(枯色)

ヒジュラに会う

知られざるインド・半陰陽の社会

大谷幸三 ちくま文庫(1995)

(参考)
ヒジュラ 石川 武志 青弓社
(インド第三の性)
ヒジュラ セレナ・ナンダ 著 青土社(1999)
(男でもなく女でもなく) 蔦森 樹 訳


日本では、歌舞伎を始めとする伝統芸能、民俗芸能など舞台の虚構の世界、祭事などの約束事の世界では、かなり豊かな異性装の伝統がありますが、社会的な制度や慣習のひとつとして日常レベルでの女装に対しては、強力なタブー感が働きます。
しかし、世界の国の中には、タヒチのマフ、北アメリカのベルダーシュ、インドのヒジュラなど普段の生活のなかで女装が認められる社会があります。
ヒジュラは、現在もインドに存在し、その数は何万とも何十万ともいわれます。表向きは「両性具有」ということになっていますが、実際にはそのほとんどが去勢した男性です。もともとは、子供の誕生や婚礼の祝いの場によばれ、歌や踊りで祝福する芸能者であったといいます。

 彼の話によると、一般のインド人と同様、ヒジュラもいくつかの系統に分類できる。
 文化的、伝統的カテゴリーでは、二つのヒジュラが存在する。

 1.回教徒のグルーに従う者。彼らは心情的には、パキスタンのラホールの町に帰属する。多くは大都会、それもムガール帝国時代に栄えた町、アグラ、デリー、ラクノウなどに住んでいる。芸人的性格が強い。ヒンドウー出身者も多く含まれる。これをスジャニと呼ぶ。
 2.古いヒンドウー社会に生きる者。彼らは田舎の村や小都市に多い。回教徒はいない。スジャニより貧しい場合が多い。宗教的性格が強い。これをライと呼ぶ。古来、超能力で知られたヒジュラは、すべてライである。

 次に形態的、肉体的カテゴリーでは、三種のヒジュラが存在する。

 1.チブラ。半陰陽、不能者、去勢した者、その他一切の性的に不完全である者。先天的であるか、後天的であるかは問わない。彼らがヒジュラ社会の核である。狭義のヒジュラ(性なき者)はチブラをさす。
 2.アクワ。女装してはいるが、去勢していない者。アクワからチブラヘ移行するケースが多い。彼らが人数では圧倒的に多い。チブラの周辺を形成する。チブラと共に生活し、仕事をする。
 3.クルクルムンディ。男装のままで女性のように振舞う者。クルクルムンディとは「頭に布を巻く」の意味で、彼らはタオルを、鉢巻きのように巻いている。アクワにもチブラにもならない。ときどき仕事はいっしよにする。楽器を演奏する者が多い。一種のホモセクシヤルと考えていい。

 後で確認したが、この名称と分類は、北インド全体で通用する。ただこれらは隠語であり、ヒジュラ以外にその意味を知る者はいない。

ヒジュラとは、自分自身を男でもなく女でもないヒジュラだと信じて生きる人々のことだそうです。半陰陽だけでなく、去勢した者、女装した者、彼らの社会に身を寄り添わせる男女も含まれています。肉体的な形態よりも、個々の精神的な有りようの方が重要なファクターであるようです。

「いいですか。インドは貧しい。十五人も子供を産む場合もよくある。そのうち一人が半陰陽だったとする。ヒジュラは金を払う。五百ルピーだって大金だ。そうして売られてきた者も結構いる。
今の世の中でも、半陰陽に生まれたら滅多に幸せにはなれない。女だと思って大人になる。嫁に行ったら、翌日離婚される。これは残酷だ。病院へ行っても大そう金がかかる。女らしく手術をしても噂は消えない。それだったら、ヒジュラで生きた方が何倍もよい。そういう人間も知ってるよ。でも少数だな。ほとんどは好きでなるのさ」
 ヒジュラというだけで軽蔑される。カーストからも棄てられる。法的な権利も主張できない。どうしてヒジュラになりたい者がいるのか。
「簡単なことだ。理由は三つある。
 第一に、生まれたときからのヒジュラだ。体だけの問題じゃない。ヒジュラの心で生まれれば本物のヒジュラだ。そういう人間はたくさんいるよ。男だけじやない、女もいるよ。
第二は、セックスだ。私は知らないが、魅力があるらしい。それを求めてヒジュラに加わる。愛人ができる。彼のために去勢する。不思議じゃないね。
第三は、金だ。貧乏な家に生まれて、一生貧乏で暮す。誰だって耐え難い。でもチャンスなんかない。ヒジュラはもうかる。大きなファミリーのグルーになれば大変な収入がある。一晩の仕事で、普通の人の年収ぐらい稼ぐ。これもわかるね。ボンベイのマダム・プーラ。三年前に死んだが、デリーのマミー・セラーズ。連中の財産はすごいもんだ。
 まあ、こんなところかな」
 そこへ三人のヒジュラが挨拶にきた。けばけばしいサリーを着て、三人とも頭からショールを被っている。ビジリは笑い出した。
「わかるかね。三人とも男だ。いや、本当の男だ。結婚して子供もいる。普投は男で働いている。私が忙しいときだけ、女装して手伝ってくれるのさ」

