(古代紫)

Trans Sexual

「心の性」で生きる

八岩まどか 朝日ソノラマ(1998)

 人間の性の在り方の多様性を追及したいと思った八岩さんが、トランスセクシャルをテーマに取材され、その中から16人のFTM、MTFの取材記録をまとめた本です。
 タイトルに「心の性」という言葉があります。GIDが社会に認知されはじめて、身体の性と心の性と言われますが、果たして心に性などというものがあるのでしょうか。喜怒哀楽、優しさ、強さなど…、心それ自体に性別などはありません。あると思うのは、自分の男らしさ、女らしさのステレオタイプに縛られ、自分自身を枠にはめ込んで苦しんでいるからではないでしょうか。
 GIDに限らず、いわゆる男らしい心も女らしい心も誰しもが持っています。男(女)だから男(女)らしい心しかないということなどありません。「男(女)が思うことが即ち全て男(女)らしい心だ」というなら別ですが、それならGIDなんてあるはずがありません。自縛なのです。まず、男らしさとか女らしさとか言う枠を離れて自分の心持ちを素直に認める、それでいいのだと思います。
 でも、自分らしさを求めるためなら、何をしてもよいということではありません。社会の枠に当てはめようと自分をまげるのではなくて、自分の気持ちを確認した上で、それから社会との関わりを考えた方がいいと思うのです。でも私の経験では、これは頭でいくら考えていてもだめで、体験というイニシエーションを経て自分を見つめ直す機会がないとなかなか気持ちの切替が出来ませんでした。やはり、行動で自分のポテンシャルを高めないと乗り越えられないものがあるようです。
 この本から一部を紹介します。自分自身を見つける参考になるかもしれません。

八岩さんの緒言から

”異常”や”普通”は、何を基準にしているのだろうか。女(男)に生まれたら、女(男)として生きる、女(男)らしく生きる、それを”普通”とする常識があって、その常識からはずれたものを”異常”として切り取っていく。私たちは、そんな社会に生きている。「社会常識から自分がはずれてる。それが周囲に知れれば、人間として生きていけなくなる」と思うのは当然だろう。そういう意味では、トランスセクシャルとは心と身体の違和だけでなく、社会と自分との違和でもあるということだ。
 そういう違和感を抱えながら、どう自分と向き合い、自分を肯定してきたのか。自分の心と肉体の性が違うというのは、生き物としての根滞的な矛盾である。自分とは何であるかを問うことなしに、先に進むことはできない。もちろん、社会常識と簡単に折り合っていけるものではない。本当の自分を見つめてきた人たちの生きざまは、私にとって限りない魅力を感じさせられるものだった。そこには、自分らしく生きたいともがき、悩んでいる、生の人間の姿があったからだ。
 ところで私は、ここまで自分と向き合ったことがあっただろうか。女として生きるというなかでのバリエーションはあるものの、女であるとは何であるかを問い直したことなどなかった。女として、という社会の基準に従って生きていればいいだけだったのだから。改めて私とは何者であるかを突きつけられると、何も示すことができない。それが、私を含めた”普通”の人間の現実だろう。
 その”普通”の人間たちも、男らしく、女らしくという社会の基準を捨て、”自分らしく”生きようと言い始めた。だが、それは自分と向き合うことなしには見つからない。


