[唐紅]

さらば、わが愛 霸王別姫
Farewell To My Concubine

李碧華(Li Pik-Wah)著  ハヤカワ文庫(1993)

 作者は香港の女流作家です。京劇の世界に生きるふたりの役者・小樓と蝶衣の愛憎が、50余年の年月の流れのなかで描かれています。

 場所は北京、1929年、少年・小豆子(シャオトゥツー)は私娼の母親に捨てられるように京劇養成所に連れてこられ、少年・小石頭(シャオシートゥ)と出会います。小石頭は、女形として選ばれた弱虫の小豆子を弟のようにかばい、支えてやります。そして小豆子が、厳しい京劇の訓練を乗り越えたとき、彼の心は完全な女として生まれ変わり、それは小石頭へ恋情ともなっていったのです。
 やがて成長した二人は、小豆子は女形の程蝶衣(チョン・テイエイー)として、小石頭は立役の段小樓(トアン・シャオロウ)として京劇界きっての有名スターになります。二人は花形役者として喝采を浴びますが、蝶衣は舞台の上でしか小樓と愛し合うことができません。
 日本と中国の戦闘が激化する中、小樓が娼婦の菊仙と結婚し、嫉妬と裏切りの渦巻く三角関係が生まれます。心がいくら女であろうとも、男である限り蝶衣に成就の手立てはなく、蝶衣は小樓へのやりきれない愛情を胸に抱いたまま、女であるというだけで優位に立てる菊仙と反目する日々を送るようになります。
 そんな二人の愛憎の五十余年を、色鮮やかな京劇の世界と、日中戦争から、国共内戦、共産政権樹立、文化大革命とその余波にいたる激動の歴史背景の中に描いた小説です。

 いつの時代も、文化は時の権力者の庇護を必要とし、その文化に携わる人々も時代に流されていきます。京劇と言う文化が、中国の歴史のなかに翻弄され、それと共に人間の運命も翻弄されていきます。今日の正義が、明日は犯罪者として裁かれる時代、それも二度、三度と。否が応でも、その事が浮き彫りにされていきます。

 身も心も時代に流されていく小樓。でも、そんななかでも蝶衣の心は、狂おしいほどに女です。時代の波に流されながらも、心は愛する人からブレることがありません。そしてこのこそ心が、蝶衣の行動、生活を形作っていくのです。
 一方、菊仙は女性としての強さと強か(したたか)さを見せつけてくれます。それは彼女の愛の表現でも有るのでしょうが、自分こそが小樓の子供を産み育てることができるという蝶衣への自信の裏返しなのでしょうか。
 男の小樓、女の菊仙、そして女として受け入れてもらえない女、蝶衣。京劇の女形という分かりやすい形をとおして男と女の心の性が描かれています。

 この小説は、1993年に台湾の女性プロデューサー徐楓(シュー・フォン)と北京出身の映画監督、陳凱歌(チェン・カイコー)によって映画化されました。小樓を張豊毅(チャン・フォンイー)、蝶衣を香港のスター張國栄(レスリー・チャン)、蝶衣の子供時代の小豆子を蒋(雨文)麗(ジアン・ウエンリー)がそして菊仙を美人女優鞏俐(コン・リー)が演じ、カンヌ映画祭パルムドール賞(グランプリ)を獲得するなど、国際的評価も高い作品です。
 中国史でタブー視されてきた同性愛と文化大革命を描いたこの映画は、トップ女形スターを演じるレスリー・チャンの妖艶な演技、色彩と映像の美しさで大きな話題となりました。
 映画では、蝶衣を覇王別姫(はおうべっき)の虞美人そのものにかさねて、舞台用のニセモノの剣を、ホンモノにすりかえて愛に殉じさせていますが、小説では、小樓は、文革ですべてを失ったのち、海を渡って香港に逃れ、やがて京劇団の監督としてそこを訪れてきた年老いた蝶衣と再会します。


