(青丹)

恋愛生活

片岡義男 角川文庫(1994)

あらすじ
 北村仁美は、交通事故で亡くなった身寄りの無い親友、緑川祐子の葬儀をし遺品を引き受けることになった。仁美は祐子との思い出に浸りながら、一年かけて遺品を整理していった。そして、祐子の残した手帳から直子という女性を探り当て、自分の知らなかった祐子の生活を辿っていく。仁美は自分の知らない祐子を探りながら、しだいに、自分が祐子の置かれていた立場にすり替わっていくのに気付いてゆく。


 この小説には、女性しか出てきません。正確に言うと、MTFのTGや精神的に男性として暮らす女性が中心ですが、登場人物はすべて外見的に女性の装いをしています。直接的な性描写がないため、一見淡々としたバイセクシャルのビアンの物語のようでもありますが、亡くなった祐子の霊に引かれて自分が祐子の身代わりに恋人のなってしまうとすれば、一種のホラー小説のようでもあります。

「裕子の住所録には、私の名は男の名で載ってるのよ」
直子は言った。言葉はつうじたが意味はつかめないまま、仁美はコースターの上にグラスを置いた。そして直子を見た。
真珠色の縞の長袖シャツに、ほどよくフレアのあるスカートを、直子は身につけていた。
優しく波を打って顔の両側を包み、肩にかかる黒い髪。その髪を受けている幅の広い肩。
肩から腕へと、くっきりと落ちていく線。シャツの喉もと。薄い生地の下に隠されつつ、はっきりとその存在が明示されている、胸のふくらみ。しぼりこまれた胴。そしてそこからスカートとともに広がる骨盤。カウンターの縁に軽く置いた両腕。そして、白い大きな手。
「私は男なのよ」
 と、直子は言った。
 いま自分の前に立っているこの直子という人は、誰の目にも女性そのものであり、それ以外ではあり得ない、と仁美はとりあえず思った。その思いを土台にして、仁美は直子をさらに観察した。仁美の視線を微笑して受けとめながら、
「気のすむまでよく見て」
 と、直子は言った。
 彫りの深い、バランスの取れた顔立ちは、巧みな化粧をほどこされ、完全に女性だった。よく見ると、魅力の探さの底に、女性を摸しきった男性が共通して持つ、成熱をきわめて退廃にむかう寸前に生まれる影があるのを、仁美は見て取った。今夜は店に出ている辻堂紅子を、仁美は連鎖的に思った。
「たいへんおきれいですね」
 気持ちがそのまま、仁美の台詞となった。
「うれしいわ」
 直子が言った。

 小説に登場する女装者は、作者の一種のリップサービスかもしれませんが、ほとんど例外なく美女として描かれています。でも、そこには女装者という前提があるからこそ、美女の意味があるのですね。美しい女性は、女性としては普通の存在なのです。女性の場合は、美しい以上に個性を強調して描かれるほうが多いようです。美女というだけで小説が成り立つのは、女装者であるからこその意外性が強調されているからだと思います。女装者として「女らしい」といわれることは正直に嬉しいことではあるのですが、反面まだまだ女でない自分、女装者として見られている自分を意識するときでもあるのです。

「ツジドウさん?」
「地名にあるでしょう。あの辻堂。そして名は、紅子」
「ベニコさん」
「そうよ」
「どういう字を書くの?」
「口紅を塗ることが決定的なことだと思うから、それにちなんで、紅子」
「いい名前だわ」
「よろしく」
「びっくりするわ、いきなり。でも、うれしいわ、きれいで。あなたには、そういう趣味があったの?」
「趣味ではないのよ」
 ドア枠を間にして向き合って立ち、ふたりは話を続けた。
「普通、こういうのは、趣味だわ」
「これは自分自身よ」
「どういうこと?」
「こうしているからと言って、なにも変わらないのよ。いくらあなたに褒めてもらえるような女ぷりとは言っても、女になれているのは、いまのところおもてむきだけだから」
「女そのものよ」
「こうして女に変わると、自分がもっとも自分らしくなるだけなのよ」
「自分らしさの追求?」
「そうね」
「きれいだわ」
「自分が徹底して自分自身であるとき、自分は本当の自分なのだと、私は思うの」
「その意見には、私も賛成よ」
「仁美は、いつも自分らしくしている人よ」
「びっくり。驚いたわ。でも、これはうれしい驚きよ。どうぞ入って来て。すわって話をしましょう」
 部屋に彼を招き入れた仁美は、ソファのあるところまで歩いた。自分はひとりがけのアーム・チェアにすわり、紅子という女性になっている後藤は、ソファの端に腰を降ろしスカートの下できれいに脚を組んだ。
「まあ、ほんとに」
 彼の様子をあらためて見なおして、仁実は感心した。

