(生成)

女大楽宝開

(おんなたいらくたからがい)

 開茎(かいまら)先生著(安永年間)

参考「男色文献書志」

 現代では、声を荒げて人を罵る時などに「野郎!」などと言いますが、この「野郎」という言葉は、野郎歌舞伎から起こった言葉で、本来は「おかま」という意味です。ですから、おかまさんに「野郎」と怒ってみても、「はい、それがどうしたの?」と言われるのがおちだし、女性に「野郎」などというのも全くの筋違いですね。
 歌舞伎が京都ではじめて興行されたのは慶長八年(1603)のことです。近世初頭、戦乱で死んでしまった人達の魂を祭る御霊会(ごりょうえ)の風流踊りが全国的に流行しました。出雲の阿国と名乗る女性芸能者が京都に上がりこれを基にして、単純な小歌踊りを美しく舞い踊った芸能をややこ踊りとして一座を率いていましたが、そのうちに阿国は、当時流行していた歌舞伎者(傾き者)の風俗を真似て、男装し水晶の数珠や十字架を首にかけ赤い腰みのをまとい突飛な扮装で踊るという歌舞伎踊りで大評判になりました。遊里(新宿の歌舞伎町のようなところ)が出来ると、遊女たちが阿国のかぶき踊りをまねた舞台を展開し、これを女歌舞伎(遊女歌舞伎)と呼びました。遊女達は芸団を組んで地方に下って巡業し、各地方都市にも土着の女歌舞伎の座ができ、全国的に流行しましたが、熱狂的な客が遊女を取り合い殺し合いまで起こるようになり、幕府は風俗を乱すとの理由で他の女性芸能とともにこれを禁止しました。
 それに変わって出てきたのが若衆歌舞伎です。若衆歌舞伎は元服前の前髪を剃り落としていない美少年を集めて興行したもので、主に舞や軽業などの芸を演じました。しかしこれも衆道の売色をかねていた為に女歌舞伎同様禁止されてしまいました。
 その後、嘆願のすえ、前髪を剃り落とした(成人の意味)青年男子のみで、「物まね狂言づくし」(役者の芸を見せる芝居)を上演するという条件つきで許可されました。これが「野郎歌舞伎」で現在の歌舞伎の元となっています。野郎歌舞伎では女性の役者がいないので、女性を演ずる役者を女方として区別しました。野郎歌舞伎では、若衆は皆前髪を剃られて野郎頭になったのですが、野郎姿では色気がない所から紫の帽子をかぶるようになり、ここから紫帽子あるいは色子帽子ともいわれるようになり、舞台と舞台後の客席に侍ったようです。
 こうして女方が売色の対象として社会に登場し知られてきますと、全く美しい女性として化粧し、すべての日常生活やその立居振舞いまで女としてしつけられるようになりました。そして元禄を過ぎる頃には野郎頭の禁令もゆるんで前髪も伸ばし、眉を剃って、歯を黒く染め、日常から島田髷に結って大振袖の着物を着て、遊女と変らない風俗となってきたようです。ここに至って近世の男色は、中世以前の男色とは違った様相を呈してきます。それまでは稚児や小姓という美しい男装であったものが、この時代になると全くの女装に変ってしまったのです。
 中世以前の男色の時代と違って、近世の男色が次第に一般層に広がり、必ずしも男色一辺倒でないこれらの人々は女装の相手を欲するようになり、陰間も女装に精根を尽くすようになっていきました。
 女方はいかに日常を女性として暮すかが大切な心がけになっていましたが、陰間たちのたしなみも同じで、例えば男色十寸鏡には、とろろ汁、納豆汁、奈良茶、そば切のたぐいはどんなにすすめられても生男と同じように食べてはならないと書かれてあります。大坂の陰間茶屋は道頓堀が中心でしたが、元禄、享保期(1688-1753)に芳沢あやめをはじめ、市川門之助、小佐川常世、尾上常緑などの当時の有名な女形が出てきます。特に芳沢あやめはこの人によって女形の芸が確立したといわれる程の名人といわれています。あやめは美少年といわれる程の美形ではなかったようですが、それ以前の女形の顔や体つきのよさが第一条件であったのにくらべて、あやめのような顔の余りよくない役者が名人といわれるようになったのは、かぶきが演劇として成長したためと考えることができます。あやめは特に芸熱心で、日常生活を女で生活し、舞台はその延長とするという考えで通し、これが以後の女形役者の伝統的生き方となっていきました。

 この「女大楽宝開」は、「女大学」の注釈本「女大学宝箱」をもじって色事本に仕立てたもので、女性の身体の図解、男女の人相図、美人の条件や遊廓の遊び方や価格表や、房中術まで事細かく書かれています。若衆についても、15枚の画とともに、陰間の育て方などが記されています。


