(滅紫[けしむらさき])

語り手の事情

酒見賢一 文藝春秋(1998)

「貴女の言いようでは、どうもここでも私の望みがかなうことは無い、というわけですな」
「普通に考えてそうでございましょう。女装するくらいで趣味の域でおやめになるのが賢明です。幸いにもハノーヴアー様は常識的な社会生活が営めておられるようですし」
「ああそうだね。出来のいい息子が二人いるし、もう何年も指一本触れておらんが、まずまずの女房もいる。わが弁護士事務所の顧客も増える一方だ。これが常識的社会生活の手本となるかね。気が違いそうな苦悔を抱えたままでも!」
 この屋敷を訪れても、何も解決されないらしいと観念したのか、ハノーヴアー氏の声は落ち込んでしまっております。
 たんなる服装倒錯ではなく、さらに一歩進んでしまったことがハノーヴアー氏の妄想の悲劇のようでした。妄想のスピードは他のたいていの精神の衝動よりも速いことが問題であり、ハノーヴアー氏にはその妄想のスピードを遅くする、あるいは妄想に追いつくだけの力がないということなのです。
 だからといって妄想に追いつく力があることがいいというわけではありません。妄想が強すぎて固着することも幸福とは申せません。あまりに強すぎる妄想の固着は周囲の空間まで歪め、他者の精神まで汚染してしまいがちです。そうなってしまった人々をお医者様は、多くの場合精神病患者と呼ぷことになるわけですが、ハノーヴアー氏の場合は日常生活を支障なくこなしているわけですから、そこまではまだ大分距離があると申せます。


 肉体と精神(霊体)ともいいますが、自分の本体がどこにあるのかと考えると、手足が無くても自分は在る、臓器さえ入れ替えられるから自分そのものではない、などと考えていくと、頭だけが残るのですが、結局、神経を走る微弱電流の刺激こそが自分であるという、あまり信じたくない結果になります。
 でも、自分とはほんとうにそれだけのものなのでしょうか?

 誰しも、一度や二度は、”いったい自分とは何なのか”と考えたことがあると思います。
 自分とは何なのかと考える自分がいて、また、そんなふうに考えている自分を見詰める自分がいて、それを認識する自分もいて……。ロシア土産の入れ子人形のように、自分というものはつかみ所が無いですね。

 自分の顔を自分では見られないのと同じように、自分(精神的な)を意識しようとするときに、自分本来のものでない何かに自分を投影しなければ表現することは出来ないのです。肉体なくして生きることが出来ないのは事実ですが、肉体もまた、自分を投影する外の世界のものなのです。
 わたしたちが普段見ている世界は、自分の認識を外的な対象に投影したものです。ちょうど、風船やシャボン玉の膜を見ているようなものですね。中に詰まっている自分は、「気」のようなもので、雰囲気というか気分というか、ちょっととらえ所が無くて表現しがたいものです。ですから、自分を表現するときには必ず、自分を投影する自分以外の何者かの形を借りなければ言い表せません。

 でも、自分という得体のしれないものの力で自分の認識の世界が出来ているのなら、自分自身の働きかけで、自分を取り巻く世界も変わってくるということでもあるのです。
 長年培ってきた常識で、風船やシャボン玉の膜も鋼鉄のように固まってしまっているかもしれませんが、自分が変わっていけば少しは膜も柔らかくなって周りの世界も変わるかもしれません。これを「殻を破る」と言います。(日本の言葉は本当によく出来ていますね!)

 自分の潜在意識をコントロールして、自分の肉体までも変えてしまう!!
 この小説は、そんな物語です。


ハノーヴアー氏は夜半零時を過ぎた頃、小肥りの身体をひっさげて廊下をどたどたとやって参りました。その手には大きな鞄をお持ちになっています。
「その鞄は何ですの」
「決まっているじゃないか、私のコレクションだ。私の体に合わせて作った女の衣装が詰まっている。よそではおおっぴらに出せるものではないのでね。いつもは信用のおけるさる婦人に預かってもらっている。彼女ははとんど私と同じ体型をしていてね」
 ハノーヴアー氏は、いいかね、とウインクすると鞄を開きました。鞄というよりはよく出来た衣装ケースというべきもので、衣服に妙な折れ目がついたり、痛んだりしないようクリップの付いた板により何重にか仕切られたものです。ハノーヴアー氏は数々の自慢のドレスを引っぱり出しにかかります。どんな生地で、どの店に仕立てさせたかを楽しそうに説明します。また、いかにして自分の寸法を測らせることなく、つまり店の者には誰か他の女性のものと思わせて、自分にぴったりの衣服を作らせるかなどの苦労話を語ります。なるほど大変苦労をしたと察せられます。こうして見る限りでは女の服が好きで仕方のない普通の女装マニアと違いはありません。
 私はハノーヴアー氏が衣装を取り出して床に並べ始めると止めました。言いました。
「衣装はおしまいください」
「えっ」
「ハノーヴアー様、たんに女装なさるためにここにいらっしやつたのですか。女装するたけならどこか人里離れたところに別荘でも借りていくらでもなさることができるでしょう。もっとエキサイティングに、女装したまま出歩くとかをおやりになるなら、そんなことはもうハノーヴアー様は実行なさっておいででしょうけど、難しいことではないはずです。白粉と香水、ひととおりの化粧をすませれば、女の服は膨らんだスカートから襟元までぴっちりと肌をかくします。その網の手袋をつけ、大きめの帽子をかぷりネットを垂らして顔を隠し、その上日傘を斜めに持ってまるで女のように歩けば、よほどのことがないかぎりあなたを男と見破る人間はいないでしょう」
「その通りだ」
「ですがあなた様はそれでは不足だからここにいらっしゃった。女になりたいとの妄想を膨らませて、控えめに言わなくとも、本物の女性になってみたいという希望をお持ちなのでしょう」
「まさにその通りだ」
「ならば女の身体を包み込む布などに頼る意味はありません」
「言われてみればそうだが、私が今の姿で、むくつけきままで女になっても、なあ。見てくれに問題があるではないか。私は自分が美しいと思って女装するナルシシストタイブではない」
「まず女装という観念をお捨てくださるよう。ハノーヴアー様、女になるとすれば外見は間題ではないのです。あなたが女になりたいと思うのなら、それだけの力がなければなりません。妄想からどれだけ力を引き出せるか、それで勝負は決まるのです」
 「それはいったい……。具体的にはどういうことなんだね」

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