 男としての自分に近ければ近い人ほど、カミングアウトするときの心の障壁やリスクは高くなります。自分の中の男の部分に係わりの無い人に対しては案外抵抗がなくて、わたしも平気で女装姿を人目にさらすことが出来ます。最初の頃は、自意識過剰でそれさえも勇気のいることでしたけどね。女装姿でいることが自分らしい自分を表す形だということは、このような小説や頭の中では言えたとしても、実際、身近な人には生活の部分がついてまわりますからそれだけでは割り切れないものがありますよね。
 でも、最後は相手がこんな自分を受け入れてくれるかどうかです。自分の力ではどうしようもない問題ですが、相手が自分を受け入れてくれるまで、自分の思いの押し付けではなくて、相手の気持を受け入れながら自分を語り続けることが出来るかどうか。それができないならやはり「うそも方便」で隠し通すより仕方ないかもしれませんね。


「私よりもあなたのほうが、ずっと女だわ。ぜんたいの美しい様子や、魅力に満ちて陰影すらいきわたり始めた、たいへんいい女よ。そのあなたを見るために、そのあなたの歌を聴くために、ここへ来てくれる人がかなりいるのよ。それはあなたにも、わかってるはずだわ」
「私は私なのよ」
「いまのそのあなたが、あなたなのね」
紅子を指さして、仁美は言った。
「いまだけではなく、いつも私は私だわ。時間はどんどん消えていくのだから、自分が本当に自分らしくしていない時間というものを、私は出来るだけ少なくしたいの」
「だからそんなふうに、見事な女性なのね」
「ええ」
「体の線の流れかたが、いまや完全に女よ。ラインだけではなく、体の容積が。内部の充実度をそのままあらわす、量感のようなものが、女のものだわ。胸のふくらみも。私よりも女らしいでしょう。なぜ?」
「女性ホルモンの注射」
 と、紅子は答えた。
「定期的に注射をしなければならない、という話は聞いたことがあるわ」
「その話のとおりよ」
「注射をしてもらってるのね」
「そうよ。そうでなければ、この体は出来ないわ」
「そうだと思うわ。注射は、それほどに効果があるものなの?」
「見てのとおり」
「危険ではないかしら」
「生理機能としては男性以外のなにものでもない体のなかへ、女性が無理やりに割りこむのよ。そしてその女性が、少しずつ男性を圧倒していくの」
「体の線が女になって、内部も女としての容積になるのね」
「胸がふくらんで、髪がしっとりして、腰が張り出して、大腿が男のときとはまるでちがって、腕も脚も、そして指先まで、変身と言うならこれほどの変身はないでしょうね」
「目標を達成した気持ちかしら」
「別にどうと言うことはないのよ。問題は、あくまでも、自分らしさだから」
「可能なかぎり女性になることが、あなたの自分らしさなの?」
「自分らしくしていると、エネルギーが自分のなかでぐるっとひとつ、輪を描くのよ」
「自己完結ということ?」
「一種のナルシシズムでしょうね」
「なんとなくわかるようで、あまりよくわからないわ」
「男性の機能は、少しずつ消えていくのよ」
 紅子のその台詞に、
「怖くないの?」
 と、仁美は質問した。
紅子は首を振った。
「なんともない」
「それだけ女性になりきると、もはや男性ではないということ?」
「男の機能なんて、私はいらないわ」
「というふうに決断出来る人なのね、あなたは」
「そんなもの、いらないわよ。機能しなくなるだけではなく、人によっては小さくなっていくのですって。でも私は、変わらないわ。いまも下がってるのよ。妙なものよ。体はおもてむきは女そのものなのに、そこだけは男で。見るたびに笑うわ。しかし、もう慣れたから、鏡に映る自分の裸の体は、そう描いた絵のようよ」
「性欲は、どうなるの?」
 仁美の質問に紅子は首を振った。そして次のように答えた。
「さっきも言ったとおり、そんなものほ私には必要ないのよ。でも、男としての脳が、男としての性欲をまだ記憶してるのね。その記憶が、いまは女である私に憧れたりするのを、女の気持ちの部分で楽しむというような形で、性欲もまた自分のなかで循環するのよ」
「面白い。無駄がなくていいわね」
「仁美らしい言いかた」
 そう言って紅子は笑った。
「男と女が、ちょうどバランス良く、私のなかで両立してるところなのよ。女の体をしている自分を、自分のなかの男と女の両方を動員して、肯定して好いている、と言えばいいかしら」
「複雑な世界を作ったわね」
「複雑ではないわ。エネルギーを自分のなかで循環させてるだけだから」
「その循環システムを、私は紅子と呼べばいいのね」
「そんなふうに、最後までまっすぐに理解出来る仁美が、私は大好き」
 いまピアノを弾いている、あの美しい男性・女性に、私は少なくともある段階までは好かれているのだと、仁美はカウソターのなかで思った。カウンターに両腕を置き、両手の指を組み合わせ、仁美は直子のことも思った。直子も男性から女性になった人だ。女性としてのあの深みのある魅力は、紅子とおなじようなプロセスで手に入れたものなのだろうか。そしてそのプロセスを支えている哲学も、紅子と同質なのだろうか。

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