(縹色)

古事記

(読み下し文は、日本古典文学体系(岩波書店)より引用しました。)

其の島に天降(あまくだ)り坐(ま)して、天(あめ)の御柱(みはしら)を見立(みた)て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。是に其の妹(いも)伊邪那美命に問日ひたまはく、「汝(な)が身は如何(いかに)か成れる。」ととひたまへば、「吾(あ)が身は、成り成りて成り合はざる處一處あり。」と答白(こた)へたまひき。爾に伊邪那岐命詔りたまはく、「我が身は、成り成りて成り餘れる處一處あり。故(かれ)、此の吾が身の成り餘れる處を以(も)ちて、汝が身の成り合はざる處に刺し塞(ふた)ぎて、国土を生み成さむと以為(おも)ふ。生むこと奈何(いかに)。」とのりたまへば伊邪那美命、「然(しか)善(よ)けむ。」と答日(こた)へたまひき。爾に伊邪那岐命詔(の)りたまひしく、「然らば吾と汝と是の天の御柱を行き廻り逢ひて、美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)為(せ)む。」とのりたまひき。如此(かく)期(ちぎ)りて、乃ち「汝(いまし)は右より廻(めぐ)り逢へ、我は左より廻り逢はむ。」と詔りたまひ、約(ちぎ)り竟(を)へて廻る時、伊邪那美命、先に 「阿那痔邇夜志愛(あなにやしえ)袁登古袁(をとこを)。」と言ひ、後に伊邪那岐命、「阿那邇夜志愛(あなにあしえ)袁登賣袁(をとめを)。」と言ひ、各言ひ竟へし後、其の妹(いも)に告曰(つ)げたまひしく、「女人(おみな)先に言へるは良からず。」とつげたまひき。

 神代の昔の日本の物語は、こんなストレートな性的表現から幕を開けます。でも、女から迫ったら良くない結果になるよなんてホントでしょうかね。古代日本の母系社会から、大陸型の男性管理社会に移してゆくための支配者の言訳?っていうのは、私のうがった見方でしょうかね。

伊邪那岐「ねえ、伊邪那美ちゃんてスタイルいいね」
伊邪那美「うれしいわ。わたし、脱いでも凄いのよ!」
伊邪那岐「俺だって凄いんだぜ。伊邪那美のこと見てると、もう俺たまんないよ。二人でやろうよ?」
伊邪那美「いいわよ」
伊邪那岐「それじゃあ、気が変わらないうちに天の御柱回って、ベット(寝所)に行こうよ。伊邪那美は右から回ってくれよ。俺は左から回るからさ」
(天の御柱を回って)
伊邪那美「でも、伊邪那美って見れば見るほどいい男ね。早くベット(寝所)行きましょうよ」
伊邪那岐「伊邪那美だって、ほんとうにいい女だよ。それじゃあ行こうか。だけど、女から先にそんなこと言うもんじゃないよ」

 なんていう現代語訳作ったら、戦前ならきっと不敬罪で刑務所行きかもね。


 ところで、今回のテーマは景行天皇の息子、「倭建命」です。倭建命は、大和の統一に最大の貢献をしながら、その力の強大さゆえに、父景行天皇に疎んじられ、失意のうちに没しました。
 死に際して大和への望郷の思いを歌ったとされる倭建命の歌
  「大和は国のまほろば たたなづく青垣(あをかき) 
      山隠(やまごも)れる 倭(やまと)しうるはし」
はあまりにも有名ですね。
 倭建命に関する説話は、古事記、日本書紀をはじめとして、常陸国風土記、肥前国風土記、阿波国風土記逸文、尾張国風土記逸文、陸奥国風土記逸文、美作国風土記逸文に見られます。
 「ヤマトタケルノミコト」は、第12代景行天皇(けいこうてんのう)の第3王子で、古事記では「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」と記し、小碓命(をうすのみこと)・倭男具那命(やまとおぐなのみこと)(古事記)、小碓尊(をうすのみこと)・日本童男尊(やまとおぐなのみこと)(日本書紀)の幼名があります。母は吉備臣(きびのおみ)の祖で若建吉備津彦(わかたけきびつひこ)の娘針間之伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)とされています。
 尊とは、天皇の後継者を示す称号です。小碓命は、双子の兄大碓命を殺すなど、生来の暴力的性向・奸智(かんち)ゆえに王権の中央から疎外され周辺へ放遂され、王権に服従しない王権外部の異端の征討を命じられます。
 九州の熊曾(くまそ)征伐では、小碓皇子は女装して熊襲の王である川上梟師(かわかみたける)の宴
に紛れ込みます。