 依然刀を胸に抱きしめながら、蝶衣は広間に入っていった。彼は威厳をもって歩を進めた。彼は有名な俳優だった。結婚祝いの名残の、脂のこびりついた皿と空の杯が散らかったテープルのあいだを、悠然と縫っていった。ついさっきまで、テーブルには皿が所狭しと並んでいた。いまや料理は消え、洒はなくなりかけていたが、客はまだ残っていた。ある者は床に酔いつぶれ、他の者は目を覚まして、飲んでいた。
 その杯盤狼籍ぶりに蝶衣は眉をひそめた。たいがいの婚礼よりもっとひどいくらいだった。
 小樓が近づいてきて、彼の前に立ちはだかった。
「どこへ行っていたんだ?」
「どうぞお掛けなさい」と誰かが言った。菊仙だった。緋色の婚礼衣裳でことさらに美しかった。蝶衣は悔しい思いでそれを見た。緋色の衣裳と髪に挿した深紅の絹の造花は花嫁にだけ許されるしきたりだった。
 小樓と並んで立った菊仙はいかにも彼と親密げだった。蝶衣は自分が捨てられたのを感じた。二人は呼吸さえ一つだと彼は思った。
 式はとうに終わり、楽士たちはみな帰ってしまっていた。残っているのは陽気に騒ぐ連中ばかりだった。幸せな新婚夫婦といっしょに祝うはか何もすることはなかった。
「ゆうべ小樓は人をやってあなたを探させたのよ。一晩じゅう探していたわ。あなた抜きでは嫌だって小樓が言うので、何度も式の始まりを延ばしたのよ」
 蝶衣はいささか気をよくしたが、それでも何も言わなかった。
「もう一度あなたのために宴会を開いて、あなたと杯を交わさなくちゃね」と彼女は続けた。
「こいつに罰を与えるべきじゃないかな?」と小樓が陽気に問いかけた。
「兄貴のおめでたい日に遅刻をするんだからな」
「さあ、一杯どうぞ」と菊仙が勧めた。
 蝶衣はそれを無視して、刀を小様に差し出した。
「あの刀だ、兄さん。絶対あれだ」
 小樓はそれを受け取って、鞘をはらった。彼がそれをためつすがめつすると、刀身が明かりを受けてきらきら光った。
「見つけたのか。すごいぞ」
 ほかの客たちがよく見ようと集まってきた。小樓が菊仙を呼んだ。
「はやく、これを見ろ。これは子供のころからおれの夢だった」
 菊仙は彼の腕にもたれかかって、その刀を見た。
「大事にしておくれ、兄さん」と蝶衣は言うと、段家の祭壇に歩みより、祖師たちに線香を上げた。彼は目を閉じ、こうべを垂れた。線香の火と赤い蝋燭の炎が、彼の奇怪な外套姿にちらちら光を投じた。
「こいつはわれわれがもらった最高の結婚祝いだ」と小樓がほかの客たちに言った。「とうてい礼の言いようがないよ」
 蝶衣が彼を振り返った。
「兄さんが結婚したからには、ぼくは独りでうたわなくちゃならないね」と彼は穏やかに言った。
 菊仙だけはその言葉のかげにどんな気持が隠されているかに感づいた。
蝶衣は小樓が差し出す杯を受け、一気に飲みほした。酔っぱらうのは今晩これで二回目だと彼は思った。確かに、ことはこれ以上悪くなりようがなかった。


