空五倍色(うつぶしいろ)

いつも二人で

宮部みゆき

 文藝春秋(1992)・文春文庫(1995)「とり残されて」より

眠れない夜のあなたのために

(ものがたり)

マンションの留守番のアルバイトをしていた相原真琴は、以前この部屋で自殺をした姫野君絵の幽霊に取り憑かれてしまった。君絵の幽霊は、真琴の身体を借りて、真琴に女装させ、生前に果たせなかった計画を実行してゆく……。


そんなバカな。
「驚かないで。手を離してくれない? 話ができないもの」
しっかりと手で押さえつけているのに、口が勝手に動いてしまう。そのきれいな声は、若い娘の楽しげな言葉は、真琴自身の口から出ているのだった。
 悪い夢だ。頬をつねってみる。
 痛かった。
 頬を叩いてみる。
 パチンと音がした。真琴は大きく目を見開いた。
「そんなことしないで」ロが勝手に動いて、また女の子の声を出した。
真琴は必死に蓋をしたが、掌の下で唇が―そうしようと思わないのに―動いてしまうのが感じられた。
「お願いだからそんなに怯えないでよ。なにも怖がることなんかないんだもの」
「き、き、き、君、だ、だ、誰?」毛布と布団をかき集めてちぢこまり、声の主を求めて部屋じゅうを見回しながら、真琴はかろうじて声を出した。それが自分の声であることに、目が回りそうなほどの安堵を感じた。
 が、それもつかの間、またまた唇が独断専行した。出て来たのは、あの甘い声に、少しばかりスネた調子をブレンドしたものだった。おまけに真琴の唇は、ちゃんとそういう音色の声を出すべく、可愛らしくとんがってしまうのだ。
「男のくせに怖がりね。あんまりあわてられると、いっしょにいるあたしのほうが恥ずかしいわ」
 真琴は仰天した。心臓が二、三歩足踏みした。
「今なんて言った?」裏返ってしまっている自分の声で、観葉植物の鉢や、整理だんすやドレッサーや壁のカレンダーに向かい、歯をがくがくさせて真琴は質問した。「ぼ、ぼ、僕といっしょにいるとかって、そ、そ、それ―」
「怖がらないでってば。いくじなしね」
「だって、こりやいったいぜんたい―」
「説明してあげる。だから少しの間、あなたは黙ってて。二人でいっぺんにしゃべろうとすると、舌を噛んじゃうわ。あなたの舌だからあたしはかまわないけど」
 真琴は、気が狂ったのかと思った。真夜中の二時過ぎ、独りぼっちの部屋のなかで、男の声でしゃべったり、女の声で答えたりしているのだ。
「救急車を呼んでくれない?」彼は弱々しく頼んだ。「それともタクシーのほうがいいかな。救急車だと、拘束服を着せられちまうかもしれないから」
「バカね。あなたはちっともおかしくなってなんかいないわよ。ただ、あたしに取り憑かれただけ」
「とりつかれた?」
「そう。あたし、幽霊なの」
 もはや言うべきこともなく、真琴は枕に倒れ込んだ。


