【京紫】

信長(あるいは戴冠せるアンドロギュヌス)

宇月原晴明 新潮社(1999.12)

 第11回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した作品で、歴史小説の形をとっていますが、アントナン・アルトーの「ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト」(多田智満子訳, 白水社)を下敷きとした伝奇小説です。 古代神話や宗教的な言葉多いので、とっつきにくいかもしれませんが、 謎解きからミステリーも絡み読みごたえのある物語です。

 1930年、ベルリン滞在中のアントナン・アルトーを日本人・総見寺龍彦が訪ねてきました。
 彼の話によれば、アルトーが長年こだわりつづけたヘリオガバルス、そのヘリオガバルスと日本の武将織田信長には共通点があるというのです。 男性でありながら女性にも見える不思議な総見寺の容姿に驚くアルトーは、自分の先祖が織田信長に仕えた導師であり、信長は両性具有であったという話に興味を抱き、二人は互いの調べている情報を話し合います。
 二人に共通していた事は、キリスト教・仏教から魔王とも呼ばれる牛の頭を持つ暗黒の太陽神を調べているという事であり、アルトーはローマ皇帝ヘリオガバルスを、総見寺は織田信長が暗黒の太陽神だという見識を持っていました。
 ローマ皇帝ヘリオガバルスと織田信長はともに、古代シリアに発生した暗黒の太陽神の申し子であり、そして両性具有であったのです。
 さらに、ドイツで勢力を拡大していたナチズムへの展開と信長の魔への信仰を語ることによって信長とヒトラーを関連づけ、さらに古代ローマのヘリオガバルスを結びつけて、二重三重にも絡み合ったより複雑な世界が描き出されていきます。

 セウェルス朝のシリア人皇帝、ヘリオガバルス(=エラガバルス)は、本名ウィリウス=アウィトゥス=バッシアヌス、 後にマルクス=アウレリウス=アントニヌスです。後世ヘリオガバルスと呼ばれるようになりますが、エラガバルスもヘリオガバルスも太陽神からとったあだ名です。
 少年皇帝が君臨したのは紀元218年で、母親らの謀略で14歳で帝位に就きました。彼女たちは結婚という最大の武器を持って帝室の奥深くにまで潜り込み、政治を思うがままに動かし、太陽神バール神を最高神とした「陽物信仰」をもたらしました。
 このバール(雄牛)信仰は、太母神キュベレ信仰に繋がっています。

 キュベレは、シリアのイーデー山の神々の太母神であり、知性ある創造性豊かなすべての神々の生みの親で、全能なるゼウスの母親です。キュベレは命あるすべてのものを治め、彼女からすべてのものが生まれ出ました。

 キュベレは、紀元前204年シリアからローマにもたらされ、バチカン丘の神殿に祀られました。キュベレの祭典はludi(祭儀)と呼ばれ、祭典では、雄牛が生贄にされました。この牛はキュベレの生贄として死んでいくアッティスを表します。アッティスは、キュベレのこの世の化身である処女神ナナが生んだ息子です。ナナはアーモンド、あるいはザクロ(いずれも女陰の象徴)を食べて、アッティスを懐胎しました。アッティスは成人すると、人類を救済するために殺されて、供儀のために生贄となり、救世主となりました。アッティスは、彼に仕えた聖職者と同様に、去勢され、松の木に十字架刑にされ、アッティスの身体から流れ出た聖なる血は、地上の罪をあがなったのです。アッティスは死んで埋葬されましたが、3日目に「宇宙を統一する最高神」として復活しました。アッティスを崇拝する人々は、「アッティスは救済された。あなたがたも試練を受けると救済されるであろう」と告げられました。
 アッティスの受難は3月25日とされています。それはアッティスが生誕した冬至の祭典日である12月25日のちょうど9か月前の日です。アッティスが死んだ時刻は、また、彼が懐胎された時刻、あるいは再び懐胎された時刻でもあったのです。

