日本の祭り5

風流踊

 「風流踊」と総称される雨乞踊や太鼓踊、小歌踊等が全国各地に伝承されています。歌舞伎の創始者、出雲の阿国の踊りの面影をよく残している「綾子踊」等もこれら「風流踊」のひとつとされています。

 「おどり」は、おどりあがる、こおどりするの意の「おどる」の名詞化で、跳躍動作をいいます。踊りと呼ばれるものには、平安時代の田楽躍、鎌倉時代の念仏踊、室町時代の風流踊・盆踊・ややこ踊、江戸時代のかぶき踊・伊勢踊・小町踊などがあります。
 一方、「まい」は、「まわる」の名詞化で、旋回動作をいいます。
 舞いには、平安時代では、神楽舞・白拍子舞などがあり、鎌倉・室町時代には、曲舞・幸若舞や能・狂言の舞が、江戸時代には御殿舞・地唄舞などがありました。

1)綾子舞

  新潟県柏崎市女谷(おなだに) 黒姫神社 9月15日
  (現在は、綾子舞会館前で9月の第二日曜日)
  うわっと!どっと混む (かしわざき観光産業振興協会)ホームページ/イベントINFO
  http://www.uwatt.com/ev_info/index.html

 柏崎市女谷黒姫山の麓の高原田、下野という二つの集落で長男にだけ伝えるという形で伝承され、女谷の黒姫神社の祭礼(9月15日)に演じられていましたが、現在は、9月の第二日曜日に綾子舞会館で行われています。

 小歌踊、囃子舞、狂言の三種に分かれ、この3種類を総称して「綾子舞」と呼んでいます。
 特に小歌踊りは長いたもとの振り袖にだらりの帯、ユライと呼ばれる赤い布の冠り物を頭にかぶった青年の女装姿 (現在は少女)の踊りで、中世や近世初頭に流行したたくさんの小歌を今に伝え、振りや構成にも古風な初期かぶきの姿を色濃く残しています。

 伝承によれば、永正6年(1509年)越後の守護職・上杉房能(上杉謙信の父)がその臣・長尾為景に亡ぼされた時、その奥方・綾子の方が侍女とともに旧鵜川村女谷にかくまわれ、この綾子の方が伝えた形見の舞が綾子舞であるといわれています。一説には、綾子は房能が京からともなってきた白拍子であったともいわれたり、京都北野神社の巫女文子が舞ったものが伝わったものともいわれています。
 このころ、京で北野神社を本拠地としていた出雲のお国が、名のっていた「やや子踊」との名称の相似や、女歌舞伎の踊歌に伝わる「ややこ」と同じ歌詞の曲を伝承していることなどからも、この踊は、お国もしくはその模倣者の女歌舞伎の座によるものと考えられ、国の重要無形民俗文化財に指定されています。

2)綾子踊

  香川県仲多度郡まんのう町佐文地区 賀茂神社 2年に1度8月下旬の日曜日
  まんのう町のホームページ/観光イベント情報/綾子踊(イベントお祭り)
  http://www.town.manno.lg.jp/

 香川県まんのう町(旧仲南町)佐文地区に伝わる雨乞踊りです。
 干天の年は、まず村の中央にある朝日山の竜王祠の前で踊り、それから氏神加茂神社の境内で踊ります。

 踊りは小踊六人、大踊六人ともみな男性で、振袖の女装姿です。これは踊りの縁起主である綾子(巫女)を象徴したものとされています。
 なぎなた持ちと棒持ちが中央に進み出て、口上を述べてなぎなたと棒を使い、次いで地唄が座につき、芸司の口上の後、歌と踊りが始まります。
 日月を描いた大団扇をひらかして踊り、芸司を先頭に小踊、大踊、側踊の踊り子が並び、外踊りといって外輪で踊っているものを加えると数十人になります。踊り場の周囲を棒で垣を作り、笛、太鼓、小鼓、鉦、貝などで囃し立てて踊ります。

