[桃色]

両性具有迷宮

西澤保彦 双葉社(2002)

 シロクマ星人に、手違いで特殊な体にされてしまった小説家の森奈津子さんたち17人の女性に連続猟奇殺人犯の魔の手が……。というといかにもシリアスな感じですが、気軽に読めるアダルト系ユーモアSF小説というか、でも、現代の社会病理の深層に迫るようなところもあって、なんともけったいなお話しです。


「気にする必要はなくてよ。世の中には己れのセクシュアリティが何なのか判らなくて悩んでいるひとはたくさんいるんだもの。それに、そのひとがヘテロなのかレズなのか、はたまたパイなのか、なんて固定されているわけではないんだし。その時その時、相手との関係で決まる。それだけの話」
「相手との関係で…‥?」
「例えばコネコちゃんが惹かれた相手が、たまたま女性だったとしましょうか」
「すると、レズだ、というわけですか。逆に相手が男性なら、ヘテロで―」
「厳密に言えば、相手との関係性だけではなくて、己れのセクシュアリティにも拠る。コネコちゃんが、もし”女”なら、男性を相手にするのはヘテロだけれど、自分が”男”として惹かれるのなら、それはホモセクシュアルだから」
「え。どういうことですか、それ。女のわたしが男性を相手にするのが、どうしてホモセクシュアルであり得るんです?」
「例えば、ニューハーフという言葉があるでしょ。あれはセクシュアリティというより職業上の意味合いが強いタームだけど、もともと生物学的には男性なわけよね。それが己れの性に違和感を覚えて女性になる。いわゆるトランスセクシュアルね。女装程度にとどまるひともいれば、性転換手術を施すひともいるけれど、いずれにしろ彼らは内的な自己において”女”なわけ。判る?」
「ええ。なんとなく」
「そんな彼らが男性に惹かれるのは、これはヘテロセクシュアルでしょ。”女”が男性と関係を持つんだから」
「じゃあ、逆にニューハーフのひとが女性に惹かれるのはレズビアン、ということになるんですか?生物学的には男性と女性の関係にもかかわらず?」
「そういうこと。いわゆるトランスセクシュアル・レズビアンね」


 主人公の森さんて、す〜っごく素敵なんですよ!地球征服を企んでいた気の弱いシロクマ星人の手違いで、森さんは♂になっちゃうんですが、イッチャウと♀に戻って、一眠りするとまた♂になるという特殊な体になちゃうんです。でも、それにも、まったくめげることなく人生を楽しんじゃうという、非常に前向きな人なんです。おまけに、テクニシャンという設定ですからたまりません。厳密にいえば、タイトルのような両性具有ではないような気もしますが、堅いこと言わないで、楽しんじゃえばいいですね。
 このお話しに出てくるセックスシーンには、ほとんど女性(少なくても精神的には女性)しか登場しないのですが、それでも、掌を合わせただけで、エクスタシーを感じてしまうという純情な初恋(ある意味では、究極のマゾ?)のようなものから、SMの極意まで、セックスのあらゆるバリエーションを網羅してしまっているという不思議なお話です。

 作者の西澤さんは男性ですから、セックスに対する女性の感じ方・考え方が、この小説のとおりなのだとは思われませんが、主人公の森さんに語らせるセクシャリティの考え方は大好きです。
 セクシャリティの枠組みや定義付けにこだわる必要などなくて、お互いに認めあえるのなら、自分の感じたままのセクシャリティでパートナーと接すればいいわけですね。肉体的な性に囚われずに、その時々それぞれに、内面的に男や女のイメージを演じるというもの面白いものですね。

 生物として自然の摂理に反しているとか言われそうですが、これも自然界のほかの生き物と比較すると人間社会の規範だけを根拠とした狭い考え方のようです。生物界では繁殖と性は全く異なる次元のものらしいのです。人間の文明社会こそが最高の形態だと思っている人には、きっと、受け入れられない考え方なのでしょうね。

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 この小説では、手違いというか事故で♀が♂になってしまうのですが、当然の成り行きとして、もとの体に戻りたいと考えます。(自分が望んで♂の体になったわけではないですからね)
 体の状態に係わらず、心の中は以前からの自分というものが継続しています。体に合わせて心までいきなり♂になってしまうわけではありません。ですから、心の中は今までどおり♀の自分であって、心と体を一致させようと♀の体に戻ることを望むわけです。でも、はたして心には♂と♀の性別なんてあるのでしょうか?

