墜ちていく僕たち
(Falling Ropewalker)
森 博嗣 集英社(2001.6)
インスタントラーメンを食べたら性転換しちゃった、というお話しです。
小説ですから、性転換するきっかけなんて別にこだわる必要もない訳ですが、インスタントラーメンを食べたら……というギャグっぽい設定は、この本のオムニバスな短編シリーズの中で共通の舞台装置になっています。
思いがけない事故(?)で性転換して、別の性で生きていかなければならなくなったとしたら……。でも、ほんとうは以前から女性になりたいという願いがかなってしまった「僕」の心模様が詩的に描かれています。
変化といえば……
大きな鏡を一つ買ってきたこと。
大きな大きな鏡。
地球的に大きいんだ。
全身が映るやつ。
なんか、毎日、それ見てるの。
ぼうっと……。
女性には寂しがりやって、いないんじゃないかな。
孤独なんて、この魔法のガラスの境目には留まれないんだ。
寂しさは、ロープを切ろうとするナイフだったわけだし、
悲しみは、例の重い平均棒だったんだから。
そんなの、全部、もう雲の上さ。
落下した僕は、
ほら、
笑っている。
鏡の中で笑っているよ。
今日の不安は、飛んで飛んで、
顔を洗って、おととい、おいで……。
これってさ、
ほとんど神様のワザだと思う。
ずっと、どこかで見られているんだね。
幸せだな……。
僕、生まれるとき、
男になろうって、ついつい、思ってしまったんです。
それから、ずっと思い込んでいました。
だから、
これが、自由!
思い込まないのが、自由!
素敵だな、
思い出したように、
「自由」を語るなんて。
うっとり。
本当に、こんな安定感って今までになかった。
鏡一枚の世界なのにね。
それに比べて、
綱渡りのロープの上はナローでタイトな境界だったよな。どうして、あんな不安定なぎりぎりのところを渡っていたのだろう。平均棒を握り締めて、必死でバランスを取っていたんだから。だって、そうしなければいけない、落ちてはいけないんだって、ずっとずっと思い込んでいたもの。生まれるとき、最初に、そう思ってしまって以来、すっかり信じていた。
そうなんだ、僕は、男になろうと思って、ずっと男でいなくちゃいけないんだって思っていた。そうやって、ロープの上でしがみつくようにして、ただただ真っ直ぐに歩いていたわけ。
でもって、それ、行き先って、どこなの? 結局はさ、ロープの先へ進むだけなんだよ。他にどこへも行けやしない。まったく、どうかしているよなあ。世の中、こんなに広いのに、こんなに自由なのに。
今、新しいアウトサイドが、
古いインサイドを解き放ってさ。
なんて素敵なんだろう。
なんて居心地が良いのかしら。
ロープの上で平均棒を持って「俺たちだけが高いんだ」なんて威張っているピエロに比べたら、ここは本当の天国。そんな雲の上のロープなんて誰も知っちゃいないんだから。
ああ……
なんという安定。
なんという快適。
これは不可逆。もう戻れない。
本当に……
神様、僕はずっと間違っていました。
もう、安心です。
墜ちて良かった。
もっと、早く墜ちれば良かったんだ。
鏡の中の自分を眺めているだけで、こんなに落ち着ける。僕はこの世の王様、お姫様、ただ一人の存在。他人なんて全然関係ない。絶対的な自分がここにいるんだから。
想像もできなかったなあ。
これが女性なのか。
もしかして、これが人間の完成形なんだね。
パーフェクト!
もう、笑いが止まらないって感じ。
ずっと微笑んだままだし。
お化粧も楽しいし。
髪の毛をとかすのも、めっちゃ気持ちが良いな。
外に出るわけじゃないんだよ。自分独りで見てるだけ。それで充分なのね。どうして、女の子ってあんなことすんのかなって、不思議だったことが、もう全部わかっちゃったよ。こんな簡単なことだったんだ。気持ちが良いわけ。ああ、そうですか。それに尽きます。ごめんあそばせ。
うん、すっきりじゃん。
やっぱ、男なんて不完全なだけ。
だいたいが中途半端だし、考え方が凹んでいるし、ぶつぶつ理屈っぼいうえ、ここ一番で自分勝手だし、そのくせ他人のことばっかり妙に気にしてんの。本当はいつだってびくびくしてるんだよね。寿命が短くなるはずじゃん。
なんでかな……。
結局は自分自身が宙ぶらりんだから、何事に対してもそうなるわけで、落ちるのが恐いから、バランス取るのに精いっぱいで、余裕がないっていうか、つまりは、馬鹿馬鹿しい幻想にぶるぶる震えているわけじゃん。端から見たら単なる臆病だよね。まあ、いいのいいの。そういうこともね、ほら、こうして落ちたからこそ言えることで、バンジィ・ジャンプと同じさ。
思い込んで、信じ込んでの、込み込みってやつ?
今日も、朝から春の日差しでとっても気持ちが良いのだ。体の調子もすかっと良いし。以前は、すぐにお腹が痛くなったり、目とか頭とか痛くなったりしたんだけど、そういうことも綺麗さっぱりなくなっちゃったよ。躰が無理をしていない証拠。精神も無理をしていないって感じでしょうね、これ。はは、健康だし、美容にも良いのだ。
私も、こんな感じを味わったことがあります。女装クラブで、初めて人前で完全女装したとき、それから、初めて女装外出したとき、とらわれていたものがなくなって、とても心が軽くなりました。軽くなってふんわりとして浮かんでいるような、落ちてしまったのではなくて、まさに墜ち続けているような感じですね。
男女が対極であるのなら、男が執着の綱渡りをしているように、女も綱渡りをしています。
隣の芝生が青く見えるのと同じように、隣の綱の方が、太くて安定しているように見えるのか。綱を切って、広い大地に飛び移ったつもりでも、気がつくとやはり以前と同じように、綱渡りをしている自分がいる。もう一度、綱を切って墜ちて(あるいは昇って)行く先はあるのでしょうか。自分の手で切った綱を、再び繋ぎ直して渡らなければいけないのでしょうか。
綱の上に立たなければいけないと思うから、辛くなってしまいます。
綱の上あるいは引かれた線の内側を歩かなければいけないと思うから、辛くなってしまいます。
たとえ綱が無くても、墜ちている状態であっても、そこには、自分の空間があり存在があるのです。
綱を踏み外したあるいは引かれた線をはみ出した人生への畏れを断ち切るには、たいへんなエネルギーがいりますが、一歩を踏み出す行為自体は、意外と単純なものです。
女装(異性装)は、例えていうと命綱付きのバンジージャンプや宇宙遊泳みたいなものでしょうか。
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