是に天皇、其の御子の建(たけ)く荒き情(こころ)をかしこみて詔りたまひしく、「西の方に熊曾建(くまそたける)二人有り。是れ伏(まつろ)はず禮(れい)无(な)き人等(ひとども)なり。故、其の人等を取れ。」とのりたまひて遣はしき。此の時に當りて、其の御髪を額(ぬか)に結ひたまひき。爾に小碓命、其の姨倭比賣命の御衣御裳(みそみも)を給はり、劔を御懐に納(い)れて幸行(い)でましき。故、熊曾建の家に到りて見たまへば、其の家の邊(ほとり)に軍三重に圍(かく)み、室(むろ)を作りて居(を)りき。
是に御室欒(みむろうたげ)為むと言ひ動(とよ)みて、食物(おしもの)を設(ま)け備へき。故、其の傍を遊び行(ある)きて、其の欒(うたげ)の日を待ちたまひき。爾に其の欒の日に臨(な)りて、童女(おとめ)の髪の如其の結はせる御髪を梳(けづ)り垂れ、其の姨(おば)の御衣御裳を服(け)して、既に童女の姿に成りて、女人(おみな)の中に交(まじ)り立ちて、其の室の内に入り坐しき。 爾に熊曾建兄弟二人、其の嬢子(おとめ)を見感(みめ)でて、己が中に坐(ま)せて盛(さか)りに欒げしつ。 故、其のたけなはなる時に臨(な)りて、 懐より劔を出し、 熊曾の衣(ころも)の衿(くび)を取りて、劔以ちて其の胸より刺し通したまひし時、其の弟建、 見畏みて逃げ出でき。乃ち追ひて其の室の椅(はし)の本(もと)に至りて、其の背皮(そびら)を取りて、劔を尻より刺し通したまひき。

 景行天皇の王子小碓命は、父天皇から、朝夕の大御食(おほみけ)に陪席しなくなった兄大碓命(おほうすのみこと)に出て来るように教え覚(さと)して来いと命じられた。兄は父に召されるべき美濃の国造(くにみやっこ)の娘二人を、使者である立場を利用して我が物として寝取っていた。小碓命は兄が厠(かわや)に入ったのをうかがい、手足をもいで殺してしまった。父はこの荒々しい性情を恐れ、西方の「熊曾建」(くまそたける)兄弟の征伐にかこつけて宮から遠ざけた。
 少年小碓命は叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)から女性の衣服上下を授かり、短剣を懐中に出発した。熊曾建の処に着くと厳重な兵士の警護の下にちょうど新築祝宴の準備で大騒ぎであった。宴の日に小碓命は少女の髪を結い叔母から授かった衣服を着て、席に侍る女達に交じり熊曾建に近づいた。熊曾建兄弟はこの少女を見初めて二人の間に座らせた。宴が盛り上がるのを見定めて、突然小碓命は、懐中の短剣で兄建の胸を刺し通した。弟が逃げ出すのを追って背後から捉え刺した。押し伏されたまま弟は、少年勇者の名を尋ねると、小碓命は、天下を治める天皇から服従しない者どもの征伐を命じられて来た王子倭男具那命であると名告った。弟は熊曾建と恐れられていた自分達に勝る勇者ゆえに、「倭建命」の名を捧げると申して殺された。
 その後、山河の神々はことごとく平定した。

 この時、日本書紀によれば倭建命は16才、身長は一丈(180センチ位[※注])の長身であると書いてあります。
どんな女装姿だったのかちょっと想像できませんが、でも、熊曾建が惚れちゃうくらいだから、そうとう奇麗だったのか、色っぽかったのか、それとも熊曾建は女装者好きだったのか。
 日本書紀にはこんなふうに書かれています。

「其の童女(をとめ)の 容姿(かほよき)に感(め)でて、則ち手を携(たづさ) へて席(しきゐ)を同(とも)にして、坏を挙げて飲ま しめつつ、戯(たはふ)れ弄(まさぐ)る。時に、更深 (よふ)け、人闌(うすら)ぎぬ」

 エロティックな気配を感じさせる表現ですね。そもそも「席(しきゐ)を同(とも)に」するという言葉が、 古語では寝所へ連れて行くことを意味していますから、とても一回や二回の女装では、こんな度胸の据わったことは出来ないですね。バレルかどうかの心配でとても暗殺どころじゃないはずなんですが。まして、16才ですからねえ……。
 倭建命は、ことあるごとに叔母さんの倭比売命のところに相談に行っています。どうも 叔母さんの倭比売命にそうとう女装を仕込まれたんじゃないかという感じです。倭比売命は伊勢神宮を祭った最初の女性で、一生独身の身ですからね。結婚することが許されない叔母と女装の似合う甥子……。
 これ以上の想像は、皆さんにお任せします。

※注)現在の尺度では一丈は十尺、約3m位にもなってしまいます。物の長さを測る「尺度」ですが、尺度が制定される前の人々は自分の手を用いて物を測る次のような方法をとっていたのです。
  握(あく)握った手の4本の指の長さで約3寸(9cm)
  尺(せき)親指と中指を広げた長さで役6寸(18cm)
  尋(ひろ)両手を水平に広げた長さで約6寸(1.5m)
十尺が約1.8m、これくらいだと納得できる数字ではないでしょうか。現在でも物差しがない場合は、おおよその長さを知るために手を使っていますが、尺取り虫の名前の由来も納得できますね。

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