(海松色)

キッチン

吉本ばなな 福武書店(1988)

この小説は、映画化、ビデオ化もされている吉本さんの代表作ですから、皆さんも内容はご存知のことと思います。母親の「えり子さん」は実は父親で……というようなお話です。次の満月はキッチン2の副題のとおり、この小説の続編になっています。


  〜以下、本文より抜粋〜

「だって。」私は口を開いた。「母親って、母親って言ってたじゃない!」
「だって、実際に君ならあれを父さんって呼べる?」
 彼は落ちついてそう言った。それは、本当にそう思えた。すごく納得のいく答えだ。
「えり子って、名前は?」
「うそ。本当は雄司って言うみたい。」
 私は、本当に目の前がまっ白く見えるようだった。そして、話を聞く態勢にやっと入れたので、たずねた。
「じゃあ、あなたを産んだのはだれ?」
「昔は、あの人も男だったんだよ。」彼は言った。「すごく若い頃ね。それで結婚していたんだよね。その相手の女性がぼくの本当の母親なんだ。」
「どんな‥‥‥人だったのかしら。」
 見当がつかなくて私は言った。
「ぼくもおぼえてないんだ。小さい頃に死んじゃってね。写真あるけど、見る?」
「うん。」
 私がうなずくと彼は自分のカバンをすわったままずるずるたぐりよせて、札入れの中から古い写真を出して私に手渡した。
 何とも言えない顔の人だった。短い髪、小さな目鼻。奇妙な印象の、年がよくわからない女性の…‥・私が黙ったままでいると、
「すごく変な人でしょう。」
 と彼が言い、私は困って笑った。
「さっきのえり子さんはね、この写真の母の家に小さい頃、何かの事情で引きとられて、ずっといっしょに育ったそうだ。男だった頃でも顔だちがよかったからかなりもてたらしいけど、なぜかこの変な顔の。」彼はほほえんで写真を見た。「お母さんにものすごく執着してねえ、恩を捨ててかけおちしたんだってさ。」
 私はうなずいていた。
「この母が死んじゃった後、えり子さんは仕事をやめて、まだ小さなぼくを抱えて何をしようか考えて、女になることに決めたんだって。もう、だれも好きになりそうにないからってさ。女になる前はすごい無口な人だったらしいよ。半端なことがきらいだから、顔から何からもうみんな手術しちゃってさ、残りの金でそのすじの店を一つ持ってさ、ぼくを育ててくれたんだ。女手一つでって言うの?これも。」
 彼は笑った。
「す、すごい生涯ね。」
 私は言い、
「まだ生きてるって。」
 と雄一が言った。

◆     ◆     ◆

 「女になるのも大変よね。」
 ある夕方、唐突にえり子さんが言った。
 読んでいた雑誌から顔をあげて、私は、は? と言った。美しいお母さんは出勤前のひととき、窓べの植物に水をやっていた。
「みかげは、みどころありそうだから、ふと言いたくなったのよ。あたしだって、雄一を抱えて育ててるうちに、そのことがわかってきたのよ。つらいこともたくさん、たくさんあったわ。本当にひとり立ちしたい人は、何かを育てるといいのよね。子供とかさ、鉢植えとかね。そうすると、自分の限界がわかるのよ。そこからが始まりなのよ。」
 うたうような調子で、彼女は彼女の人生哲学を語った。
「いろいろ、苦労があるのね。」
 感動して私が言うと、
「まあね、でも人生は本当にいっぺん絶望しないと、そこで本当に捨てらんないのは自分のどこなのかをわかんないと、本当に楽しいことが何かわかんないうちに大っきくなっちゃうと思うの。あたしは、よかったわ。」
 と彼女は言った。肩にかかる髪がさらさらゆれた。いやなことはくさるほどあり、道は目をそむけたいくらいけわしい‥‥‥と思う日の何と多いことでしょう。愛すら、全てを救ってはくれない。それでも黄昏の西陽に包まれて、この人は細い手で草木に水をやっている。透明な水の流れに、虹の輪ができそうな輝く甘い光の中で。

