(燕脂)

秘密

谷崎潤一郎(1911)

 この小説は、谷崎潤一郎が明治44年に発表した初期の短編作品です。谷崎潤一郎といえば、「痴人の愛」「卍」などマイナーな性愛の形を描いた作品で有名ですね。女装趣味自体は当時も風俗としてはあったのでしょうが、まだ女装という言葉すらもなかったような時代背景の中で、女装を正面から取り上げた作品は、当時としては画期的なことだったのではないかと思います。
 谷崎氏自身にTVの嗜好があったかどうかは、興味のあるところですね。作品の中では、「女性の着物を買う」「化粧品を買う」「女性の衣服を身に着ける」「化粧をする」「女装外出をする」というように、TVなら普通は、それぞれの行為が持つ意味を意識しすぎて、その一つひとつを悩みまた躊躇ながら段階的に体験してゆく過程を、この小説では一気に行ってしまう描き方をしているところを見ると、残念ながら谷崎氏の実体験というよりは、フィクションに近いのではないかと思います。
 でも、さすがに文豪と言われるだけあって、きものを着るTVの気持ちを言い当てた表現には全く感心してしまいます。きものを着たことのある人なら実感できる歓びが伝わってきます。


一体私は衣服反物に対して、単に色合いが好いとか柄が粋だとかいう以外に、もっと深く鋭い愛着心を持って居た。女物に限らず、凡べて美しい絹物を見たり、触れたりする時は、何となくふるい附きたくなって、丁度恋人の肌の色を眺めるような快感の高潮に達することが屡々であった。殊に私の大好きなお召や縮緬を、世間憚らず、恣に着飾ることの出来る女の境遇を、嫉ましく思うことさえあった。
あの古着屋の店にだらりと生々しく下って居る小紋縮緬の袷---あのしっとりした、重い冷たい布が粘つくように肉体を包む時の心好さを思うと、私は思わず戦慄した。あの着物を着て、女の姿で往来を歩いて見たい。………こう思って、私は一も二もなくそれを買う気になり、ついでに 友禅の長襦袢や、黒縮緬の羽織迄も取りそろえた。
大柄の女が着たものと見えて、小男の私には寸法も打ってつけであった。夜が更けてがらんとした寺中がひっそりした時分、私はひそかに鏡台に向って化粧を始めた。黄色い生地の鼻柱へ先ずベットリと練りお白粉をなすり着けた瞬間の容貌は、少しグロテスクに見えたが、濃い白い粘液を平手で顔中へ万遍なく押し拡げると、思ったよりものりが好く、甘い匂いのひやひやとした露が、毛孔へ沁み入る皮膚のよろこびは、格別であった。紅やとのこを塗るに随って、石膏の如く唯徒らに真っ白であった私の顔が、撥刺とした生色ある女の相に変って行く面白さ。文士や画家の芸術よりも、俳優や芸者や一般の女が、日常自分の体の肉を材料として試みている化粧の技巧の方が、遥かに興味の多いことを知った。
長襦袢、半襟、腰巻、それからチュッチュッと鳴る紅絹裏の袂、---私の肉体は、凡べて普通の女の皮膚が味わうと同等の触感を与えられ、襟足から手頸まで白く塗って、銀杏返しの鬘の上にお高祖頭巾を冠り、思い切って往来の夜道へ紛れ込んで見た。
雨曇りのしたうす暗い晩であった。千束町、清住町、龍泉寺町---あの辺一帯の溝の多い、淋しい街を暫くさまよって見たが、交番の巡査も、通行人も、一向気が附かないようであった。甘皮を一枚張ったようにぱさぱさ乾いている顔の上を、夜風が冷やかに撫でて行く。口辺を蔽うて居る頭巾の布が、息の為めに熱く湿って、歩くたびに長い縮緬の腰巻の裾は、じやれるように脚へ縺れる。みぞおちから肋骨の辺を堅く緊め附けている丸帯と、骨盤の上を括っている扱帯の加減で、私の体の血管には、自然と女のような血が流れ始め、男らしい気分や姿勢はだんだんとなくなって行くようであった。
友禅の袖の蔭から、お白粉を塗った手をつき出して見ると、強い頑丈な線が闇の中に消えて白くふっくらと柔かに浮き出ている。私は自分で自分の手の美しさに惚れ惚れとした。このような美しい手を、実際に持っている女と云う者が、羨ましく感じられた。芝居の弁天小僧のように、こう云う姿をして、さまざまの罪を犯したならば、どんなに面白いであろう。
………探偵小説や、犯罪小説の読者を始終喜ばせる「秘密」「疑惑」の気分に髣髴とした心持で、私は次第に人通りの多い、公園の六区の方へ歩みを運んだ。そうして、殺人とか、強盗とか、何か非常な残忍な悪事を働いた人間のように、自分を思い込むことが出来た。
十二階の前から、池の汀について、オペラ館の四つ角へ出ると、イルミネーションとアーク燈の光が厚化粧をした私の顔にきらきらと照って、着物の色合いや縞目がはッきりと読める。常盤座の前へ来た時、突き当りの写真屋の玄関の大鏡へ、ぞろぞろ雑沓する群集の中に交って、立派に女と化け終せた私の姿が映って居た。
こッてり塗り附けたお白粉の下に、「男」と云う秘密が悉く隠されて、眼つきも口つきも女のように動き、女のように笑おうとする。甘いへんのうの匂いと、囁くような衣摺れの音を立てて、私の前後を擦れ違う幾人の女の群も、皆私を同類と認めて訝しまない。そうしてその女達の中には、私の優雅な顔の作りと、古風な衣裳の好みとを、羨ましそうに見ている者もある。
いつも見馴れて居る公園の夜の騒擾も、「秘密」を持って居る私の眼には、凡べてが新しかった。何処へ行っても、何を見ても、始めて接する物のように、珍しく奇妙であった。人間の瞳を欺き、電燈の光を欺いて、濃艶な脂粉とちりめんの衣裳の下に自分を潜ませながら、「秘密」の帷を一枚隔てて眺める為めに、恐らく平凡な現実が、夢のような不思議な色彩を施されるのであろう。


 夜の闇は、昼の陽の光とはまた異なった感性を引き出してくれるものです。現代は、夜でも煌々とした照明の光に慣れてしまって、この小説の時代のように電球の薄明かりを頼りに暮らしているころの感覚はなかなか得られないかもしれませんが、祭りの夜などに裸電球の着いた夜店が並んでいる通りを歩いたりすると、一時代昔の街の賑わいに出あったようで不思議と郷愁が湧いたりしますね。
 電球もなかった時代には、ロウソクの光ですね。ロウソクの光で見る歌舞伎はどんなだったでしょうか。今でも、地方ではお祭りの屋台で演じる子供歌舞伎を見られるところもあります。昔は十分な化粧品もなかったでしょうが、ロウソクのほのかな光は、そんなハンディを差しひいても余りある美しさを演出してくれたのだろうと思います。
 現代では、映像もデジタルハイビジョンの時代になって、鮮明な画像が得られるようになった反面、女優さんは細部の化粧のあらまで全て映ってしまうので困っているという話も聞きますね。女性の肌を顕微鏡で見て美しさを感じる人はあまりいないと思います。やはり、人間には人間の感覚のスケールがあるのでしょうね。視力の弱いのも困りますが、見えすぎるのも考えものです。適度に眺めて、美しさを感じているのが幸せなのかもしれませんね。なんだか、自分の不出来な写真の言訳みたいですが……。

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