花浅葱(はなあさぎ)

超・ハーモニー

魚住直子 講談社(1997.7)

 田村響は有名中学に合格して、両親の自慢の息子として順風満帆の生活を送っていたが、ある日、家出した兄が帰ってきた。
 兄は、7年前、響が6才の時に、朝早く図書館に行くと家を出ていったきり行方がわからなくなっていたのだった。 兄が、高校3年の夏休みのことだった。

(にいちゃんは、テレビのオカマのような、どぎつい原色の服は着てなかったな。ねっとりと油絵の具をぬりかさねたような化粧もしてなかったし。服にしても化粧にしても、もっと薄味だった)
かかわらないようにしようと思っても、いつのまにか、にいちゃんのことを考えていた。
でも、もし、にいちゃんが、どぎつい原色の服を着たり、油絵の具の化粧をしてたら、どうだっただろう。そっちのほうが、まだよかったんじゃないか。それならきっと笑えた。
そうだ、にいちゃんは、女に化けすぎているのだ。どんなにうまく化けても、こっちは、男だとわかりきっているのに。だけど、にいちゃんは、はずかしがったり、悪びれた感じが全然ない。堂々としている。
もとから、あんな感じだっただろうか。
思い出してみようとしたが、七年前のにいちゃんの性格は、響にはよくわからなかった。
でもとにかく、ああいう感じではなかったような気がする。もっと神経質で、いっもいらいらしているふうだった。オカマになると、性格まで変わるんだろうか。

 兄は、東京の「女の恰好で働く店」で働いているという。そして、お店の改装の間、3週間の休みを家に帰って暮らしたいと言った。


 今回も、児童文学ものです。
 ちょうど、西田俊也さんの「両手のなかの海」と同じ時期のものですが、こちらは、父親ではなくて、兄がニューハーフで、家に戻って来るという設定です。
 児童書にしては、設定がシリアスで、どなたかの告白物を読んでいるような感じです。両親の対応が、いささか小説用に味付けされていて、デフォルメされているようですが、他は、いかにも現実にありそうな話です。カミングアウト対策の参考になるかも知れませんね。


父親の声は、ふだんの声とちがって、低く太かった。ふだんは、単に無口なのか、それとも母親に力をうばわれておとなしいのか、判断がつかないような、あいまいな小さな声だ。
皿を流しにはこびかけていたにいちゃんは、父親をふりかえった。父親は、いきおいをつけるように肩で大きく息を吸った。
「いいか、そういうかっこうはすぐにやめろ。ふつうのかっこうをしろ。それができないなら、いますぐでていくんだ」
「そんな、でていけだなんて」
母親が口をはさんだ。父親は、するどい目で母親を見た。
「おまえも、どういうつもりなんだ。こんな吐き気のするようなかっこうの人間を、いつまで、そのままにしておくんだ。どうして着かえさせないんだ。平気なのか」
「平気じゃないわよ」
「じゃあ、なんでそのままにさせておくんだ。女同士になってうれしいのか」
「バカいわないで!」
母親は、かん高い声でさけぶようにいった。
「まえに、佑一がどんなふうでもいいから帰ってきてほしいって話したことがあったじゃないの。わたしはね、佑一が帰ってきたとき、それをちゃんと思い出したんです! そして、佑一は、わたしたちの子どもに、かわりはないのだから、迎えなくてはいけないと、さとったんです!」
「なにをいってるんだ。それは、佑一が生きてるか死んでるか、わからなかったときの話だろう。佑一はこうして、ぴんぴんしてるんだ」
父親はまた、にいちゃんに目をもどした。
「いいか、このうちにいたいなら、そういうかっこうはやめろ。吐き気のするようなかっこうはやめろ。わかったか」
にいちゃんは、手に持っていた皿を静かにテーブルにおくと、父親をまっすぐに見た。
「これがわたしなんだよ、おとうさん」
にいちゃんは、落ちついた声でいった。こういう場面を待っていたように思えるくらい、余裕があった。
「こうしてないと、わたしじゃないんだ。おとうさんがそういいたい気持ちはわかる。でも、こういうわたしをわかってほしい」
「なにいってるんだ。おまえは男なんだぞ」
「それはちがう」
にいちゃんは、ひきしまった声でいいかえした。父親の顔はひきつった。
「ちがうって、なんだ、どういうことだ」
「安心していいよ。体は男だから」
「じゃ、じゃあ、なんで男じゃないんだ。結局、店でそういうかっこうをしてるだけじゃないか。どうして、ふだんも、そういうかっこうをする必要があるんだ」
「おとうさんのいう男じゃないって、いってるんだよ。わたしは、女の人の装いをすると安心できるし、女の人じゃなくて、男の人が好きなんだ」
台所の空気が一気にこおりついた。響もにいちゃんを見つめた。
「……男が?」
父親はうめくようにいった。
「そうなんだ」
にいちゃんは、落ちついた声でつづけた。
「でも、それって、それだけのことなんだよ。よく考えれば、わかると思う。たいしたことじやない。そういう人間も存在している。ただ、それだけのこと」
父親の顔は、どんどん赤くなっていった。体も小さくふるえはじめた。


