【紅紫(こうし)】

男が女になる病気

植島啓司 朝日出版社(1989.8)

 スキュタイでは、大多数の男性が生殖不能者となって女性の仕事をし、女性として生活し談話する。このような男性はアナリエイスと呼ばれる。ところで、土着の人々は、その責を神々に帰してこの人々を崇め、自分たち自身のことを心配して叩頭の礼をつくすのである。

 かつて黒海のステップ地帯に住んでいた最古の騎馬民族とされるスキュタイ人には、「男が女になる病」があったといいます。この本では、いろいろな時代・民族の女装の風習や伝承を引用して、この習俗を解こうとしています。女装文化に関する引用文献の多彩さには驚かされますが、次元の違うものを強引に結びつけようとしているのが気になりますし、「病」という言葉にこだわりすぎて、テーマとモチーフがくいちがっているというか、本質的なものがぼやけてしまっているような印象です。
 しかし、古代ギリシャの結婚式で、花婿が女性の衣服を身に着けて新婦を迎える風習をはじめ、たくさんの風俗資料はそれだけ読んでいても大変興味深いものです。

 私は、男が女のカテゴリーヘと自らをうつし入れるということ(又はそうした欲望)は、両性具有および一つの全体性の体現というばかりでなく、一つのトランスフォーメーションの現実化として意味を持つのではないかと考えている。すなわち、肝腎な点は、二つのカテゴリーの間を自由に往き来することができるという事ではなかったかと想像するのである。
 もっとも広く見られる信念の一つに、動物と人間との転生・輪廻、化身、霊魂と肉体との分離などの特徴が見出される。世界はつねに変化する事をやめない。人々は否応なくこの現実の世界とは異なる世界へと連れていかれるのだ。
 こうした信念のもとでは、異なる世界との間を幾度も自由に往復できる人間こそが神聖とされたのではなかろうか。カーニヴアルに登場する仮面・仮装はおそらくその名残りである。異なる衣裳・装身具をつける事によって、この現実の世界を離れることが可能になるというのは、決して個人の想像力に依拠するものではなく、集団の上記のような約束事に基づいているのである。ある人間が超自然的存在と関わるには、彼が普通の人々とは異なっているという表徴が必要なのである。それが広い意味での<病気>であり、ヒステリー性の精神的疾患のこともあるし、具体的な肉体的疾患のこともあるのだ。

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