【薄紅】

光ってみえるものあれは

川上弘美 中央公論新社(2003.9.7)

 江戸翠は、ごくふつうの日々を送っている高校生です。未婚の母の愛子さん、その母(祖母)の匡子さん、遺伝子上の父の大島さん、シミシミしたくって女装までしちゃう友人の花田くん、翠が想いを寄せる平山さん。ちょっと複雑な環境の中で廻りでは普通でない事件が次々と起こって、感受性の豊かな翠にとっては、心悩ますことばかりだけど、やっぱり翠にとっては、普通の範疇を越えないのです。お母さんに「ね、今日はどうだった」と尋ねられても、いつでも「うん。ふつう」と答えてしまうのです。こんな、翠の気持ちってわかるな……。


「先生、俺に話って、何ですか」花田が聞いた。キタガーくんは高野豆腐を何回かていねいに噛み、それから大きく頷いた。
「そうだった。花田」言いながら、キタガーくんは、花田の上から下までをじいっと見た。なめまわすような、視線である。花田は固く突っ立ったまま、キタガーくんの視線を受けた。
「その服は似合わないから、やめたほうがいい」キタガーくんは、静かに、言った。
 花田は一瞬むっとした表情になった。なんだやっぱり教師の言いそうなことじゃん、という表情である。
「不躾なことを言っていることは自分でも承知している」キタガーくんはつづけた。またまた「書き言葉」だ。花田は不穏な表情のまま、黙っている。
 なぜ不躾でもあえて言うのかといえば、わたくしには花田のこの方面のことを助言することがいくらかできるように思うからである。この方面とは何のことかと諸君はいぶかしむかもしれない。この方面とは、女装方面のことである。
 キタガーくんはむっとする花田にはかまわず、どんどん極端な「書き言葉」になりながら、説明した。
 女装方面? と平山水絵が小さく言う。花田はまだ黙っていたが、表情が少しゆるんでいる。
 わたくしの親友が、女装を趣味としているのです。女装を行うことのできる店、というものを君たちは知っているだろうか。
 平山水絵が首を横に振った。僕も、つづけて。花田だけが、わずかに首を縦に動かす。
 わたくしの親友はしばしばそのような女装店を訪ね、実際に女装し、愉しむのであるが、今日はその親友に聞いたことを、花田に話そうと思って、ここに来たわけである。
 花田は熱心に聞き入りはじめていた。平山水絵も体を乗り出している。

「女装をする者は、女の服装、女のしぐさを、愛していなければならない。わたくしの親友がつねづね強調するのは、その点である」キタガーくんは、まるで授業を行っているときのように、それも「好きな単元」の授業のときのように、少しだけどもりながら、熱心に、語った。
「花田、きみは果して、女の服装、しぐさを、愛しているのか?」
 突然キタガーくんに訊ねられて、花田の顎のかみあわせのあたりがびくりと動いた。
 愛して、ですか。花田は聞き返した。
 そうだ、きみは女装という行為を、美しいと、愛(いと)しいと、思っているのだろうか?
「愛する、といえるほどはこのことにかかわってから時間がたっていないので、まだなんとも」花田は真面目に答えた。花田の胸が呼吸につれて上下している。
「でもねえ、花田は女装が目的なんじゃなくて、女装が手段なんだよ、先生」平山水絵が横から割って入った。
「手段?」
「そうです」花田がぼそりと答える。
 うーん、と、しばらくしてからキタガーくんがうなった。何のための手段なんだ、とキタガーくんが聞くかと思ったが、キタガーくんはうなっているばかりだった。
「どうして花田がセーラー服を着るか、聞かないの、先生は」我慢できなくなったらしく、はんたいに平山水絵が聞いた。
「たとえ説明を受けても、ほんとうのほんとのところは、本人にしか、わからないだろう」キタガーくんは弁当箱の蓋を閉じながら、答えた。

 うーん、とうなるのは、こんどは僕と平山水絵の番だった。それはそうだ。結局のところ、人は説明されてわかった程度のことしか、わからない。いちばん奥底のところは、本人にしかわからないし、それどころか、もしかしたら本人にだって、真実のすべてなどわからないかもしれないのだ。キタガーくん、軽んずべからず、である。
 花田の顔の色が濃くなっている。何かしら、身内にあふれてくるものがあるのかもしれない。
 しばらくの間、屋上は沈黙につつまれた。雀と鳩の鳴き声だけが響く。
「でも、俺、もう始めちゃったことだから」
 顔を上げて、花田が、しぼり出すような声で、言った。
「まあ、それはそうだな」キタガーくんは、重く、頷く。
 校庭から、高く低く声がのぼってくる。この暑いのに、何やら走ったりボールを投げ合ったりしている一団がいる。屋上から見ると、一団を構成している生徒たちの、頭のてっぺんばかりがみえる。きらきらと、どの頭も光を受けている。
「ともかく、だ。どちらにしても、花田は、もう少し眉や髪に工夫をほどこした方がいいと、思う」
 はい、と花田は素直に答えた。キタガーくんは、ちょっと居心地が悪そうだ。どうやって会話につづまりをつけていいのかわからない、という感じだ。
「女装がしんそこ好きでないなら、あまりしない方がいいとわたくしは思うけれど、それでもがんばってみるなら、がんばれば、いい」
 キタガーくんはそうしめくくった。それから、そそくさと弁当箱を包み、昇降口へと消えていった。

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