キュベレー(Kybele)もともとキュベレー(Kybele:ラテン語ではキュベレCubele)は、プリュギア(小アジア北部地方、現在のトルコ共和国中央部)のペッシヌースを中心地として広くアナトリア地方全体に渡って崇拝された豊饒の女神です。 最初は、シリアのイーデー山の豊饒の女神でしたが、やがて小アジア全域の太母神として、予言、治癒、戦争の加護、獣の守護者等、さまざまな面で信仰を集めました。 紀元前5世紀後半にアッティカ(ギリシア)に伝わり、ギリシアでは「神々の母レア」(ウラヌスの娘でクロノスの妻。ゼウスの母)と同一視されました。紀元前4世紀末頃からキュベレーを信仰する特異で秘儀的な宗教がギリシア世界に流行りだし、庶民階級に流行しました。 その勢いはローマにもおよび、第2次ポエニ戦争の時に、ローマ元老院は神託によってこの女神をローマに迎えることを決議(紀元前204年)し、ペッシヌースからペルガモン経由でキュベレーの象徴である黒い聖石を運んできて、パラティー ヌス丘上の神殿に祀りました。その石が海を渡る間、様々な奇跡が起こったといわれ、ローマでは、ポエニ戦争の勝利は彼女のおかげだと考えられていました。 キュベレー像は、普通、頭に塔のついた冠をかぶり、時に多くの乳房を持ち、2頭の獅子を従え、または獅子の引く戦車に乗った姿で表わされています。 キュベレー信仰の特異性を語る前に、ギリシャ神話の中でのキュベレーのお話しについてみておきましょう。 ギリシャ神話では、
キュベレー信仰では、アッティスは、人類を救済するために殺されて、供儀のために生贄となり、救世主となったとされています。アッティスは生命界の創造者であるとともに、去勢する事により欲望と物質界の無制限な増大を戒めているのです。 アッティスは、去勢され、松の木に十字架刑にされ、アッティスの身体から流れ出た聖なる血は、地上の罪をあがないました。 アッティスは新しい季節の太陽神として復活しました。ローマでは、アッティスが復活したこの日を、ヒラーリア祭(Hilaria)と同時に祝い、人々は町へ繰り出して踊り、変装して練り歩きました。この日は日曜日で、復活祭(Easter Sunday)はこれに由来し、以後ずっと続けられているといわれます。 どこかで聞いたような話だと思いませんか。キリスト教復活の話とそっくりですね。キュベレーの祭りと、キリスト教復活祭イースターとの類似性に気付いたキリスト教の神学者は、神の母マリアと神々の母キュベレとの混同を戒め、キリスト教はキュベレー信仰と激しく対立しました。 キュベレーの祭は、アッティスの秘儀(ludi)と呼ばれています。ガリ(Galli(Galloi:ギリシャではガロイ))と呼ばれる祭司たちは、キュベレーの生贄として死んでいくアッティスを象徴する生贄の雄牛の血を浴び、そして、アッティスが復活するために母親の胎内に入ったことを象徴して、松の木で作ったアッティスの男根を太母神の聖なる洞穴に持ち込み、アッティスの像を、この松の木(十字架)にくくりつけます。 その儀式の間、祭司や信者たちは、去勢されたアッティスにならって、自ら男根を切取り、自傷することで神と交感しました。生贄とされた雄牛の男根とともに、女神にその切断した男根を捧げ、切断された男根はすべて太母神の聖なる洞穴に置かれました。ときには、切断された男根はとくにありがたいものとして、家々に投げこまれ、そのお返しとして、その家の主人は去勢されたばかりの人々に女性の衣服を与えたといいます。 |
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