 アッティスは新しい季節の太陽神として復活しました。アッティスが復活したこの日は、陽気に騒ぐ日としてカーニバル、あるいはヒラリアと呼ばれ、人々は町へ繰り出して踊り、変装して練り歩き、ふざけまわって、ひとときの情事にふけったのです。この日は日曜日で、アッティスの秘儀に由来する復活祭(Easter Sunday)が、以後ずっと続けられているのです。

 アッティスの秘儀では、アッティスが再びこの世にその姿を現すために母親の胎内に入ったことをしるすために、彼の木-男根が母親の聖なる洞穴に持ち込まれました。アッティスの像は神殿に運ばれて、木にくくりつけられ、そのとき、再生した男根と新たな豊饒を表すアシの笏を持った「アシ奉持者」が付き添っていました。その儀式の間、祭司や入信者たちは、去勢されたアッティスにならって、自ら男根を切取り、自傷することで神と交感したのです。雄ウシの供儀において生贄とされた雄ウシの男根とともに、女神にその切断した男根を捧げ、切断された男根はすべて太母神の聖なる洞穴に置かれました。

 このバール信仰をヘリオガバルスは狂信しました。このヘリオガバルスという名もバール神を表す言葉です。そしてついにはキュベレと同じように両性具有になることを欲しました。自分の腹に女陰まで手術で作ってしまい、鬘と絹の衣で女装して巷の娼家に出入りし、男と女、両者の相手をしてこれを楽しんだといいます。
 しかし、政治面ではオープンな手法をとったため、民衆と親密な関係を築き、人気は信仰ともあいまって急激に高まりました。これに危機感を抱いた親衛隊によって18才のときに暗殺されてしまいます。身の危険を感じたヘリオガバルスは便所へと逃げ込みましたが、母のソヤミヤスと共に惨殺され、首を切られたうえ裸の死体を市中を引き回わされ、石を抱かされてテヴェレ河に投げ込まれるという悲惨な最後でした。

 一方、信長の方は、「信長公記」に、 織田信長が弘治2年に、近江八幡の津島神社の祭礼で踊りを興行し、自ら天女をイメージした女装で「天人踊」を披露したという記述が記されています。以来、この祭は町の若衆が女装して山車をかつぐという形で現在も引き継がれ、奇祭として知られています。
 「かぶきもの」の先駆けと言えるかも知れませんね。

