(香色[こういろ])

両手のなかの海

西田俊也 徳間書店(1997)

 社会的に「素直が良いことだ」と言われたりするのは、あくまでも他人に対して逆らわないということであって、自分に対してではないですね。
 わたしもよく「自分に素直に」「自分の心に正直に」などと書きますが、「あっ、それ欲しい」と持っていっちゃったり、「あっ、それしたい!」といって自分に素直にしちゃったりするのは、当然のことながらほとんどの場合には違法行為なのですね。行動に移す前には当然のことながら、他人とのかかわりを考えたうえでなくてはならないですよね。
 「自分に素直に」というのは、その時代、その社会が持つ価値観によって社会に受け入れられる範囲が大きく異なるのです。だから、「自分に素直に」などと言われても、素直とは本来それ自体が違法なんだという前提からまず物事を考えたほうが良いようですね。

(ものがたり)
 沢木一海、母との二人暮らし。県下有数の進学校の高校に入学して高校生活にもやっと慣れてきたころ、母が仕事の関係で函館に転勤することになってしまった。「一緒に函館に行くのか、一人このまま残るのか、どちらか決めるように」と言い残して、母は四週間の出張に出かけた。
 その母の出張中に、大変なことが起こってしまった。失踪していた父が突然、帰ってきたのだ。それも、信じられない格好で……。

 思い掛けない出来事に遭遇して、初めて父の真の姿を理解してゆく息子のお話なのですが……。


 帰り道のぼくの足取りは、いつになく軽かった。ぼくは口笛を吹きながら、家の玄関のドアを開けた。
 大きな赤い靴が脱いであった。
 母さんの仕事の関係の人が勝手に上がり込んでるのは、めずらしいことじゃない。ぼくは、無視して二階の自分の部屋へ行き、宿題にとりかかった。
 ひと息つき、階段を下りて玄関に行くと、まだ赤い靴がある。あたりは夕暮れに包まれているのに、リビングの明かりは消えたままだ。変な客だ、とぼくは思った。
 靴は大きいうえに、横に広がり、色は血のように赤く、生々しく光っていた。あまり近づきたくないお客だな、と思いながらもおそるおそるドアを開けてみた。
 ソファーに座っていたのは、もこもこの金髪頭に、ぬらぬらと光る口紅と長いまつげの醜い中年女だった。
 スパンコールのちりばめられたイエローのドレスに太った体を包み、手には大きな宝石のついた指輪がいくつも並び、大きく開いた胸元には真珠のネックレスが何本もじゃらじゃらとぶらさがっている。
 女? いや、ちがう、こいつはオカマだ。
 女の格好をしているけれど、全然似あっていない。濃い化粧はエラの出た顔をいっそう醜く見せていたし、いまどき売れない手品師でさえも者ない悪趣味な服を着ていた。
 歳は四十歳前後に見えたけど、本当のところはよくわからない。
 そいつはひとことで言えば、火事にあったおもちゃ屋の焼け跡に残ったバービー人形のようだった。
 なんだよ、こいつは……。ぼくは最初、宿題に集中しすぎたせいで幻覚でも見ているのかと思ったほどだ。
「すみません。せっかくお待ちいただいてるのにアレなんですけど、母はいま出張中なんです」
「…………」そいつは白い歯を見せて笑った。
「アノ、だからお引き取りいただけますでしょうか?」
「何を言ってるのよ、一海(かずみ)」
「は」
「あたしよ」
「あたし?」
「そう、あんたの父さんよ」
 何を言ってるんだ、こいつは。


 自分の身に置き換えて、切実な問題になっている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 もちろん、これは小説ならではのストーリー展開で、自分から積極的に子供にTVを表明してゆくという選択は、現実にはなかなか出来るものではないのですが、これくらいの信念はもちたいものだなと思います。
 しかし、子供の方の反応が小説のように行かないのも一方の現実ですから、非常に危険な賭けですね。家庭崩壊の穴に落ち込まないように、よくよく考えてから行動して下さいね。