 その日から四日間、君絵は真琴の身体を女性に弓魅力的な女性に仕立て上げることに費やした。
 これが大ごとだった。最初のうち、真琴は逃げ回り、足をつっぱってドレッサーの前に座ることを拒否し、君絵が手鏡や紅筆を手にすると、全力で抵抗してそれを放り出した。
「もう、マコちゃんたら!」とうとう腹を立てて、君絵はどんと足踏みをした。「協力してくれるって言ったのに、ウソつき」
「死んでも化粧なんかイヤだ」真琴は頑張った。
「だけど、ここまで来たらお化粧なんて大したことないじゃないの。ウィツグを選ぶほうがよっぼど恥ずかしかったでしょうに」君絵は不満げに言う。「ヘンなの。デパートで見かけたけど、このごろでは男性だってメイクアップするみたいじゃない」
「それとこれとは違うよ」
「違わないわよ。使うものは同じなんだもの」
 それからしばらくのあいだ、真琴には彼女の存在が感じられなくなった。ドレッサーの鏡に映る自分に、真琴は恐る恐る呼びかけた。「いないの?」「いるわよ」君絵は、なにか考え込んだような声だけで返事をした。どうやら、じっと真琴を観察しているらしい。彼はそわそわしてきた。
「わかった」やがて出て来ると、君絵は楽しそうに言った。「どうしてかわかったわ。マコちゃん、怖いんでしょ」
 彼女はうふふと笑った。つまり真琴の顔がうふふとほころんだのだ。
「安心して。あたし、化粧には自信があるの。マコちゃんの目にアイブロウ・ブラシを突っ込んだりしないから」
 図星である。真琴は一生懸命説明した。
「そりやあ君は化粧上手かもしれないよ。だけど、今これからやろうとしていることは、一種のリモート・コントロールみたいなもんでさ、君は、生まれてこの方、化粧なんかしたことのない僕の手を使おうとしているわけで!」
「大丈夫よ」君絵はきっぱりと答えた。「安心して任せて」
 真琴は肩を落とした。では、いよいよ女装の最終段階にかかるのか。まあしかし「男」の顔で女性の衣服を着ているよりも、そのほうがかえってマシかもしれない。
「ホントに、長い間のことじゃないんだね?」鏡をのぞいて、念を押した。「必ず、僕の身体を返してくれるんだろ?」
「絶対に、約束は守るわ」君絵はうなずいて、仕事にかかった。
 それは、見事な技術だった。最初のうちは緊張していた真琴も、我と我が手のしなやかな動き、微細なアイラインを引き、唇の形を修正し、頬紅をはき、シャドーを入れて、鼻筋をすっきりと見せていく彼女の手際に、感嘆して見とれるようになった。君絵はいろいろと実験し、クレンジング・クリームでそれを落としては、また別の顔にチャレンジしていく。
「女の子って、こんなに自由自在に自分の顔をつくれるもんなんだね……」
 真琴が溜息混じりにつぶやくと、君絵が出て来てにっこりした。
「マコちゃん、恋人はいないの?」
「残念ながらね」今さら君絵に隠し立てすることもない。「寂しいけど、僕はモテないんだ―ち、ちょっと、それで何すんのさ?」
 君絵は今、真琴の手に洗濯パサミの親戚のようなものを持たせているのだ。
「マツゲをカールさせるの」彼女はあっさり答えた。「マコちゃん、長くていいマツゲをしてるんだけど、ちょっと上向きにしてあげないと、マツゲが影を落として、寂しそうな顔になっちゃうのよ。コラ、逃げないで」
 急に退却にかかったので、真琴は左手に持たされていた手鏡で、したたか頭を叩いてしまった。ほらごらんなさい、と君絵は笑い、コントロールを取り戻してマツゲの細工にかかる。洗濯バサミが近づいて来ると、真琴はスプラッタ映画のヒロインのように騒いだ。
「うるさいなぁ、口は閉じて。でも目は開けてていいわよ。うんと大きく見張ってて」
 マツゲをはさみつけながら、君絵は話を戻して続けた。「マコちゃんがモテないなんてどうしてかしら。周りの女の子たち見る目がないのね」
 彼女が作業を終えるまで息を殺していた真琴は、ようやく答えた。「そうじゃないさ。 僕に魅力がないんだよ」
「そんなことないわ。それじゃ駄目よ。自信を持たなくちゃ。あたし、マコちゃんはすてきな男だと思うわ」
 真琴は苦笑した。「そりゃ、君が今こうして僕に居候しているからだよ」
「ううん、違う。あのね、女の子たちがマコちゃんに注目しないのは、マコちゃんが引っ込み思案だからよ」
「だってさ」君絵が口紅を引き終えるまで、真琴は口をつぐんだ。「僕は兄貴たちみたいに男前じゃないし、スポーツ万能でもないし、しやれた口説き文句の一つも言えないし」
「女の子はそんなもの求めてやしないわよ。男の入って、ヘンなところにこだわるものなのね」

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