(肌色)

維摩詰所説経(維摩経)

大乗仏典 鳩摩羅什訳

あらすじ▼

参考図書

沈黙の教え[維摩経] 鎌田 茂雄 集英社

仏経典の中の性転換

仏教というと、女性蔑視の印象が強いと思いますが、仏教では決して女性を差別しているわけではありません。もともと、仏教自体は、個人の問題を究極的に解決する道を求めるものですから、男性が道を求めていくうえでは、女性に係わらないほうが道を求めやすいということからいろいろな戒律ができているわけです。社会的な女性解放とリンクさせてとやかく言うのは何かおかしいような気がします。

この維摩経は全14巻で、仏の命で在家信者維摩詰の病気見舞いに行く文殊菩薩とのやり取りを中心に大乗の教えを説いた経典です。この第7観衆生品には、仏弟子舎利弗が天女によって女性に変身させられる話が出てきます。

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あらすじ(第7観衆生品)

観衆生品は、人間の存在とは何かを説いたものであると言われています。

維摩は文殊菩薩の問いに答えて、”人間の存在とは確かなもではなく、水に映る月、鏡の中の像のように何一つ実体はない。実体のないことを直視して真実の慈悲が起きる。無常や空は、それによって悲観したり人生を否定するためではなく、空の清浄な世界に生き執着から人々を救い、仏の心に同化させるものだ”と慈悲喜捨、善悪を説いてゆきます。

このとき、天女が現れて、天の華をまきます。すると花びらは仏弟子達の身体にくっついて離れません。仏弟子達は身体を飾ることを戒律で禁じられているので一生懸命取り去ろうとしますが、花びらは離れません。天女は”花びらには分別はありません。あなた達が、自分で分別の想いを起こしているのです。一切の分別がなければ花びらはくっつきません。”と、弟子達に説法します。

花びらそのものに善悪はありません。華は華であって、華自体が戒律を犯したり、美しかったりするわけではなくて、戒律を犯しているのも、美しいと思うのも自分の計らいに過ぎないのです。

次に、解脱・三乗(声聞・縁覚・菩薩)と話が展開し大乗の教えの素晴らしさが語られてゆきます。

このとき、舎利弗は天女に”なぜ女人から男に転じないのか”と変成男子の問いをします。天女は答えて、”私は十二年来、女人の相を求めていますが、まだそれを得ることができません。どうして転ずる必要がありましょう。たとえば、幻術師が幻の女を仮に作ったようなものです。それに、女身を転じて男にならないのかと質問するような人が果たして正しいのでしょうか”と。

このとき、天女は神通力で舎利弗を女身に変身させて、舎利弗に逆に問います。”なぜ女人から男に転じないのか”

舎利弗が驚いていると、”あなたは、女身を現していても女ではないのです。だから、仏は一切のものは男でも女でもないとお説きになったのです。”と。

天女は神通力を解くと、舎利弗はもとの男の姿になりました。天女はさらに”女身の相は今はどこにありますか。”と舎利弗に問います。

舎利弗の考えには、女よりも男の方が優位であるという女性蔑視の考えが含まれています。天女は自分はまだ女人の相に成っていないといいます。男の形をしているから真の男性であるとは限りませんし、女の形をしているからといって、女相そのままとも限りません。一切のものは仮に姿を現しているものだから、決まった形がないものがわざわざ男の姿になる必要もないのです。

この後、天女は生死、菩提(さとり)について、舎利弗との議論を進めてゆきます。

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