 ぼくは小学校の四年か五年のときのある光景を思い出していた。それは、そういう人たちが世の中にいることを初めて知ったときの出来事だった。
 塾から帰ってくると父さんがめずらしく早く帰って、一人でテレビを見ていた。父さんがこんな時間<に帰っているということにも驚いたけれど、テレビに映ってるのが裸の女の人だったことにぼくはもっと驚いた。見て見ぬふりをして自分の部屋へ行こうとしたときだった。父さんが言った。
「この人はホントは男なんだぞ」
 ぼくは思わず振り返った。テレビの中では、どう見ても女としか思えない人が大きなオッパイを揺らし、くびれた腰に手をあてて、お尻をくねらせ、艶やかに踊っていた。ぼくは目を点にしながら、目が離せなかった。
「きっとチンチンもないんじゃないかな」
 その人は小さな布切れのような金色のパンティをつけているだけだ。
 ぼくはそのとき、女の人の裸にドキドキする気持ちも忘れて、不思議な気持ちになっていた。
「世の中にはこういう人だっているんだ」と父さんが言った。
 そうか……、ぼくは目からうろこが落ちるような気がした。男は大人になると男になるしかないと思っていたけれど、中には女になってしまう場合もあるのか、と。男から男へ、あるいは男から女へ。ぼくはさっき塾で解いたばかりの、三つの選択肢のある問題のことを思い出した。