 伝承によれば、ある干天の年に、ここに住む「綾」という女が、諸国遍歴の僧に住民の苦しみを話したところ、僧は住民をあわれんで、龍王に願いをこめて雨乞踊りをすれば降雨疑いなしと、「綾」にこの踊りを教えました。そこで村人を集めて、鉦、太鼓にあわせて踊ったところ、俄に一天かき曇り、滝の如く雨が降ってきました。以来、綾が踊ると、恵みの降雨があったので、それよりは、干天の年には雨乞踊りとして、この踊りを行うようになり、だれ言うことなく綾子の踊りと呼ばれ、現在に伝わっているということです。

 この「綾子踊」も、近世初期の女歌舞伎踊の面影を色濃く伝えるもので、貴重なものとされ、国の重要無形民俗文化財に指定されています。

3)小河内の鹿島踊り(祗園踊り)

  東京都西多摩郡奥多摩町 加茂神社及び御霊社 6月15日
  (小河内ダムによる水没以後は、小河内神社 9月15日)
  奥多摩町ホームページ/奥多摩観光情報/郷土芸能
  http://www.town.okutama.tokyo.jp/

 鹿島踊りは本来、事触れ(予言)に基づいて歌や踊りが踊られたもので、茨城県の鹿島地方を中心に千葉、神奈川の箱根から東の東海にかけての太平洋沿岸の所々に分布し、地域によっては、弥勒踊りとも呼ばれています。

 小河内の鹿島踊りは、小河内ダム建設で湖底に沈んだ小河内の日指、岫沢、南三集落の氏神加茂神社及び御霊社の祭礼で、6月15日の祗園祭に行われていたもので「祗園踊り」とも呼ばれていましたが、小河内ダムによる水没以後は、毎年9月15日に小河内神社で行われています。

 鹿島踊りは、本来は、17〜23歳の未婚の若衆6人が女装して踊る独特のもので、口紅をつけ、顔や手を白塗りした踊り手の衣装は、紫地に薄(すすき)や桔梗の秋の七草の裾模様が入った綿入れの長振袖で、帯は猫じゃらしといわれるだらりの帯です。3人は赤のしごき、他の3人は白のしごきを腰帯に締め、紫の布をたたんで頭に載せ、その上に瓔珞(ようらく:珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具)の下がった筒状の冠を被ります。

 踊りは古歌舞伎の遺風を留めている優雅なもので、当初12曲あったといわれる踊りは、現在は11曲が伝えられています。女性らしさを出すために、踊り手は両膝をつけ、中腰で踊ります。
 一説では、京都から公卿の落人が岫沢に来て隠れ住んでいて、村人に教えたともいわれ、また、旅僧が教えたともいわれています。
 国の無形民俗文化財に指定されています。

4)徳山の盆踊り(ヒーヤイ踊り)

  静岡県榛原郡川根本町徳山地区 徳山浅間神社 毎年8月15日
  川根本町ホームページ
  http://www.town.kawanehon.shizuoka.jp/

 毎年、盂蘭盆の8月15日に浅間神社に奉納される五穀豊穣を祈る踊りで、昔は男性が女装して踊っていたものですが、現在では小・中・高校生の女の子たちが伝えています。

 神社の境内にある三間四方の舞台の上で、山の神様に向かって、二列横隊で踊られます。浴衣地の振袖に、帯は短くだらりに結んだ衣装です。

 盆踊りは、「鹿ん舞」「ヒーヤイ」「狂言」の3つから成り立っています。
 鹿ん舞は、農作物を荒らす鹿を払い、豊作を祈願しつつ、鹿の張子の頭を被り、鉦、太鼓、笛などに合わせて舞います。ヒーヤイ踊りは巫女舞に近く、歌舞伎に通ずる踊りです。狂言は、台本(一番古いもので宝暦9年卯七月とある)に残される演目は能狂言風と地狂言風に分けられ、いずれも古い狂言の姿を伝えています。
 この形態は古歌舞伎踊りの初期形態を伝承し、動物仮装が添えられ、地域性にも富んでいるもので、国の重要無形民俗文化財に指定されています。

5)久多の花笠踊(くたのはながさおどり)

  京都府京都市左京区久多 志古淵(しこぶち)神社8月24日
  京都市左京区役所ホームページ/おこしやす左京へ/左京の年中行事
  http://raku.city.kyoto.jp/okoshiyasu/gyouseiku/sakyo_gyoji.html

