(木蘭)

城崎温泉殺人事件

吉村達也 実業之日本社(JOY NOVELS1996)

 冬の城崎温泉小桜橋の上で、白い雪を深紅に染めて湯浴み姿のカップルが倒れていた。男は死に女は重傷。だが、若い女と見えた被害者は性転換した青年だった。二年間失踪していた息子が事件に巻き込まれ、しかも性転換していたことを知った元高校教師の父親は、かつての教え子志垣警部に相談。丹後半島から城崎へと、真相を求める旅に出た。

(for youko)


 一方、母親の反応も、父親にもましてひどかった。母は、栃木の家に戻ってきた明をまるで化け物でも見るような目で見た。いや、見ようともしなかった。
 おぞましい−おそらくそれが、母の明に対する感情をもっとも正確に表した言葉だろう。女に変身した息子は、もはや母・さち子にとって同じ息子ではなかった。
「お母さん、私の心の本質は前と少しも変わっていないのよ」
 再会して激しいショックを受ける母に対して、明は懸命に訴えた。
「見た目の違いに惑わされないで。むしろいまの私が、生まれたときからあるほんとうの私なんだから」
 必死にそう言っても、母は顔をそむけ、お願いだからあっちに行ってちょうだいと言わんばかりに、手のひらを左右に振るのだった。
 女言葉でしゃべらなければ少しは母も落ち着いて向かい合ってくれるのかもしれない、と明は思った。だが、それはもうできない相談だった。髪を伸ばし、乳房を膨らませ、男性のシンボルを取った自分としては、いまさら「ぼくはね」などという言葉遣いはできなかった。
 そのように明は、性転換手術とホルモン注射によって、本来あるべき女の姿に戻ったと思っていた。だが実際のところは、彼は本物の女以上に女らしい存在になっていたのである。
 そもそも『女らしい』という観念は、あくまで男にとって都合がいいように決められたものである。そして、二十数年も不本意ながら男として育ってきた明は、男好みの女がどういうものであるかを本能的に理解するようになっていた。これは、本物の女性にはない感覚だった。


いくら、性転換していたとはいえ二年間も行方が分からなかった実の息子が、帰ってきたときの反応としては不自然ですよね。まして、母親ですからね。この表現は、小説上の伏線になっているので、ずいぶん極端な表現になっているとおもいますが、それにしてもカミングアウトは、私たちにとっては一番頭を悩ませることですよね。思わぬところからばれちゃった人も多いんじゃないでしょうか。白と黒をはっきり分けたがる人、中間のあいまいさが理解できない人、自己主張して他人を管理したがる人には、なかなか理解してもらえないようです。でも、身近かな人に一人でも理解してくれる人がいると、精神的に随分らくになりますよ。

でも本音を言えば、働くのはつらかった。社会に出るということは、毎日毎日なんらかの形で差別や好奇の目にさらされるということだ。だいぶ慣れてきたとはいえ、やはりそれは無意識のうちに気持ちの負担となっていた。いくら時代が変わっても、性転換をした人間が見世物的に扱われる状況に本質的な変わりはない。
 女性へ性転換した人間がはじめてカミングアウトしたのは、たしか1953年ごろ、デンマークの男性だったと明は記憶していた。その元男性が、外国で手術を受けて飛行機で帰国した場面は、記録映像として残されている。
 明はそれをテレビで見たことがあったが、大勢の取材報道陣に取り囲まれた『彼女』は、ほんとうに美しく、そして少しも悪びれることなく、取り囲む報道陣に対して妖艶な笑顔をふりまいていた。
 その一方で、最近アメリカで女性へ性転換した元男性が、職場で徴底的な差別にあっている実例も二、三レポートされていた。
 だが、差別されている『彼女たち』には共通する特徴があった。
 はっきり言って、汚いのだ。
 女の服装をして女の髪形をして化粧もはどこしているのだが、それは普通の男性が宴会の余興で女装するレベルとまったく変わりがなかった。どこにも女の色気が感じられない。これではダメだ、と明は思った。
 もちろん、人間の価値というものは顔の美しさとは関係ない。しかしそれは、最初から女性として生まれついた場合であって、わざわざ男性から女性に性転換するケースでは、絶対に美的要素が伴わなければならないと明は考えていた。
 なにも男の身勝手な鑑賞眼に迎合してそう考えるのではない。
 男の容姿を引きずったままの、女装レベルの性転換では、しよせん世間はゲテモノ扱いしかしてくれず、嘲笑にさらされる毎日を送ることになる。そんな状況に陥っても私は平気よ、と涼しい顔をするだけの精神力があればいいが、ない場合は、けっきょく自分の存在そのものをギャグにしてしまうよりなくなってしまう。
 これはみじめだ。そんな人生はあまりにも情けない、と明は思った。それなりの美しさを伴わない性転換は、本人が不幸になるばかりなのだ。
 その点では、明は最高レベルの成功例といってよかったが、しかし皮肉なもので、性転換がうまくいけばいったで、こんどは戸籍が男性のままで残されているハンディを痛感することになる。ヘタに周囲が完全な女性として扱ってくれるだけに、自分が戸籍上は男なのだと告白しにくくなるのだ。
 そういった煩わしさを考えた場合、けっきょくは自立して働くよりも、すべてを理解してくれる男性と『結婚』して妻の座に収まるのがいちばんいいように思えた。
 ただし、炊事洗濯に追い立てられる主婦になるのでは意味がない。やはり経済力のある男性といっしょになって、働かずに楽をして暮らす毎日を過ごさなければ。
 そういうぜいたくは『美しい女の特権』ではないか、と明は思った。その特権を使わずして、なんのための変身なのか。
 その点では、五十嵐英幸の経済力は満足とはいえなかった。性転換手術にかかる費用を全額援助してくれたり、変身した後の洋服やアクセサリーなどずいぶん買ってくれたが、それらがすべて彼のサラリーマンとしての稼ぎの中から捻出されていたとは思えなかった。
 どこかで経済的に無理をして明をつなぎとめているようなところがあったのだ。だから、もしも五十嵐と結ばれても、その幸せが永遠につづいていたかどうか、それは自信がなかった。
(英幸さんのことなどもう忘れて、お金持ちの素敵な男の人と新しい恋を……)
 そんな気持ちが、明の脳裏をときおりかすめることがあった。