 あいつは手に持ったハンドバッグをぶらぶらさせ、背中にくるっとひっかけた。「まったく、格好なんてどうだっていいじゃない。あたしはあたしらしくふるまっただけよ。ちょっぴりためらいもあったけれどね。あたしだって、そこまで強くないからね。でもあたしは、あんたが見にきてくれたのを見つけたとき、嬉しかった。来たかいがあったというものよ、と胸を張りたくなったわ」あいつは燻草を取り出して火を点けた。「あいつらももう少しまともな大人になっているかと思ったけど、たいしたやつは一人もいなかったわね。生きることのすべてが手段にしかすぎないのよ。それもつまらない目的のための。最後に行ったカラオケ屋で、年収の話になったときは興ざめしたわ。おまえのところなら、一千万は軽く越えてるだろ? いやいやそんなにあるわけないよ、それはおまえのほうじやないのか。年収を試験の点数に変えたら昔と一緒じゃない。やれやれ」
 「高校の友だちなんてそういうもんじゃないのか?」
 さっき、古川が電話をかけてきた。どうしておまえはカラオケに来なかったんだ? やっぱり家庭教師が来てるのか、って。
「明日はみんなあんたのことを、面白おかしく職場で話すだろうよ!」
「これであいつらはあたしのことを一生忘れないよ。あいつら、あたしがどこの大学に行ってどこの会社に入ったかはよく覚えてるくせに、あたしがどんな高校生だったかなんて、何も覚えちゃいないのに。そう思うと愉快だね」
「あんたが愉快でもオレはちっとも愉快じゃない。オレはあんたのせいで、全然勉強が手につかなくなってるんだ。今日だって模擬試験だったのに」ぼくはアスファルトを蹴った。
「もちろん、ちょっとやりすぎだって思わなくもないわよ。でも模試の一度や二度くらい、失敗したっていいじゃない。実力があるならまたすぐに取り戻せるわよ。そのための模試でしょ」
「簡単に言うな!」
あいつは動じる様子もなく、ぼくの目を見た。顔はアルコールでうっすらと赤らんでいた。でも目は澄んでいる。
「一海は自分のやってることが大変なことだと思ってるかもしれない。でも本当は、けっこう簡単なんじゃないの?」
「どういう意味だよ? 軽々しく言うな、こんなに努力してるってのに、簡単とはなんだよ」
「一海にとっちゃ、暗記したり計算問題を解くことなんて、小さいころからずっと続けてきたから、ある意味じゃ慣れっこになって簡単じゃないの? あんたが大変だと思っているのは、自由な時間を犠牲にしているという気持ちのほうじゃないの? だって本当にがんばってたら、ちょっとやそっとのことでダメになったりなんかしないと思うわよ」
「黙れ!世の中はそういう風になってるんだ。何かを犠牲にでもしなきや、勉強の時間なんて作れないんだ」
「そっ。あたしなんかがエラソーに言えた立場じゃないけどね。あたしもあんたぐらいのときは、いろいろなことをほうり出して脇目もふらずにやってたわ。先生と親の顔色だけはいつもうかがいながらね」
けたたましいクラクションを鳴らして車が一台、猛スピードで脇を通り過ぎていった。あいつの髪が揺れた。ぼくはあいつの顔をまっすぐ見ることができない。
「人の言うことなんかほっときやいいの。負けることの何がこわい? 考えてごらんなさい、たしかに会社に勤めていたころはだれもあたしを笑ったりしなかった。でもあたしが本当はどういう男か、だ−れも知らないままだった。あたしはそんなのもうイヤになった。いまのあたしが本当のあたし。もう嘘はだれにもつきたくないの。卒業アルバムの中のあたしは嘘つきよ。だから今日は、十年前の同窓会よりずっと楽しかった」
 こいつは、こういう男だったんだ。
「じゃあ、自分さえよければすべていいのか?」
「そんなつもりはさらさらない。だから言ってるんじゃない、あんた、あたしが本当はこういう男だっていうのに、また帰ってきて嘘をついてほしいわけ? あたしが家を出たあと、何をしていたのかって訊いたわね。いろいろなことをやったわよ。日雇いだってやったし、パチンコ屋で住み込みで働いたりもした。でも続かなくてね。体を壊したり、お金を盗まれたり、運の悪いことが重なって、ついにはホームレスになっちゃったの。駅の地下道にいるあたしの前を、かつての取引き先の男たちが何人も通り過ぎていった。あたしが失業したあと、手のひらを返すように態度を変えた男たち。だれもかれもあたしを無視した。ときにはあたしの寝ている横で、若いOLと抱きあうサラリーマンもいた。あたしは人間じゃなく、街の影や壁の染みとしか思われていなかった」
 ぼくは耳をふさぎ、目を強く閉じた。でもあいつの言葉は聞こえてくる。卑下するわけでも、開き直るわけでも、悲しむわけでも、悪びれるわけでもなく。
「隣にいた男が、ある日、誰かにけとばされて死にそうになった。あたしは犯人を見た。捕まえてやろうといつも見張っていた。そして居酒屋の横で、吐いていたところを捕まえた。悪気はなかったんだ、とそいつは謝ったよ。女にフラれて、ムシャクシャしていたんだって。あたしはそいつの財布から、お金を奮ってやった。そして出てきた学生証を見て、声も出なかった。大学の後輩だったのよ。それから何日もしないで、隣にいた男は冷たくなっていた……。その男があたしじゃなかったとだれが言える?」
 あいつはまだ続けようとした。ぼくはたまらくなってきびすを返した。胸の奥から涙のようなものがこみあげてくる。でも泣くものか、と思った。
「死んだ男はあたしにやさしくしてくれた素敵な人だったよ。お互い家族のことは話さなかったけれど、一度だけ、女の子が一人いるとポツリともらしたことがあったわ」
ぼくは立ち止まらなかった。
「見かけにまどわされてちゃダメ。人はよく見もせず自分勝手にいい加減なことばっかり言ってる。そんなものにまどわされないで、心の目で見るの」
足が重く、歩いても歩いても前に進んでいる気がしなかった。
 ふいに風が頼に吹きつけた。涙がこみあげてきた。ぼくは絶対に泣くものか、と汗でぐっしよりとなったコインを強く握りしめ、あいつと別れて歩き続けた。
 ぼくはビールを飲み、酔っ払った。帰り道、住宅地の家はどろどろに溶けて見えた。ぼくは吐いた。
 家に帰り着けないと思った。でも朝起きると、自分の部屋のベッドで寝ていた。いつのまにかパジャマに着替えている。脱いだ服もきちんとたたまれて椅子の上にあった。自分以外の人の匂いがした。一人で家にたどり着けなかったのだ。無事帰れたのはだれのおかげか、明らかだ。

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