています。

 ネロの母は初代皇帝アウグスツス(オクタヴィアヌス)の曾孫で3代皇帝カリグラの妹アグリッピナです。クラウディス帝は姪にあたる彼女と結婚するために王妃メッサリナを処刑して、アグリッピナと結婚しました。しかしアグリッピナは王妃の座に納まると自分の息子のネロを皇帝にしたくなり、息子ネロを養子として認めさせ、次々とライバルを殺害、最後は夫のクラウディス帝まで毒殺して、ただちにネロを皇帝に即位させました。ネロが16歳のときでした。

 皇帝になったネロに対し、母アグリッピナは当然のように後見人として政治の実権を握りました。ネロが治世の始めた5年間は、母親が家庭教師としてつけた哲学者セネカを相談役にして善政をしきました。
 しかし、やがてネロが自分で政治を行おうとするようになると、彼は母アグリッピナと対立していくようになります(アグリッピナがネロを手中に置くため母子姦淫を行ったという伝説も有名です)。自分が疎んじられていると気付いたアグリッピナは、こんどはかつて自分が退けたクラウディウスの実子ブリタニクスを擁立しようとします。これにネロは激怒、宴会の席でブリタニクスを毒殺、さらに母アグリッピナにも皇帝暗殺の嫌疑をかけ宮殿の外へ追放し、59年には殺害してしまいます。次いで、62年には妃のオクタヴィアを、65年には師匠のセネカも殺害して、自分の好きなように政治を行い、暴虐の限りを尽くすようになっていきました。

 ネロは母アグリッピナの画策でクラウディス帝の娘オクタヴィアと結婚していましたが、夫婦関係は良いものではなかったようです。ネロは幼い頃からの友人であるマルクス・サルヴィウス・オト(32〜69年)の妻ポッパエアに恋をします。ポッパエアも野心家だったようで、ネロとの結婚を望みましたが、それには、まずネロとオクタヴィアを離縁させる必要がありました。ポッパエアはオクタヴィアの不倫をでっちあげ、ネロはそれを口実に彼女を南イタリアに追放、さらに別件で島流しにし、62年には、処刑してしまいます。オクタヴィアの死体検分を嫌がったネロの代わりにポッパエアが喜んで首実検をしたといわれています。また、オトをルシタニア(ポルトガル)へ左遷し、彼女はネロと正式に結婚しました。
 ポッパエアは65年7月に急死しますが、妊娠中の彼女を、帰宅が遅いとネロが蹴り殺してしまったというのが一般的な説です。

 後日ネロは、ポッパエアにそっくりの解放奴隷スポルス・サビナを見つけ出して去勢させ、ポッパエアの衣装を着せて側に置きました。彼の女性名もホッパエア・サビナでした。しかし、スポルス・サビナとネロの愛は1年も持ちませんでした。顔は似ていてもおとなしい性格のスポルスには飽きたらなかったのか66年にはスタリア・メッサリナという執政官の未亡人と結婚しました。しかし、従順な性格のスポルスは、ネロの死まで彼に仕えています。ネロが「国家の敵」として追い詰められ自殺した後、スポルスには劇場で民衆の前で裸になって「本当の女」であることを証明せよ、と次の皇帝ガルバの命令が下されました。大勢の前での侮辱に耐えられなかった彼(彼女?)は絶望して自殺をしています。
 スポルスに対してネロは夫として結婚していますが、また、一方では、自分が花嫁としてヴェールを被りピュタゴラス(一説には、ドリュフォルス)という解放奴隷の男と正式な結婚式を挙げ、そして、陵辱される処女の叫びや苦悶の声を真似たとも伝えられています。

 ついにネロの暴君ぶりに、非難の声があがり、アルメニア、ブリタニア、ユダヤなどの各地に内乱が起こりました。68年には、軍隊の中からも反乱の火の手が上がり、ガリア、アフリカ、スペインなどの各地の軍司令官が反乱を起こすと、ネロはついにローマから逃げ出し、元老院は欠席裁判でネロに死刑を宣告しました。そして、ついに観念したネロは68年6月9日、「世界はすぐれた芸術家を失うのだ」と叫び、30歳で自ら命を絶ったのです。

 ネロの墓参りをして花を供える人々は、長い間、絶えなかったとも記されています。
 彼の悪評も、彼の専制政治を嫌った元老院や彼が迫害したキリスト教徒によって作られてきたところも多分にあるのかもしれません。

    

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