 若衆仕立様の事
                      
一、衆道を仕立つるに、不束(ふつつか)なるはいでを子がいよりかかえとりて、たとえば、みめよき生れ付きにても、すぐさまつきだしにはならず。あるいは顔に色気あり、また眼本風俗卑しからずとも、そのままにてはしようつらず不束なり。これを仕立つるには、幼少より顔手足尋常、きめ美しくすること第一なり。この薬の仕様は、ざくろの皮をなまのあいだに採りて、白水に一夜つけ、明くる日いかきなどにあげ、その日一日かげほしをして、またその夜白水につけ、右の通りにして三日晒し、その跡に随分ほしあげ、細かく紛にして袋にいれ、これにて洗えばきめ美しくして、手足尋常になること妙なり。また歯を磨くには、はっちく(淡竹)の笹の葉を、灰にしてみがくべし。多くは消炭にてみがけどもあしし。また鼻筋の低きは十、十一、十二の時分、毎夜ねしなに檜木の二、三寸くらいなるにてこのごとく摘み板を拵え、右の通りに紐をつけ、鼻に綿をまき、その上を右の板にて挟み、左右の紐を後にて、仮面(めん)きたるごとく結びてねさせば、いかほど低き鼻にても鼻筋通り高くなるなり。ただし、十二の暮より仕立てんと思わば、初め横にねさし、一分のりを口中にてよくとき、彼処へすり、少し雁だけ入れてその夜はしまうなり。また二日めにも雁まで入れ、三日めには半分も入れ、四日めより今五日ほど、毎日三、四度ほんまに入るなり。ただし、この間に仕立つる人きをやるは悪し。右のごとくすれば後門沾(うるお)いてよし。また、はじめより荒けなくすれば、内しょうを荒らし煩うこと多し。また十三、四より上は煩うても口ばかりにて深きことなし。これは若衆も色の道覚ゆるゆえ、わが前ができると後門をしめるゆえ、客の方には快く、また客荒く腰を使えば肛門のふちをすらし、上下のとわたりのすじ切るるものなり。これにはすっぽんの頭を黒焼にして、髪の油にてとき付けてよし。右記せし仕様の品は、たとえ町の子供にても、右の伝にて行なうがよし。また新べこには、仕立てたる日より、毎晩棒薬をさしてやるがよし。この棒薬というは、木の端を二寸五ぶほどにきり、綿をまき、太みを大抵のへのこほどにして、胆礬(たんばん:硫酸鋼)をごまの油にてとき、その棒にぬり、ねしなに腰湯さしてさしこみねな(さ?)せば、煩うこと少なし。ただしねさし様は、たとえは野郎、客に行きて、晩く帰りたる時は、その子供の寝所へ誰にても臥し居て、子ども帰ると、その人はのき、すぐさま人肌のぬくもりの跡へねさすべし。かくのごとくして育つれば無病なり。とかく冷のこもるわざなれば、冬などこたつへあたるは悪し。野郎とても晩く帰るときは、右の通りにしてねさすべし。これだい(一・事?)のことなり。

一、一分のりというは、ふのりをよくたき、きぬのすいのうにてこし、杉原紙に流しほし付け、これを一分なりに切りて、印籠に入れてもつなり。また酒綿とて酒を綿にて浸しもつなり。これはねまにて客の持ち物、あまり太きがあれば、右の酒をわが手にぬり、その手にて向うのへのこをひたものいらえば、自然とできざるものなり。客もあわずにかえる術なり。得あいませぬといえば、客の手前すまざるゆえ、これにて、両方共にたつしほう、それゆえ野郎はねまへ入ると、早速しなだるる体にて客の一物を引き出しいらうなり。ことさら女とちがい、色少なき物ゆえ、ずいぶんとぴったりとゆくがよしとす。

一、若衆の仕様は仰のけにしてするがよし。若衆はいやがるものなり。そのいやがるゆえは、客の案内にて行なうゆえなり。この仕様は初め後より入れ、肛門の湿う時分、一度抜きて、両方共によくふきて、それよりあおのけにして、またつけなおし、いるれば、くっつりとはいるものなり。はじめより仰のけてすれば上へすべり下へすべり、思うようにはいらざるゆえに、ひたもの唾をつけつけ、ひまをいれるゆえ、けつほとびてびりびりとするゆえ、けがすること多し。それゆえ一げんにてはできぬことなり。若衆のねまにも、多くしなありて、ねまへ入る前に裏(厠)へ行くもあり。これ若衆は体の弱きものゆえのことなり。かようの若衆は客の方にその心得すべし。裏へ行きてすぐにさせばよくはいれども沾いなし。また、しばらくまちてすれば肛門よく沾いたる時、初め記せし通りよくはいるものなり。一義しまい跡にて裏へ行くが大法なり。客もしばらくけつにてよくなやし抜くべし、若衆も跡のしまりよし。




