(亜麻色)

ある解剖学者の話

島田雅彦 新潮社(1986)

-本文より抜粋-

 うちのママさんも先生のことは気に入ったみたい。第六感に響く魅力があったのね。ほかの男と違うのは確実ね。何だか同業者に対するいつくしみみたいなのを感じたのよ。おかしな話だけど。
 あたしは女になってもう二年になるわ。ママさんは十五年よ。さすがに十五年も女稼業を続けていると艶っぽくなるわね。顔にも声にもしぐさにも男っぽいところはこれっぽっちも見当らないわ。その点、あたしはこれからね。ボーイッシュな女っているじゃない。
 あれは悔しいわ。自分が女だってことに甘えてるのよ。あたしなんか女らしい男と見られることが多くて困ってるの。レッキとした女なのに。
 Tさんとは何度かデートしたんだけれど、このあいだとうとうベッドインしちゃったわ。Tさんは興味半分だってことはわかってたんだけど、やっぱり女である以上、いつかはね。
 あの人、遊び慣れていて、愛撫も上手なんだろうけど、あたしはあまり感じなかった。一応、身をよじらせたり、アハッと声を出したりしたけど。でも、そのあとがいけなかった。
 Tさんはあたしの胸を揉みながら、左手でソーッとあたしの喉仏を確かめようとしたのよ。ひどいじゃない。あたしをはなから男だと疑っているってことでしょ。もう、気分も台無しでヤケになって、パンティも脱いじゃったわ。Tさんは穴が開くほど見つめちゃって、いい勉強になった、ですって。デリカシーがないのよ。あたしは女になるためにどれだけの努力をしているのか教えてあげたいわ。手術には二百万以上かかったし、衣装だって、体に合うのを探すだけで一苦労なんだから。特に靴は大変。二十六センチのハイヒールなんて日本には売ってないのよ。だから、二十五センチの靴を無理して履くの。この痛みをわかってくれる男は少ないわ。
 あたしが今まで、お客さんにいわれた言葉のうちで一番嬉しかったのは先生の一言。
 君の骨格はまぎれもなく女性だよ。
 あたしは自分が女だってことの動かぬ証拠を教えられたようなものだもの。 

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ドンナ・アンナ

島田雅彦 新潮社(1986)

-本文より抜粋-

 彼は鏡台の抽き出しをもう一度開け、毎朝アンナが行なう儀式をそっくり真似た。
 心臓の形をしたびんに入ったコールドクリームを顔に塗り、顔が歪むくらい、よく伸ばし、ファウンデーションで毛穴をつぶし、色鉛筆みたいなもので、瞼を青く塗り、口紅を唇を大きくしないように注意深く塗り……あと何かすることがあったっけ。
 ハッピィ・プリンスは何か不足していないか、鏡の中の彼女を入念に調べた。彼はふと、わざわざ女装して、鏡に映る自分を眺めながらマスターペイションをする人がいるだろうかと思った。直後、彼はこのおぞましい問いを吹き消すかのように、手許にあったVO5ヘア・スプレイを髪にかけた。
化粧や女装は一度味をしめたら病みつきになるという俗説がある。病みつきになるだけだったらいいが、アンナやさとみのように性質の悪いナルシストに変わるのはごめんだと彼は思った。女は男より鏡に向う時間が長い分、ナルシシズムの毒に冒されやすいのだ。
 アンナは毎朝、化粧をしながら何を思うのだろう。他人を巻き添えにするナルシシズムもたくさんだ。
 ぼくはナルシストに好かれるタイプなんだろうか?
ハッピィ・プリンスは鏡の中のハッピィ・プリンセスがやけに自信に満ちた顔をしているのを見て、思わずコールドクリームを指でえぐり取った。バカな真似はやめよう。何だか変な気分になってきた。ぼくにはおカマになる可能性があるらしい。やけに生々しく女を感じる。やはり、男ってのは不自然なものなのかも知れない。これをきっかけにおカマになったりしたら怖い。
 彼は指につけたコールドクリームを顔に塗ろうとはしなかった。
 鏡の中のハッピィ・プリンセスはさっきとは全く表情が違う。眉間に蜘蛛の巣状の皺を寄せ、彼の同情を買うような顔をしている。
 ちょっと遊んでみるか。彼がそういうと、彼女はニッコリ微笑んだ。彼は一分前とは正反対の気分になって、ズボンを脱ぎ、ベッドの下に隠し、アンナのガウンを着た。それから、もう一度鏡に向い、気分をより陽気にするためにロを大きく開いて笑った。これはアンナから教わった安直な気分転換法だ。
 インターフォンが鳴る。ハッピィ・プリンセスは万が一に備えて、ガウンの袖に尖った柄のついたくしを忍ばせた。
 受話器を取る間もなく、鍵穴に鍵が差し込まれる音がした。彼は唾を呑み込み、侵入者を迎え撃つ体勢を整えた。しかし、現れたのはアンナだった。硬い氷の緊張が一瞬にして融け、熱湯の羞恥が沸き立った。アンナは冷たい水をいきなり浴びせられたように一瞬、呼吸が止まり、目を大きく見開いたままいった。
 何の真似? びっくりするじゃないの。さとみちゃんが押しかけてきたのかと思った。
 ハッピィ・プリンセスは熱をはかるように額に手を当て、何が何だかわからない、といった。
 でも可愛いわよ。器用なのね。妹みたい。 

◇     ◇     ◇

 いらっしゃいよ。化粧を落としてあげるから。
 彼は黙ってうなずき、アンナと一緒に寝室に行き、鏡の前に坐る。
 化粧を落としたら、ぼくはまた男に化けるわけだね。やれやれ。ちょっと寂しいよなあ。化粧してる時は変な気分だったけど、今は女の心を捨てるみたいで、つらいよ。また、彼女に会いたいね。
 何いってるの。だいたいどうして女装なんてしたの? 『ばらの騎士』のオクタヴィアンの真似?
 まあ、そんなところかな。
 だったら、もっとうまくやりなさい。今度はあたしが手伝ってあげるから。
 しかし、アンナさんはすごい声だね。それに、ぼくはあんなヒステリーは起こせない。おカマになって、修業するかな。
 バカなこと考えないの。怒るわよ。
 ハッピィ・プリンスはティッシュで顔をぬぐいながら、ため息をつく。
 ぼくの母はね、ぼくを俳優にしようとしてたんだ。ヒステリックなステージママでね。さらにひどいことにぼくは母のいうことさえ開いていればいいと思っていた。母親の影響力は本当に怖いよ。息子の体を自分のものみたいに扱うんだから。
 アンナは彼のいうことなど殆ど聞いていなかった。自分にとってのハッピィ・プリンスにしか興味がないのだ。
 あなたのこと愛してるわ。今まで恋愛なんてバカバカしいと思ってたけど、あなたと暮すようになってから、気が変わったわ。
 彼は眉間にさらに複雑な蜘蛛の巣を張って、彼女の顔をしげしげと眺めた。彼の目には年上の女性に対して抱く少女の憧憬が満ちあふれていた。 

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