 題名にもなっている京劇の覇王別姫(はおうべっき)は、四面楚歌の語源となっている英雄・項羽(こうう)とその妃・虞美人(ぐびじん※)との最期を扱った悲劇です。

 物語の舞台は、紀元前約200年、今から2200年まえの中国。秦(しん)の始皇帝が死んだあと、天下をねらう英雄があちこちで立ち上がり、壮絶な戦いを繰り広げました。そのうち最後まで勝ち残ったのは、後に400年にわたる漢王朝の初代皇帝となる劉邦(りゅうほう)と、若くして天下に覇をとなえた楚(そ)の項羽の二人でした。
 項羽は戦えば必ず勝つ勇敢な豪傑でした。一方、相手の劉邦は、戦争には弱いのですが、年をとっているだけに政治的なかけひきが得意でした。項羽は百戦百勝でしたが、いつの間にか劉邦に追いつめられてしまいます。項羽は巻き返しを図り、軍隊を連れて故郷の楚の国を目指しますが、その途中、垓下で韓信の指揮する漢軍に包囲されてしまいます。漢の五年のことです。
 やがて夜になると何処からともなく歌声が聞こえてきました。或いは遠く、或いは近く、東からも、西からも、北からも、南からも、歌声が聞こえて来ます。耳を傾けると、それは故郷、楚の歌声でした。楚の兵(本来は農民)達は、懐かしい故郷の歌声を聞いて、望郷の思いに駆られ、戦意を挫かれて脱落していきました。張良の計略でした。

 項羽は四面楚歌するのを聞いて驚きました。
 「漢はもう楚を取ってしまったのか。何というおびただしい楚人だ!」
 最早これまでと思った項羽は、訣別の宴を張り、自ら有名な「抜山蓋世」の詩を作って歌います。

 力拔山兮氣蓋世  力、山を抜き 気は世を蓋(おお)う
 時不利兮騅不逝  時、利あらず 騅(すい)逝(ゆ)かず
 騅不逝兮可奈何  騅の逝かざるを 奈何(いかに)すべき
 虞兮虞兮若何   虞や虞や 若(なんじ)を奈何せん

 (我が力は山をも抜き去り、我が気迫は天下を包み隠すほどだった。しかし、今、時勢は私に味方せず、愛馬の騅(すい)も進もうとしない。騅が進もうとしないのはどうしたことか。虞よ、虞よ、おまえの身さえどうしようもない。)

歌うこと数闕、美人之に和す。項王涙数行下る。
左右皆泣き、能く仰ぎ視るもの莫し。

 反復して歌うこと数回。虞美人も別れの悲しみを込めて、絶え入らんばかりに和して歌いました。
 この歌に応じて、虞美人は次のような詩を返して、舞を舞います。

 漢兵已略地  漢兵已(すで)に地を略し
 四方楚歌聲  四方楚歌の声
 大王意氣盡  大王意気尽く
 賤妾何聊生  賤妾(せんしょう)何ぞ生に聊(やす)んぜん

(漢兵はすでに我が楚の地を占領し、四方からは楚歌が聞こえてきます。大王さまの溢れる気概が無くなれば、この賤しい私はなんで生きていけましょう)

 もはやこれまで、と、運命をさとった虞美人は、夫の足手まといにならないよう、項羽に宝剣を乞うて軟肌に突き立てみずからの命を絶つのでした。

 その夜、僅か八百余騎を従えて脱出した項羽は、翌日、漢軍に突入し、自ら首をはね、31歳で死にました。故郷に心引かれて一旦烏江まで走ったものの、挙兵した自分がおめおめ江東へ戻る心を恥じた覚悟の上の自決でした。(『史記』項羽本紀)。

 やがて廻ってきた春、虞美人の血が滴った土の上には、端麗な花が咲きました。その花は虞美人の在りし日の姿のように優しく、虞美人の貞潔な血のように紅く、英雄項羽の運命を傷しんだ、虞美人の心のように悲しげに風に揺れていました。人々は、この花を虞美人の生まれ代わりと考え、虞美人草(ひなげし)と呼びました。この花の前で楚の民謡を歌うと、歌にあわせて花が踊り出す、と、中国の伝説は伝えています。

 

 ※虞美人の「美人」とは、漢代・女官の官位の名前です。
  置美人・宮人・采人   美人・宮人・采人の三つの官位を置く(後漢書 皇后紀序)
との記述が有り、美人には二千石の禄高が与えられたといいます。
 ですから、虞美人とは、虞の美人女官といった意味です。
 その後、女官の官位は時代とともにずいぶん変化し、礼記・昏義では
 后・六宮・三夫人・九嬪(ヒン)・二七世婦・八一御妻
の六階級となり、唐代には、后・妃・嬪・・美人・・と美人は官位がずいぶん下がってしまいました。

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