【紫苑(しおん)】

ミセス順

佐藤洋二郎 文藝春秋(2002.11.10)

 毎日、鏡を見ていても、今日はこれだけ老けてしまったなどとは気がつかないものですが、1年前、3年前、5年前と比べるとやはり変わっていますよね。知らぬ間に、皴が増え、頬やアゴがたるんでいることにある日突然気がついて、がく然としたりします。
 若いころは、気にもしていないし、例え意識はしていても自分が直面している問題じゃないから、他人事のような感覚で見ていましたが、誰にも避けられないことでもあります。
 八百比丘尼やオーランドのように、永遠の若さを手に入れることは出来ませんが、少しでも若くきれいでいたいというのは、誰もが望むことです。私の場合、「美しいものを見ようとしたら、目をつぶらなくちゃ駄目よ」なんていえるほど悟れなくて、きっと、老いても悪あがきをして挫折感ばかり味わっているんじゃないかと思います。


 二十年前、いまとおなじように戻ってきたとき、わたしは知り合いと駅通りのスナックに入った。そこにあかいミニスカートで、肩まであるながい鬘をつけたミセス順がいた。ミニスカートから見える脚は痩せて細く、目も窪みすっかり老いていた。ひび割れた色艶のわるい唇をし鬘もずれていた。彼はタンバリンやマラカスを持って歌う客の伴奏をしていた。ダンスもうまく、ジルバでもタンゴでも器用に踊っていたが、年老いているからか途中で息が切れてしゃがみ込んだ。ミニスカートが捲れ、老人の肉の削げた尻にむらさき色のパンティが見えた。酔った男にしなだれかかり歌っていたが音痴だった。ミセス順は客が笑ってもなんとも思わず、どんなに音程が外れても歌い続けた。薄汚いおかま野郎だ。わたしを誘った男は舌打ちし不愉快そうに言った。
 世の中が変わってしまった証拠さ。ああいう人間が堂々と大手を振って生きている。連れは酔った男とステップを踏むミセス順をにらみつけていた。帰ろう。わたしが席を立とうとすると女将がやってきた。知人は仕方なく座ったが、わたしは不安だった。いい育ちだからああいうこともできるのよね。女将は声をひそめた。どこの人間だと知人が訊くと、彼女はミセス順の寺の話をしいまは弟が跡を継いでいるのだと言った。彼が店に来てくれると、客も明るくなるから助かるのだと複雑な目をむけた。踊りもマラカスもうまいし、それに並外れた音痴なのに堂々としているでしょう、とわたしたちの反応を窺うように見つめた。おかまの坊主のほうが商売繁盛するのではないかと連れは言った。じきに踊りが終わったミセス順が近づいてきて、わたしだと気づくと表情も変えずに挨拶した。知人がまた舌打ちすると、美しいものを見ようとしたら、目をつぶらなくちゃ駄目よと笑った。彼はこちらに気づかい、今日は、わたしは人間じゃなく、お人形なの、だからなにもお喋りをしたくない気分と言った。ミセス順は老い、額に深い皴が走り、汗でそこに分厚く塗った白粉がたまっていた。結局、ろくに話すこともなく別れたが、わたしはもらった本のことも言えず、その上知人に親戚だということも隠したのを恥じた。


 どこまで化けるか、衣裳だけ、お化粧まで、整形や薬、手術で身体までと、人によって様々ですが、物理的なことはあくまで、衣裳・化粧の延長です。手術も脱げない衣裳を着たようなもので、自分は自分です。外見が変わった途端に、心までが女性になってしまうという魔法などありません。
 それでは、何が違うのかといえば、それは他人の評価や扱いが違うのです。人間の価値は、外見ではないといいますが、相手のことをよく知らないかぎり、人はやはり外見で判断してしまうのが現実です。歴史上では、ユダヤ人というだけで強制収容所に送られた悲惨な例などもあります。
 なりたい自分になるには、まず外見を変えて、人からそのように評価してもらい、扱ってもらうのが手っ取り早い方法です。「王様と乞食」ではないですが、そのように扱われているうちに、自分自身も変わってきます。外見は、人格を閉じこめる社会的な囲い(檻)のような働きをします。
 性も装うものです。
 だから、自分がどのように装うかは、自分が何を求めているかのひとつの回答でもあるのです。

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