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「エメサとヒエラポリス、エラガバルスとアスタルテの兄と妹のペア。津島と伊勢、スサノオとアマテラスの姉と弟のペア。男と女、太陽と月は入れ替わるが、これは……」
「正確には、スサノオは月神そのものではなく、兄であるツクヨミという月の神がいるのですが、この神はスサノオの影にすぎず、事実上一体です。さて、二つのペアの属性が入れ替わっているのはなぜかですが、答はここでも簡単です。 スサノオとアマテラスとが元々一つであったように、エラガバルスとアスタルテは一つだった。シリアでも日本でも、唯一者は太陽と月とを一身に備えた両性具有神だったのです。ここで興味深いのが、熱田の主神です‥この神は熱田大神といい、神体は草薙剣ですが、正確には、草薙剣と一体となった状態のアマテラスのことなのです。 つまりスサノオとアマテラスの両性具有神。この神は剣神でありながら楊貴妃に変身して、日本を侵略しようとした唐帝国の玄宗皇帝を、その絶世の美貌で骨抜きにLたという伝説さえあるくらいです」
「両性具有神…。 そうか、バールとアスタルテは男でも女でもなく、またそのどちらでもある。ミルトンが『失楽園』 で書いているのはその意味か。三世紀の修辞学者アルノビウスも、(バールに、崇拝者達は明確な性別を認めなかった) と記録している」
 エラガパルスと常に寄り添い、その妻とも妹ともいわれるアスタルテ。 二つの神を取り巻く、去勢者と倒錯者の群。女装した司祭と男装した処女達。切断した血まみれの男根を、黄金の盆に載せて奪い合う男と女。
 スサノオとアマテラスの祭もはるか古代はそのようなものであったのか。火山と流血と叫喚とペストの神。生皮を剥いだ獣を投げ込んで、神に仕える処女の性器を辱めたスサノオ。その弟とともに、武装した姿で玉をちぎり、剣を噛み砕いたアマテラス。
「もちろん、血や性にまつわるどろどろとしたものは、信長の時代にはすでに完全に抑圧されていました。でも、古代からのバール信仰の記憶を守り続けていた人々はいたと思うんです。シリアから日本まで、牛頭人身のこの神を運んだ人々がいるのなら、彼らはそう容易に両性具有神への信仰を捨てるはずがない」
「信長が、そうした人々の血統だと?」
「我家の口伝を信じるならばそうです。それ以外にも、そう、ささいなことですが、例えば、織田家の紋章は牛頭天王と同じ木瓜(もつこう)です。おそらく、誰もが偶然だと言うでしょう。しかし僕は、バールの信徒には、現実に生物学的な意味で両性具有の人達がいたのではないかと思っているんです」
 ヘリオガバルスが、性的倒錯者ではなく、両性具有者そのものだったとしたら……。『皇帝列伝』が伝える男色も乱交も近親相姦も、精神の異常や宗教的頽廃によるものではなく、すべて身体的・生物学的な根拠を持っていたとすれば。
 アルトーはふうと息を吐いた。
「そこまでは、考えなかった。しかし、そうであったとしても……」
「おかしくない」総見寺が引き取った。
「晋の恵帝の時代といいますから、ヘリオガバルスの治世から七十年余り後、中国の洛陽に、両性具有者がいたと『捜神記』に記されています。(男女両性の機能を兼ねていたが、性質はきわめて淫乱であった)と。『捜神記』を著した干宝は、男の陽気すなわち男性原理と、女の陰気すなわち女性原理の乱れによって戦乱が起こるので、乱世にはしばしばこのような畸形が生まれると結論づけています」
「ヘリオガバルスのシリア」
「信長の日本」
「とめどない原理の混乱状態、まさに両性具有者の時代か」
 落日が、汚れた血の暗い色に変わっていく。
「牛頭天王の故郷といわれるインドでは、至高神であり、やはり聖なる牡牛に象徴されるシヴァとその妃パールヴァティーが、それぞれ両性具有の姿をとる神があります。アルダーナリーシュヴァラがシヴァの両性具有形であり、パフチャラジーがパールヴアティーの両性具有形です。まさに、バールとアスタルテのペアそのものでしょう? そのパフチャラジーを祭る現実の半陰陽の集団が現在でもヒジュラと呼ばれるカースト外の人々として存在しています。ちなみに、パフチャラジーとは〈さすらい、さまようもの)という意味のヒンドゥの古語です。両性具有の神は、両性具有の使徒達を連れて、ユーラシア全土をさすらい、ついに日本にまで渡って来たのです」
「インドはシリアとイラン高原を介して濃密な文化交流をしていた。きみは、あのキュベレの司祭達がヒジュラのような半陰陽集団ではなかったか、いや、バッシアヌス家の女皇(ユリア)達そのものが、両性具有者であったと言いたいのだろう。ドムナ、マエサ、ソエミア、マンマエア、いずれ劣らぬ美しい怪物だが、彼女達がそこまで特注品だったとは信じられん」
「ヒジュラにも真正の半陰陽はごく少数です。すでにヘリオガバルスの時代には、両性具有者はほとんどバッシアヌス家にも存在してはいなかったでしょう。だが、太陽の血筋はまだ奇蹟を生む力を失ってはいなかった。ヘリオガバルスはバールの申し子として生まれてきたのです」
「信長がそうであるように、か」
 総見寺は、静かに微笑んだ。

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