 小説を読んだり、ドラマやお芝居を観ているときに、あなたは、どちらの性の視点で見たり、感情移入していますか?男性?女性?それとも自分は自分であって、性別なんか意識していない?
 ”私は女性の感性で、観ている”と言い切れる人は意外と少ないかもしれませんね。逆に、女性になりきれていない自分を再認識してしまうと思っている方も多いと思います。でも、それは、女らしさの幻想にとらわれているだけかもしれません。
 乱暴な言い方ですが、自分が♀(または♂)であるという確信を持っていれば、体やらしさに係わらず♀(または♂)であると言えるのかもしれません。

 ♂の体になったときに、もとの状態(♀)に戻りたいと思うのは、突然♂の体になって心の準備が出来ていないからなのか、♀として暮らしたほうが暮らしやすいからなのか、今まで生きてきた体の性を当然あるべき姿と単純に思い込んでいるだけではないのか?
 ほんとうは、心に性別なんてなくて、実は、体に合わせて、そのつもりになっていただけの幻想で、体の形に関係なく自分というものは存在しているんじゃないのか。それならば、自分が確信できる性こそが、自分の心の性であるのではないか。

 女装に限らずいろいろな意味で、体の形態や”らしさ”の幻想で生き方を制限される社会が現実にあって、私たちは無意識のうちにそれを常識として受け入れ、他人を評価しながら自分で自分の心を縛る生活をしているから悩んでしまうのかもしれません。


「つまり役割分担の問題なのよ。犯罪というのは反社会的行為でしょ。でも社会を構成する以上、その中で一定の人数が反社会的な存在になるのは、ある種の必然なんだって。いや、これはあたしの考えじゃなくてね。どこかで読んだか聞いたかしたことの受け売りだから、そのつもりでいてね。個人レベルでの人間が健全な存在になり得ないことは、改めて考えてみるまでもなく自明の理でしょ。そりや善良な面もあるだろうけど、同時に暗黒面も併せ持っているわけで」
「善良な面。あるのかな、そんなもの。暗黒面ばっかりですよ、人間なんて」
「一般的な話なの、これは」怪奇小説家らしい世界観を披露する倉阪さんを一蹴。「そんな人間たちが集まって構成するんだもん。社会が裏から表まで全部、健全でいられるなんてことはあり得ない。善良な面を受け持つ人間も必要だけれど、暗黒面を受け持つ人間も必要。大雑把に言うと、そういう理屈」
「受け持つ−」咄嗟にピンとこなくて、わたしは頭を掻きかき。「ですか」
「人間、誰しも邪悪なものを内に秘めているんだけれど、それを自由に表現できるとは限らない。秩序が成り立たなくなるからね。むしろ欲望とは往々にして抑圧されなければならないものであって、換言すれば、うまく我慢できるひとたちこそが社会適応者、すなわち善良な人間と看傲されるということでもあるんだけど。でも、抑圧されたものは消えてなくなってしまうわけではない。常に深層意識下で蠢(うごめ)き続けている。それを、いわば代理でガス抜きのように表現する―この場合で言えば、犯罪行為に走る―人間も、社会が存続してゆくためには必要だと。要するにそういう理屈よ、役割分担というのは」


 現代では、TV(異性装)は犯罪ではありませんが、過去には、TVも犯罪として扱われていた時代があります。そして、今でもTV(特に男性の)は反社会的行為であるという潜在的な意識に囚われている人がほとんどです。自分は、そんな心からは解放されていると言う人であっても、行動は周りの人の持つ意識に縛られてしまいます。
 ですから、TVは異性の中に紛れ込みたいと考えます。本来の服装の持つ記号に、自分を同化させること、紛れてその中に受け入れられることが究極の目的となってしまいます。でも、それがほんとうの目的なのか?他に置き忘れてしまった心はないのでしょうか?

 ほんの数十年前には、現在のようなTVの状況は夢のような話でした。社会の秩序の中で、容認される範囲が広がってきたということでしょうか。ある意味で、TVも社会のガス抜きのような面を持っているのも事実ですね。
 秩序は善、欲望は悪などと決めつけることは出来ません。何が健全で、何がそうでないか。善悪と短絡的に結びつけることから誤解が始まります。TVへの欲求は、けっして特殊なものではなく、誰もが潜在的に持っている欲求の一つなのだと分かれば、また自分の世界も変わってくるのではないかと思います。制約の強い社会では、抑圧されて情報も孤立化し、自分だけの特殊な欲望だと思い込んでしまうことが多いのではないかしら。自分で自分を追い込んでいるのですね。
 美しいものを美しいと思い、好ましいものを好ましいと思い、自分もそうありたいと思う。求めるものは、人それぞれ違うかもしれませんが、それはそれでいいのではないでしょうか。
 どこまで、お互いの価値観の多様性を許容できる秩序ある社会が構成できるのか、もっともっと見直していかなければいけない事があると思うのですが。

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