ヒジュラは厳格なカースト制の中で、カーストを外れた人間としての扱いを受けます。しかし、それでもカーストを外れてヒジュラになる者がいるということは、どうしてなのか。インドは差別社会ですが、差別の中にもそれぞれの階級の中で社会を構成し、その人間としての存在は肯定する社会なのではないでしょうか。

「確かに半陰陽が生まれるのは、君の言うように偶然だ。それも不幸な偶然だ。しかしインドには偶然は存在しないんだ。彼らが生まれる。そこにはそれだけの必然的な理由があると考えられる。彼自身の何らかのめぐり合わせが、彼を半陰陽としてこの世に送り出したのだ。そうして生まれてしまった者を、われわれはヒジュラと呼んでいる。ヒジュラとは、古いヒンディー語のヒジュダが訛ったものだ。
 インドで、われわれが今こうして生きている。これは前世の褒賞であると同時に懲罰でもあるんだ。わかるか。これが数千年インドが培ってきた哲学だ。物事の終わりがはじまりに続いている、このインドのような世界で、いつからヒジユラがああやって生きているか、などということは意味がない。またそんなことは誰にもわからない。神話時代からインドには半陰陽集団があって、歴史のいろんな場面で活躍してきたといわれる。
 しかし彼らはブラーマンじゃないし、貴族でもない。正確な彼らの役割や生活など知りようがない。ただ俺がブラーマンとして生まれ、彼らがヒジュラとして生まれた。これだけは言えるな。われわれはともに自分の生命を、褒賞と懲罰の表裏の関係で生きているってことだ」
 半陰陽さえも、彼が運命的必然で説明しようとすることに、私は不快感を覚えた。カーストと同じように、半陰陽も宿命的なめぐり合わせだと言うのだ。貧困や現実的な不幸に対して、深い慈悲や憐憫を示す者でさえ、低カーストの人間たちに対しては、同情心を持つことは少い。特に上層カーストの者は、そういう考え方そのものが欠落している。だが、そのときの私には、彼に反駁するだけの力も知識もなかった。

 すべての意味で、インドは残酷な人間社会である。生まれ落ちた瞬間の、時と所の偶然が人間を厳しく選別する。極端なハンディキャップや不公平をそのままに、人々は熾烈な生存競争に立ち向かわねばならない。目前の食を奪い合う者。客を求めて争う者。利益のために闘う者。権力の頂点をきわめんとして謀る者。およそ人が人であるための、あらゆる階梯に過激な競争があり、それをセーブするルールがない。浮かぶ者は著り、沈む者は無限に沈む。インドほど容赦なく人を打ちすえる社会も珍しい。打たれる者は犬のように打たれ、犬のように生きる。
 人の生命は所詮、前世の褒賞と懲罰の間にあり、誰一人この浮沈の落差をいぶかる者はない。次に生まれてくるとき、自分が虫であるか、象であるか、それは判らない。生命の変転の偶然と気紛れを、人は必然と呼び、自己の人生を甘受して生きる以外に道はない。他に道がない限り、人は己れを律するより、他人を笑う方を選ぶ。どんな不幸でもインドでは、人はそれを笑うことができる。鏡を見て映る己れの姿を笑うように、犬のように生きる者が、犬のように死ぬ者を笑う。

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