 私たちは、どうしてもカミングアウトするほうの立場から、考えてしまいがちで、されるほうの立場まではなかなか気が回らないのが実情ですが、相手を、理解がないと単純に責める前に、考えなければならないことがたくさんあるように思えます。
 TVの方は、自分の性格に気がついてからは、きっとそのことについて、ずっと悩んだり考えたりして来たわけで、多くの人は、偶発的な事故でばれてしまうことに対しても、一応の心構えは持っていると思います。まして、カミングアウトしようと思う人は、その時の相手の反応や、それへの反論を考え抜いていることが多いと思います。
 それに対して、相手は、全く予備知識も心構えもない状態であるわけですから、目の前の突然の出来事を整理する前に、理論整然と反論されても、ただ感情的な拒否反応を増大するだけに終わることも多々あります。
 その相手方との立場のギャップをどのように埋めていくか、工夫が必要になるわけです。
最近は、自分の世界と係わりの無いところでのTVに対しては、ずいぶんと冷静に受け止められる方が増えていますが、自分の身内のこととなると、まだまだ、どのように対応したらよいのか判断できないのではないでしょうか。


ノブをゆっくりとまわし、外にでると、ドアの横の壁ににいちゃんが体を投げだして、もたれかかっていた。
にいちゃんの白いブラウスは、あちこち汚れていた。肩から胸にかけて、血が点点と落ち、スカートも泥だらけだ。うしろで編んであった髪はくしやくしやにもつれ、顔におおいかぶさっている。右のまぶたが切れて、血が細く流れている。
「にいちゃん、どうしたんだよ!」
にいちゃんは、響を見あげると、力なく指を口もとにやった。
「静かにして。おとうさんたちが、起きてしまう」
にいちゃんは手をつくと、立ちあがろうとしてよろけた。響は、あわててにいちゃんのわきに手をいれると、そっとドアをあけ、玄関にひきずりこんだ。うちの中は静かだった。両親は気づいていないようだ。
響は、にいちゃんを玄関にすわらせ、泥だらけの靴をぬがした。にいちゃんの体をささえながら、ゆっくりと階段をのぽった。体に力をいれると、昼間、打った背中が痛んだ。
にいちゃんの部屋にはいると、にいちゃんは、くずれるようにすわった。
響は、いそいでまた下におりた。居間にそっとはいり、リビングボードから救急箱をとりだして、にいちゃんの部屋にもどった。
「いったいどうしたんだよ」
響は、階下にひびかないように小声でたずねた。にいちゃんは響から消毒ガーゼを受けとると、目の上をおさえた。
「散歩にいってたの」
「散歩で、なんでこんなにどろどろになるわけ〜 どっかでころんだの〜」
響はまた新しいガーゼをだして、にいちゃんにわたした。
にいちゃんはだまったまま、ガーゼで顔の血や汚れをゆっくりとふいた。すでに化粧ははげかかり、まだらになっていた。ガーゼでふくと、さらにはげて、ほとんど素顔になった。
ふいに不思議な感覚が、響の胸にわいた。
いま、目のまえにいるのは、髪をのばした男が、泥だらけのスカートをはいている姿だ。右まぶたが、すこしはれつつあるが、昔のにいちゃんが、年をとった姿だ。
でも、なつかしくは感じなかった。それより、化粧しているほうが、にいちゃんらしいと思えた。
にいちゃんは、化粧がすっかりとれたことに気がついていないように、ぽんやりしていた。
「ほんとにどうしたんだよ」
響はもう一度たずねてみた。


夜道の独り歩きは、気をつけましょうね。
人通りの多い、明るい道の方が絶対に安全です。
女装がばれる心配よりも、身の安全第一ですよ。

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