(黄緑)

性同一性障害はオモシロイ

性別って変えられるんだヨ

佐倉智美 現代書館(1999.6)

(http://village.infoweb.ne.jp/~tsrev164/mermaid.top.htm)

 佐倉さんのTGとしての歩みとその時々の思いをまとめられた本です。佐倉さんは真性の女性と結婚され、社会的には女性として働かれていますが、ホルモンや性転換はされていません。ご本人のHPを見られてすでにご存知の方もいらっしゃると思います。
 佐倉さんの持ち前の性格なのでしょうか、とても明るい感じの本でした。いろいろと苦労もされているはずですが、あまり触れられていません。タイトルのとおり現実を楽しんじゃえということでしょうかね。私は、ハーフタイムですから実生活の面から教えていただくことが多かったですね。

 性同一性障害はたしかに障害であり、ハンディキャップである。しかし見方を変えれば、それは他人にはない、自分のかけがえのない特長なのではないか。男と女の両方を生きてみるなど、まずめったにでさる経験ではない。そう考えると、何か自分は人生を得して生きているようにも感じられてくる。
 性別を変えて生さる試みは、やってみると、性別に縛られていては決して分からないようなことも見えてきて、じつはある意味ではとてつもなく面白いのである。
 そう、性同一性障害はオモシロイ。
 それに気づいた日から、佐倉智美は自分に肯定的になった。

 性同一性障害GIDという言葉を聞く度に、障害者という表現が適切なのか、私はいつも疑問に思います。社会的な意味でのハンディキャップ者の方がいいのではないかと思っています。 “普通”の男性や女性もハンディキャップを持っています。こう書くと意外に思うかも知れませんが、それぞれ社会的に男らしさ、女らしさの社会的規範の制約の中で生活しています。その制約の自覚の度合いが違うだけではないでしょうか。
 自分の気持ちを社会に合わせて生活いくうえで、社会的に選択の巾がないというハンディがあるのです。身体的な外見はGID治療という名の下に替えられるようになってきましたが、それは単に身体的・物理的な状況だけであって、社会的には何一つ変わっていないのです。病気として治療してしまえば、それで全て解決したのだと間違ってはいけないと思います。
 失礼ですが、佐倉さんてほんとうにGIDなのかしらって思ってしまいました。佐倉さんがGIDなら私もGIDっていうことになるのかな?私はGIDとしての自覚はなくてTVだと思っているのですが、気持ちの上では重なる部分がとても多いと思います。違いは私がハーフタイムだということくらいかな。(それが、決定的に重要だといわれそうですが)
 「らしさ」にとらわれているのかもしれませんが、女性の姿でなければ様にならない(表現できない)ことが自分の心の中にいっぱいあるのです。男性の姿のままでは、押さえ込んでしまうより他にないようなことが。男性だからとか女性だからに関係なく自分の気持を表すのにふさわしいその時々の自分の姿(これも自分だけの思い込みですが)が有ると思うのです。
 社会的にはGIDという言葉ばかり先行しているから、勘違いしている人が多いんじゃあないかとも思うのですが……。「自分はTVだけを楽しんでいるような変態じゃないんだ。ちゃんとした病気なんだ」って変な正当化をして納得している人いませんか?もちろん、人の気持ちは固定的なものじゃないから私だってこの先どうなるか分かりませんけれど。

 そもそも「女になりたい」とは、はたしてどういうことなのだろうか。
 そこには、案外気づかれていない、輻輳した意味が含まれているように、最近思うようになった。

 ひとつには、『女性のほうに属したい』欲求だという考え方がある。
 つまり周りから”このヒトは女性なんだ”と認識してもらい、女性として接し、扱ってほしいということである。これは、学校や職場で感じてきた自分と社会との不調和が、自分が男として扱われることに起因すると気づいたとき、強く願ったことでもある。”コイツは男だ”と思われ、男の仲間として行動することを期待され続けるかぎり、多くの望まぬ、ないしは不得手なことにもつき合わされざるを得ないが、それは最終的には、それに耐えられない自分と周囲との軋轢となつてしまう。
 女に生まれてさえいれば、望む扱われ方ができたのに…‥。幾度となく、そんな煩悶にさいなまれた。
 そうして、長い葛藤の末、女性として生きる道を選ぶことになるのである。これは、自分で言うのは僭越ではあるが、生まれついた性別の制約を乗り越え、本当の自分らしい生き方を選択する、積極的な行為だと評価することがでさる。
 この際、化粧をしたり女物の服を着ることは、周囲に対し、”このヒトは女性ですよ”ということをアピールする手段となっている。いわば、目の不自由な人の杖の白い色、あるいは免許取りたての人がクルマに貼る初心者マークのようなものだ。
 しかし別の考え方もある。
「女になりたい」には、『女性のすることを自分もしてみたい』という意味合いも、多分に含まれているのではないだろうか。その場合は化粧も女物の服も、それ自体が「してみたいこと」であり、それそのものが目的ということになる。他にも、女の子どうしでする楽しいおしゃべり、グルメやカラオケ、ショッピング……。『女性のすること』を、このようにまとめてしまうのには、私としても異論があるのだが、とりあえず説明の便宜上、ご容赦いただきたい。ともかく、こうしたことをおこなうことが願望としてあり、実行できることが幸せなのである。
 かわいいグッズがたくさん並べてある雑貨店などで商品を手に取ったりするとき、あぁ女になれてょかったと、しみじみ思うものだ。
 だがよく考えてみよう。
 これらはべつに、女にならなくてもかまわないはずだ。男のままでも、しようと思えばできる。こういうことをするのは女の人で、これらは女らしいコト。そんなことを男の人がするなんて、”男らしくない”。そういう社会の思い込みの圧力が、妨げとなっているだけなのだ。
 こうした「らしさ」は、じつは社会のいろいろな場面に巣くっていて、学校や職場・家庭などでの男女のあり方に、さまざまな枠をはめている。そうして、男女双方に「らしく」しなければという空気を送り、多くの男女に生活の上での息苦しさを発生させている。本来、何がしたいか、どういうふうに生きたいかは、誰であれ、その個人の好みや適性によつて決まるべきである。
 だから、女性として行動するという目的のために、ことさらにバッチリ”変身”するのは、ある意味では、世間一般のそういう約束事に負けて、現実から逃避しているのだと言うこともできなくはない。