 ある意味では、TGの本音かもしれませんね。ただの美女ではなくて本物の女を押しのけて玉の輿に乗れるような女になりたい。でも、現実は小説みたいにそんな美女になれるはずもないし……。だからいつまでも中途半端なのかな?とも思いますが、夢は夢として、現実を素直に受け止めて自分を楽しみましょうね。


(そもそも愛し合っているということじたい、肉体的な特徴がどうであれ、片方が本質的に男で、もう一方が本質的に女であることを自動的に証明しているようなものなのよ。磁石と同じで、NとN、SとSは絶対にくつつかない。くつついたからには、それは必ずNとSの組み合わせ。だからこそ、おたがいに魅力をかきたてられ、性欲をかきたてられていっしよになったわけ。
 見た目の性別なんて完全にまやかし。ほんとうに大切なのは、心の中が男になっているか女になっているかということ)
 歩き回りながら、明は持論を脳裏で滔々とまくし立てる。
(精神的に男と女の組み合わせであれば、表面上の性的特徴などにこだわらずに、二人の結婚は認められるべきなのよ。正常な愛のかたちとして認められるべきなのよ。花嫁に青い髭が生えていたって、ウエディングドレスの代わりにスーツとネクタイを締めていたって、少しもおかしなことはない。
 だけど私の場合は、少なくとも外見上の問題は解決できていたはず。英幸さんにお金を援助してもらい、痛い思いもして、見た目もちゃんとした女になった。
 言っておきますけどね、これこそ自分の本来の姿だと思ったから、私は外見上も女になった−なんていうふうに、格好をつけるつもりはないわ。見た目が男どうしのままで結婚する勇気はなかった。要はそういうこと。世間体との妥協ね。常識への迎合っていうのかな。性転換手術に踏み切ったいちばん大きな動機はそこだった。それは認めるわ。
 でも……そうやって普通の女に近づく努力をしても、やっぱり法律は私と男性との結婚を認めない。女になった男なんて、どこまでいっても変態扱い。そういう変態が、まともな市民と同じ権利を持とうと考えることじたい傲慢だ、なんてひどい言い方をする人もいる。
 また別の人はこんなことも言った。男どうしで結婚したって子供は作れないじやないか、と。じゃあ、結婚って、子供を作るためにするものなの? それだったら、動物と同じレベルのくっつき方じやない。それが世間の常識だとすれば、常識的な人間のほうが私なんかよりよっぼど下品だし、よっぼど能がない)

いくら私たちが理屈理論を振り回しても、悲しいかな、世間的にはまだまだ変態のへ理屈というのが常識的な見解です。マスコミの影響で随分、見方も変わってきたかのように見えますが、一般の人にとってはブラウン管の中の自分と係わりのない別世界という意識の中で許容されているだけだと思います。

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