第1話より

私のことを、誰も分かってくれない。表面は、ニコニコして自分を繕って生きていくしかない。それでも心にぽっかり空いた穴を埋めることはできなかった。彼女を失ってしまったことが、まるで自分自身を失ったかのように感じられて、心が痛んでいた。
 そう、失ってしまったのは彼女じゃない、私自身だったんだ。そのことに気づいたのは、彼女と別れて二年もたった頃だった。髪を伸ばし、化粧をし、スカートをはいて街を歩きたい。子供の頃から抱いてきた、そんな望みが実現できないことだと思っていたから、それを彼女に託してきたのではなかったか、と。
 正樹と妻との関係は、妙にねじれたものだった。夫婦のセックスにも、それは持ち込まれた。本来、男女間のセックスほど、男と女の役割がはっきりするものはない。普段は意識することがない、男としての自分を感じざるを得なかった。しかし、どうしても、挿入している自分を認めることができない。ベッドのなかで、正樹の心は男である身体を離れて、妻に同化していた。彼女の方が本来の自分であると感じていたのだ。男の身体が自分から離れて、妻であるべき自分を抱いている。それが、正樹のセックスだった。妻との距離は全くなかった。それは当然だろう、自分が自分に抱かれているのだから。
 妻は正樹にとって、なりたいと思ってきた自分の姿だった。だから、自分が着たいと思った服を、彼女に着せてしまう。これ着て、これ着て、と気に入った服を次々に買ってきては、彼女に着せるのが楽しみだった。彼女と一緒にバーゲンに行こうものなら、正樹ひとりではしゃいでいた。
 幼稚園の頃から、スカートをはきたいと思っていた。しかし、それを自分がやれば社会から逸脱してしまう。それは、人間として失格することを意味していた。正樹は小さい時から、そういう枠を自分にはめて生きてきたのだった。強い男になろうと空手に夢中になったこともある。車に乗るようになると、そのスピード感に酔うようになった。何かに夢中になっている時だけは、自分の内側の欲求を忘れていることができた。
 一番怖いのは、リラックスしている時だ。そんな時に女子高生を見たりすると、あんな制服が着たいと思う自分が現れてきた。
『そんなことをして何になるんだ。おかしいに決まってるじやないか』
 女になりたいという自分を、すぐに打ち消す、もう一人の自分がいた。
 自分自身が分裂し、満たされずにきた自分。それが彼女を得たことで、癒されるように感じてしまったのだ。正樹は、スカートをはきたいと思ってきた自分を、妻になった女性に仮託した。別々の人間に分かれた自分が、夫婦として結びつくことで、ようやく安定感を得ることができた。これで一生安心だ。それが正樹の結婚生活だった。


第7話より

「実は同僚の女性に、去勢したことを打ち明けたんですよ」
 誰もいない五時過ぎの会社の廊下で、そっと話してみたのだそうだ。彼女は黙って聞いていた。相原が話し終わると、何も言わず、深刻な顔つきで、足早に退社していった。
 翌日、彼女は会社にやってくると、「昨日の話、ショックだった」と相原に話し始めた。
「何でこんなにショックなんだろう、ってずっと考えたのね」
 一晩中考えて、ようやくその原因に思い当たったというのだ。
「自分でも気がついてなかったんだけど、私、相原さんのこと好きだったみたいなのよ。それが、昨日の話でやっと分かったの」
 それは、相原にとっても突然の告白だった。同僚のなかでも話しやすい関係ではあったが、彼女にそんな思いがあったなどと感じたことは一度もなかったのだ。
 それにしても、半年前に比べると、やはり相原はずいぶん変わった。引きずっていたものが、ふっ切れたという印象を受けるのだが。
「確かに、自分でも変わったと思いますよ。素直になった。昔は、何であんなに理屈ば
かり言ってたんでしょうね」
 相原に言わせれば、理屈をこねていたかつての自分は、「男の残滓」と呼べるような
ものだった。
「男をやめることは、まだまだ男社会の会社では卑怯者とみなされるんです。だから、自分の行動を正当化する理屈が必要になる。私も必死で理屈を積み重ねてたんですよ」
 相変わらず理屈っぽさは残っているが、私は、相原に対してそう違和感を感じなくなっていた。それにしても、同僚の彼女とはうまくいきそうな気配が漂っているのだが、もし、うまくいけば、二人の関係はレズビアンってことになるのだろうか。
「どうでしょうね。でも、どっちにしても自分は自分でしかないし」
 相原はそう言いながら、いたずらっぽく笑った。私は彼女の新しい恋が、うまくいきそうな予感を感じていた。

(参考 早見秋 「装飾の性」 近代文藝社)

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