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満月(キッチン2)

吉本ばなな 福武書店(1988)

ねえ雄一、世の中にはいろんな人がいるわね。私には理解しがたい、暗い泥の中で生きている人がいる。人の嫌悪するようなことをわざとして、人の気を引こうとする人、それが高じて自分をおいつめてしまうような、私にはそんな気持ちがわからない。いかに力強く苦しんでいても同情の余地はないわ。だって私、体をはって明るく生きてきたんだもん。私は美しいわ。私、輝いている。人をひきつけてしまうのは、もし、それが私にとって本意でない人物でも、その税金のようなものだとあきらめているの。だから、私がもし殺されてもそれは事故よ。変な想像しないで。あなたの前にいた、私を信じて。
 私ね、この手紙だけはきちんと男言葉で書こうと思ってかなり努力したんだけど、おっかしいの。恥ずかしくてどうしても筆が進まないの。私、こんなに長く女でいても、まだどこかに男の自分が、本当の自分がある、これは役割よって思ってたのに。でも、もう心身共に女、名実共に母ね。笑っちゃう。
 私、私の人生を愛している。男だったことも、あなたのお母さんと結婚したのも、彼女が死んでから、女になって生きたことも、あなたを育てて大きくしたこと、いっしょに楽しく暮らしたこと‥‥‥ああ、みかげをひきとったこと! あれは最高に楽しかったわね。なんだかみかげにとても会いたい。あの子も大切な私の子よ。

◆     ◆     ◆

 −真冬だったのよ。
 えり子さんは言った。
 みかげ、その時、あたしまだ男だったわ。
 男前だったけど、ひとえまぷたで、もう少し鼻も低かった。整形する前だったからね。あの頃のあたしの顔を、あたしはもう思い出せない。
 少し肌寒い、夏の夜明けのことだった。雄一は外泊していて家にいなくて、えり子さんはお客からもらってきた肉まんをおみやげに店から帰ってきた。私は例によって、昼間ビデオにとった料理番組をメモしながら見ている最中だった。青い夜明けの空が、東からゆつくりと明るくなりはじめていた。せっかくだから、今、肉まん食べましょうか、とレンジにかけてジャスミン茶を入れていたら、ふいにえり子さんがそれを語りはじめたのだ。
 私は少しびっくりしたが、きっとお店でいやなことでもあったのでしょう、と思ったので、うつろに眠い頭で開いていた。彼女の声がまるで夢の中にひぴくように感じた。
 昔ね、雄一のお母さんが死んじゃう時のことよ。あたしじゃなくて、あの子を産んだ、当時の、男だったあたしの妻のことね、彼女はガンだったの。どんどん悪くなっていくころね。何しろ愛しあっちゃつてたからね、雄一は近所の人にムリヤリあずけて、毎日、見舞いに行った。会社づとめをしていたから出勤前と退社後はいつもつきそってたわ。日曜は雄一もいっしょに行ったけど、わけわかんないくらい小さかったのよね。‥‥‥あのころあった希望を、どんなに小さいものも絶望と呼べる自信があるわ。世にも暗い毎日だった。その頃は、それほどそう感じなかったけれどね、そこがまあ、また暗いところね。
 まるで甘いことを語るようにまつげをふせて、えり子さんが言った。青い空気の中で彼女はぞっとするほど美しく見えた。
″病室に、生きてるものがほしいの″って妻がある日、言ったの。
 生きて、太陽に関係がある、植物ね、植物がいいな。あまり細かく世話をしなくてよくって、とても大きい鉢を買って。ってね。日頃、あまり要求のない妻が甘えたものであたし嬉しくて花屋へとんでいった。男っぽかった私はまだペンジヤミンとかさ、セントポーリアとか知らなくて、サボテンじゃ何だしねえって、パイナップルを買ったの。小さな実がついてて、わかりやすかったのでね。抱えて病室に持ってったら、彼女は大喜びして何度もありがとうを言った。
 いよいよ病状が末期になって、昏睡に入ってしまう3日前にね、突然、帰りぎわに言うのよ。パイナップル家に持って帰ってくれる? って。見た目はそんなに彼女、ひどく悪いようには見えないし、もちろんガンだなんて言っちゃいないのに、完全に遺言調にささやくわけよ。あたしはびっくりして、枯れたって何だって、ここに置いときなよって言ったのね。でも妻は、水もやれないし、南から来た明るい植物に、死がしみこむ前に持って帰ってって泣いて頼むのよ。仕方ないから持って帰ったわよ。抱えてさ。
 男のくせに私、めちゃめちゃ泣いちゃってたから、くそ寒いのにタクシーに乗れないのよ。男ってもういやだってその時、初めて思ったのかもね。でも、まあ少し落着いて、駅まで歩いちゃったから、ちょっと飲み屋で飲んで、電車で帰ることにした。夜で、あまりホームに人がいなくて、凍えるような風が吹いていたわ。パイナップルのとげとげした葉っぱをほほにつけて、鉢植えを抱きしめてふるえて!この世に、自分とパイナップルしか今夜わかりあえるものはいないって、心から言葉にしてそう思った。目を閉じて、風にさらされて寒さによりそう、この2つの生命だけが同じに淋しいって。……だれよりもわかりあえた妻は、もう、私よりもパイナップルよりも、死の方と仲良しになってしまった。
 その後すぐに妻は死んで、パイナップルも枯れたわ。あたし、世話のしかたがわからなくて水やりすぎたのね。パイナップルを庭のすみに押しやって、うまく口に出せないけれど、本当にわかったことがあったの。口にしたらすごく簡単よ。世界は別に私のためにあるわけじゃない。だから、いやなことがめぐってくる率は決して、変わんない。自分では決められない。だから他のことはきっぱりと、むちゃくちゃ明るくした方がいい、って。
……それで女になって、今はこの通りよ。

