(蘇芳[すおう])

樹の上の草魚

薄井ゆうじ 講談社(1993)

 夏恵の煙草は、いちども吸わないまま燃え尽きてしまった。気軽に話しているようでも緊張しているのだろう。その証拠に、いま缶コーヒーをやっと開けて半分ほど飲み干した。亘は彼女のパールピンクに光ったマニキュアを見つめていた。指先で十個の小さな貝殻が動いているみたいだ。その指を見ながら亘は思った、ヒロシがもし女性になるとしたら、そういう世界へ行ってしまうのだと。
「肝心なことを話しておきたいの。これを話しておかないと、アンフェアだと思うから。ルールをつくりましょう。あなたが比呂司くんに男になることを勧めるのは自由、とめはしないし邪魔もしない。だからわたしが彼に女性になることを勧めても、邪魔をしないでほしいの。それだけは約束していただけないかしら」
「いやだね」
亘は言った。それまでずっと黙っていたために、声が思うように出なくてうわずった。缶のふたを開けて、コーヒーで口を湿らせた。今日はいちどに、いろいろな話を聞きすぎた。こういうことの判断基準なんて、亘は何も持っていない。夏恵のほうがこのことに関してはキャリアが長いぶん有利だろう。でもいやだ。ヒロシが一、男が男を捨てるなんていう話は、承諾できない。それを阻止するためには何だってしてやる。ルールなんか、なしだ。
「女なんかには、させない」
「わかるわ」夏恵はじっと考えている。「そのことを言おうとしたの、さっき。女というのは陰湿だって言ったでしょう。ずるくて陰険で泣き虫で不器用でのろまでおしゃべりでファッションと男にしか興味のない人間を、わたしだってこれ以上、ひとりだって増やしたくないわよ」
「だったら、どうして…‥」
「だけど男だってね、粗野で乱暴でだらしなくて意地悪でエッチで大声で怒りっぽくて勝手で足くさいじゃないの。いい? 男も女もおんなじ。だいたい誰が男は乱暴で女は泣き虫だって決めたの。そんなステレオタイプな男とか女が、どこにいるのよ。みんな誰だって、自分というのが最初にあって、男か女かなんてあとからずるずると頭陀袋みたいにくっついてくるものでしょう。そんなの、どっちだっていいじゃないの」
「じゃあ、ヒロシは男のままでもかまわないじゃないか」
「わかってないのね」夏恵はコーヒーの空缶を屑籠めがけてほうり投げながら、きっぱりと言った。「彼の命を救いたいの。男とか女とかである前に、命を確保するのよ」
 空缶は屑籠をはずれて床に落ちた。そして、ころころ、ころころと、転がりつづけた。