 久多の花笠踊は、美しい造花で飾った灯籠を手に持ち、太鼓にあわせて歌い踊るものです。

 かつては、少年がこれを頭にのせて踊ったので地元では花笠と呼びますが、行灯部分にロウソクの明かりを灯す、いわゆる灯籠です。
 花笠は、六角形の笠と呼ぶ台の上に、蝋燭をともす四角の行灯をのせ、笠の四隅には意匠を尽くした透かしを貼り、和紙や植物の芯などで色とりどりの美しい精巧な造花を飾ったものです。

 8月24日の夜、久多の男性がそれぞれの花宿に集まり、行灯に火をともした花笠を手に上の宮神社に集まります。上の宮神社では、宮座の「神殿(こうどの)」と呼ばれる者が花笠を社殿に供え、踊りを奉納します。次に大川神社に移動し同様に踊りを行なった後、志古淵神社に向かいます。
 志古淵神社では、上の宮神社と同様に社殿に花笠を供えた後、拝殿前において花笠に清めの秡いをする「より棒」と呼ばれる者が棒を打ち合い、花笠踊が始まります。
 踊りは、締太鼓のみを楽器とし、中世に流行した室町小歌をしのばせる歌にあわせ、花笠を手に持って踊る素朴なもので、上と下の二組が交互に掛け合う形式で踊ります。

 踊りの曲目は、「道行」「綾の踊り」「唐船」など、現在では十数曲が伝承されていますが、地元に伝わる花笠踊本には、130 番余りの歌詞が書き残され、中世に流行した風流の灯籠踊りの面影を良く残したものとして、国の重要無形民俗文化財に指定されています。

6)八瀬赦免地踊(やせしゃめんちおどり)

  京都市左京区八瀬秋元町  八瀬天満宮社(秋元神社) 10月第二日曜日
  京都市左京区役所ホームページ/おこしやす左京へ/左京の年中行事
  http://raku.city.kyoto.jp/okoshiyasu/gyouseiku/sakyo_gyoji.html

 灯籠踊(とうろうおどり)ともいわれ,透彫りの見事な切子灯籠(きりことうろう)を頭にのせた女装の青年(灯籠着(とろぎ)という)や美しく化粧した少女の踊り子たちが行列を組んで天満宮社まで音頭を囃しながら練り歩き、夜通し唄を歌いながら踊り続けた(現在は、10時まで)という風情あふれる祭りです。

 花笠をかぶった少女たちの踊りも行われ、これも中世の風流踊りの伝統を受け継ぐもので、京都市登録無形民俗文化財に指定されています。

 延元元年(1336年)、後醍醐天皇が比叡山への行幸の際、警護を務めた八瀬童子(やせどうじ)が誉められ、永久に八瀬の土地租税を赦免され、それへの感謝の念で始まりました。宝永4年(1707年)八瀬村と比叡山との争いの際、老中、秋元但馬守(あきのもとたじまのかみ)の裁断で救われ、この恩に感謝して、秋元神社を建立し踊りを奉納したのが由来と伝えられています。

7)本地花笠踊

  広島県山県郡北広島町 毎年6月の第1日曜日
  広島県北広島町ホームページ/北広島ストリーミング
  http://www.town.kitahiroshima.lg.jp/contents/stream.html

 この花笠踊りは、虫送りとも豊年踊りの奉納踊りとも言われています。

 伝えられるところによると、天正七年九月(西暦1579年)に、毛利元就の次男 吉川元春が、難攻不落の伯耆(ほうき)の国(現在の鳥取県西部)羽衣石城(うれいしじょう)を攻める時、歌舞音曲を好む城主 南条元続に豊年踊りを献上すると偽って城門をあけさせ、部下の将兵に踊り子の女装をさせ、武器を太鼓などに隠して笛や太鼓を打ち鳴らし踊り入り、後ろから軍勢を場内深く侵入させ、ついに城を陥落させたことから、以来、踊り子は男性が女装して行っているということです。

 この踊りも、国の無形文化財に指定されています。

    

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