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ムーンライト・シャドウ

吉本ばなな 福武書店(1988)

「うん、いいね。」
 私は言った。
 柊の今着ているセーラー服は、ゆみこさんの形見だ。
 彼女が死んでから、私服の高校だというのに彼はそれを着て登校している。ゆみこさんは、制服が好きだった。双方の親が、そんなことをしてもゆみこさんは喜ばないと、スカート男を泣いて止めた。しかし柊は笑って、とりあわなかった。私がそれは感傷で着てるの? とその時たずねたら、そんなんじゃない。死人は戻らないし、モノはモノだと言った。でも、気持ちがしゃんとするんだ。と。
「柊は、いつまでそれを着てるの?」
 とたずねたら、
「わかんない。」
 と言って、少しくらい顔をした。
「みんな、変なこと言わない? 学校で、悪いウワサたたない?」
「いや、それがワタシね。」彼は言った。彼は昔から自分のことをワタシと言うのだ。「同情票がすごくて、女の子にもててもてて。やはりスカートをはくと、女の気持ちがわかる気がするからだろうか。」
 「そりやあ、よかったね。」
 私は笑った。ガラスの向こうのフロアーでは楽しそうな買い物客がにぎわって通ってゆく。春の服が明るく照らされて並ぶ夕方のデパートはすべてが幸福そうだ。
 今は、よくわかる。彼のセーラー服は私のジョギングだ。全く同じ役割なのだ。私は彼ほど変わり者でないので、ジョギングで充分だっただけのことだと思う。彼はそのくらいでは全くインパクトに欠けて自分を支えるには物足りないのでバリエーションとしてセーラー服を選んだ。どちらもしぽんだ心にはりを持たせる手段にすぎない。気をまぎらわせて時間をかせいでいるのだ。

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