 亘の声を聞いて動揺した心を静めようとして、ヒロシは化粧台の前にすわった。鏡に顔が映っている。こんな顔のどこが美しいんだろうか。白くて細いだけじゃないか。男はみんな、女の顔について同じような言葉でしか表現しない。まるで女には美人かプスしかいないみたいに、どっちかの言葉を女の顔にあてはめる。そしておれは前者の言葉で顔を表現される。その言葉のすぐむこう側には、セックスがある。美しいから、させてくれないか。もっと独創的な言い方ができないんだろうか。まったりとして美しい? 男はみんな馬鹿だ。この顔はおれだけのものだ。くちびるも。男には触らせない、触らせたことがない。夏恵は別だ、彼女は女だからだ。でもそれも、いちどだけだった。ひきだしには化粧用具がぎっしりと入っている。コールドクリーム、クレンジングクリーム、ローション、ハイジェニッククリーム、パック、ファウンデーション、リップスティック、アイシャドー、マスカラ。そしてスキンブラシ、アイブローペンシル、コンパクト、パフ、スプレーネット‥‥‥。どのひきだしにも、化粧道具がぎっしりと詰まっている。ヒロシはそれらに番号をふって整理している。顔の、あるいは手のどの部分に使うのか、どの順序で、どれとどれを組み合わせて使うのか。夏恵がそれを教えてくれたのだが最初はわからなくなってしまって、ワープロでタイプした整理番号を小さく貼りつけていた。たとえば『E3』というのは目の部分の三番目に使用する。いまではほとんど覚えてしまったが、以前貼った整理番号がまだそのままになっている。夏恵はパッチテストのしかたも教えてくれた。肌が弱すぎるのか化粧品が強すぎるのか、ヒロシに合う化粧品は五つにひとつくらいしかなかった。ヒロシは自分を美人だとは思っていない。たぶん、ちがう。化粧に天才的な勘と才能を持っているだけだ。ジオラマと同じだ。太郎のことを考えた。あの桜の樹はとっくに死んだ。だがいま太郎は、緑の葉をたくさんつけて生き生きとしている。死んだ樹をよみがえらせたのは、ジオラマだ。ジオラマは、ヒロシの顔にも生命を吹き込む。自分が作り上げようとする顔をイメージして、それに丹念に接近していく。絶対に手を抜かない、そして急がない。手を抜けば必ず、その部分からニセモノであることがばれる。興ざめする。完璧に、絶対にばれることのないジオラマ世界を構築して、それを世間にさらすのだ。大衆をあざむき、世間を裏切り、そして自分もつくられた世界にひたりきる。それで完璧だ。それが化粧だ。ヒロシは化粧の陰から、世間のもうひとつの顔を見る。騙されるな、騙せ。おれはこの顔の上に熱帯植物園を毎日つくって、毎日壊しつづけている。そして明日は、昨日とちがう人間の顔になって町へ出ていく。
 ヒロシは女になってから、自分が姿かたちで評価されるということを知った。それはいままでになかったことだ。女になることは、舞台に上がることだった。ライトを浴びて子供のようにきらきらと生きることを強いられる。元気な、いい女でありつづけることを強いられる。舞台では、美しい女だけが喝采を浴びる。女が馬鹿みたいにファッションと化粧に熱中するのは、評価を恐れているからだ。おれは評価なんか恐くはない。あざむいてやるんだ。あざむくために化粧をする。ジオラマだ。化粧はジオラマよりもずっと面白い作業だった。ヒロシは顔の化粧よりも、髪の毛や爪の手入れのほうが好きだった。髪の毛はいま、肩にかかるくらい長くなっている。すこしウェーブをかけて、ほんのわずか金色に染めている。日光の下で逆光で見たときにほんのりと光る程度の金色。毛先の枝毛の始末は、シンジングをしている。焦毛法(しょぅもうほう)というやつだ。枝毛をつまんでその毛先をライターの火で焦がす。鼻先で毛が燃えるときの動物の匂いが好きだ。おれは動物なんだ、そう思える瞬間だ。
 ヒロシはいま、シンジングを終えたところだった。部屋のなかにはまだ、焦げた野生動物の匂いがわずかに漂っている。バニティケースのなかからオレンジの木でつくった細長い棒をつまんで先端に脱脂綿を巻きつけると、それをキューテイクルリムーバーに浸して爪の甘皮にていねいに塗っていく。プッシャーで甘皮を押そうとしたが、キューテイクルニッパーですこし切って、そのあとに上質の植物油を薄く塗りこんだ。エメリーボードで爪の先にやすりをかけて整えてから、鹿のなめし皮で磨く。それからピンク色のネールエナメルをむらのないように塗る。それが乾くのを待って、ポリッシュクリームを塗ってかるく磨きあげた。爪の手入れだけで三十分以上かかった。その動作のひとつひとつを、ヒロシはゆっくりとていねいに、まるで作法があるかのようにおこなう。(ライター男のように)たとえば爪やすりの持ち方、リムーバーのボトルの蓋の開け方と閉め方、ボトルを置く位置。そういうものをヒロシはきちんと決めていた。手を抜いてはいけない。慣れてはいけない。慣れて怠惰になるくらいなら化粧などしないほうがいい。化粧に関する知識は、チャームスクールの講師になれるくらい豊富になったが、講師とはちがう。覚えて慣れて取りこんでしまえば、それに侵される。距離を保つために、それを儀式化するのだ。何との距離? 女との距離だ。おれは女ではない、女と同化しない。女たちは自分を着飾って化粧して、偽ることに慣れて怠惰になった。化粧という作業のすべてが男に接近するための儀式だということを隠して、それは絶対にちがうのだと言い張っている。おれは男と女の両方を体験してやっとわかった。女はファッションと化粧という偽りの儀式に生きている。だがヒロシにとっての化粧は、自分のなかにある、おぞましい女をむりやり引き出す作業だ。(カテーテル!)そう、自分のなかの女を引きずり出して晒す、そのために化粧をするんだ。
 ヒロシは入念に化粧を終えた。ふと、疑問が起きた。なぜ今日は、こんなにていねいに化粧をしたのだろう。男に見せたいからか? たとえば亘に。彼の声をさっき電話で聞いたからか。ちがう、断じてそのせいじゃない。(本当だろうか)そう思う。女を---、女の化粧の楽しみをちょっと味わっているだけじゃないか。それならなぜ、さっきから神妙に化粧台の前にすわっているんだ。電話をかけたあと亘のことを考えながら、ずっと鏡の前にいるじゃないか。女なんだ。おまえは、女そのものなんだよ。ヒロシは鏡のなかに悪態をついた。鏡のなかでは、自分が見てもどきりとするほど美しい女が、あどけない顔をして、きょとんと、ヒロシを見ていた。


 「酔っ払ってなんかないです。いくら飲んでも、酔わないんです。どうしてだと思いますか。この部屋のなかに、草魚が泳いでるんです。桜の樹のあいだを草魚と寿司が泳いでいて、金の斧と銀の斧の、どつちがいいかと訊くんです。どっちでもいいから、鉄のペニスを返してくれって言ったんだけど、草魚と寿司が耳もとでけらけら笑って、相手にしてくれないんです」
「そういうのをな」亘は起き上がって、毛布の上からヒロシの腰のあたりをひっぱたいた。
「酔っ払ってるって言うんだよ」
「ちがう。酔ってない。耳もとで、声がするんだ。おれの鼓膜をびりびり震わせて、小人が耳のなかでしゃべるんだ。早く女になりなさい、あきらめて、男なんか捨ててしまいなさいって、ずっと話しかけてくるんだ。幼稚園のころ、桜の樹の下ではじめて聞いた声が、いまはすっかり女の声になって、早くこっちへいらっしやいって、ささやきかけるんだ。女の世界へ、楽しい世界へいらっしやい。ここには何でも手に入る素敵な秘密がいっぱいあるのよ、さあ女になって、こっちへいらっしやいって……」

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