 男のままでもいいではないか。堂々と自分はこういうふうにしたいのだと、女性としての好み・生き方をつらぬけばよい。それが認められる社会ならば、問題はいちじるしく軽滅される。
”女らしいこと”を、男性がはばからずすることができ、”男らしいこと”を女性がおこなって咎められることがない。そういう世の中こそが、まさに性別のバリアのない、「らしさ」のしがらみから自由な、ジェンダーフリー社会だと言える。
 いや、だいいちそれなら”男らしさ・女らしさ”という言葉自体、意味を持たなくなるはずだ。そうなっていけばいいなと、むろん私は思う。

 だが、ここで矛盾が発生する。
 先に述べた『女性のほうに属したい』欲求としての、「女になりたい」気持ち。これはたしかに自分の中にあるのだが、これはある程度の”男らしさ・女らしさ”の枠組みがあった上での、その”女らしい”ほうに所属したい、そういう気持ちである。
 そういう意味では、”男らしさ・女らしさ”の消滅した完全なジェンダーフリー社会が来ては困るというのも、私としては、あながち偽った気持ちではない。
 しかし一方で、今まで女性の心で男性社会を生きてきて、そして今回属するジェンダーを転換してきた中で、こうした「らしさ」に基づく性別役割のオカシさ、非合理さなどが、いっそうはっきり見えてきて、それらを改めたいと強く願っているのもたしかである。
 これはどうしたことだろうか。
 ボーヴォワールの有名な言葉がある。
「人は女に生まれない、女になるのだ」
 もちろんこの”女”を”男”に書き換えても、事情は同じである。性別は通常、生まれたときの外性器の形状がハッキリしているかぎり、それをもって判定されている。だが人間の男女が持つ、社会的・文化的な性別による差異は、必ずしもそれによらない。どのような環境で成長するか、どのような期待を受けて育つかに大さく影響される。
 男の子は男らしく育つようにと、周囲から望まれ、彼はその周囲の期待を意識・無意識に、有形・無形に取り入れ、内面化して育つ。女の子もまた、女らしくなるようにという周囲の願いを感じ取り、彼女はそれに合わせた自我形成をおこなっていく。これを専門用語では、『ピランデッロ効果』というらしい。


 お芝居を演じるように、その時々でリバーシブルに使い分けることが出来ればいいですね。自分らしさを大切にしたいというなら、性転換が認められるとしても、一生男性か女性かどちらかしか選択の余地が無いというのもおかしなものです。自分の心の中に共存するいわゆる男性的な心と女性的な心どちらも大切にしたいと思います。そういった意味で私はTSではありません。

 私がおんなのこモードで街を歩いていると、たまに男性からナンパされたりする。その他にも、何度か痴漢やストーカーの類に遭っており、実際困ったものである。
 もっとも私も、街でキレイな女の人を見かけると思わず見とれてしまうし、好みのタイプの女性と知り合うきっかけなどがあろうものなら、ついついハッスルしてしまうので、あまり他人のことは言えないかもしれない。
 でもって、そんな私も、最近はトランスジエンダーの集まりなどで、いろいろな人に会う機会が増えてきた。そういう場には、もちろんジエンダーの問題に関心を持つ ”一般”女性もいる。が、一見女性のようでも、じつはMtFのトランスジェンダーの人であることも多々ある。もちろんそこでは私もそのひとりだ。
 そしてそういうシチュエーションで、じつは私自身、発見だったのであるが、相手がトランスジエンダーだとは分かっていてもなお、やはりキレイな「女性」には見とれてしまうし、好みのタイプだとなんのかのときっかけを探してはアプローチを試みてしまうのだ。
 実際、「あのコ、かわいいナ」というような感情を確認したときは、自分自身、不思議であった。
 もし仮に、そんなコと恋に落ちたりしたら、これははたしてどういう関係と定義されるのか? 肉体的にはゲイで、外見上と精神的にはレズビアンということだろうか(その前に「妻帯者」である私にとって、それってやっぱり浮気・不倫に該当するのでは……?それとも法律的にはこれは浮気にあたらない?)。
 このように考えてくると、世間一般で広くおこなわれている、「女」「男」という単純な二分法が、ばかばかしくさえなってくる。
 肉体性別、精神性別、服装の性別、性的指向、これらの組合せは無限に(この四つで単純計算しても十六通り!)ある。
 それを「女」か「男」かのいずれかに無理やり分類してしまうのは、じつははなはだ乱暴な話だ。

[もどる]

inserted by FC2 system