 (解説)陰間の仕込み方

 先ず、女の子のように顔形を器量よくすることから始めます。その第一は顔や手足を色白く、きれいに、きめ細かい肌にかえて美しく育てて行くのです。それには次のような化粧水を作って常日頃使わせます。先ず、ざくろの皮を生の間にはがし、水に一晩つけておきます。このようにして三日間さらしておき、その後はずっと長い間乾し上げ、これを細くくだいて粉にします。この粉を袋に入れ、これで洗えばきめ美しくなり、不思議に手足がきれいになって行きます。
 次に歯をみがくには、はっちく(淡竹)の笹の葉を焼いて灰にし、これをつけてみがかせるようにします。消しずみを使って歯をみがいているのが多いようですが、これはよくありません。
 鼻すじが通らなくて低い鼻のときは、鼻を高くするためにひの木の長さ二三寸の板を二枚用意し、その一端はひもで結びつけて自由に動くようにし、他の端の所にもひもをつけて結べるようにしたはさみ板をこしらえておきます。子供が九歳から十乃至十一歳の年頃になると、毎晩寝るとき鼻に綿を巻き、その上からはさみ板で鼻をはさんで、はさみ板の左右のひもを頭の後ろにまわして、面をつけたようにして結びつけて寝させます。こうして毎晩はさみ寝をさせれば、どんな低い鼻でも鼻すじが通り、高くなって行きます。
 さて、陰間は遊女と同じように結局は売色を職業とするものです。しかし遊女による女色に対して陰間は男色ですから売色の方法が違います。そのために、子供のときから女としてしつけると共に、十一歳の終り頃から十二歳の年頃になると売色の仕方も仕込んでいったのです。
 いちぶのりといって、ふのりをよく煮き込み、絹のみずこしで濾し、こうぞから作ったすぎ原の紙にながし出し、よくほして乾かし、これを一寸位の幅に切ったものがありますが、これを印寵に入れておきます。必要のときこれを取り出して、口の中に入れてよく解き、男の子を横に寝させて後門の穴の所にぬってやり、その晩は少しだけ一物を入れてやり、これでおしまいにします。二日目も同じように少しだけ入れてやり、三日目は半分位入れ、四日日より五日間は毎日三四回全部入れてやります。但しこの間は仕立専門の者が気分を出して気負い込んではよくありません。このようにゆっくり仕立てて行くと後門がうるおってよくなってきます。
 遊女の水揚に村して、男の陰間は水下げといわれていますが「その用心にとく布海苔」という句があります。陰間を仕込んで行く時、木製の一物にふのりを塗りつけて、毎日数回入れならして行く方法もあったようですが、場合によって後門が切れてただれてくるようなことになると、そこに灸をすえてなおすなどして、一通りの仕込を終えるに一ケ月以上を必要としたという伝えもあります。
 このようにして仕立てて行くのですが、初めからひどく乱暴に扱いますと直腸の裏膜をあらして痛がることが多くなります。これが十三、四歳から上の年頃になりますと痛がっても後門の所ばかりで内部に入ることはありません。この理由は、この年頃になってくると男の子も段々と色ごとを覚えてきますので、客とやる時自分の一物が固くなってくると自然に後門の方もしまってくるので、客の方は気持がよくなって荒く腰を使って抜きさし操作を繰返しますと、後門のふちをすってすじを切ることがあるのです。このときはすっぼんの頭を黒焼きにしたものを髪油でとき、これをつけてやるとよく効くとあります。
 また棒薬を使って仕込む方法も書いてあります。先ず仕込み専門の者が男の子に一物を入れ、射精しないようにして毎晩幾日も続けて、ゆるやかに抜きさしができるようにするのですが、抜いた後に、二寸五分位に切った木の棒に綿を巻きつけ、太さを一物位の大きさにして、胆ばん(硫酸鋼)をごま油でといたものをこの棒に塗りつけ、寝しなに腰湯に入れて温めてやった後、この棒を肛門に差し込んで寝させます。あるいは棒薬というのは胆ばんをこよりにひねりこめたものや、山椒の粉をこよりに入れたもので、はじめ胆ばんを肛門に入れてやりますと、硫酸鋼のために直腸の裏膜が偏食して感覚が鈍くなってきます。これに山しょの粉を入れてやりますと直腸の膜が痒くなって、何か入れてなでてもらえば気持ちがよくなるようになってきます。このような腐食鈍感剤と起痒剤とを棒薬というのです。
 さて、陰間が客をとって遅く帰ってくる時などは、その子のねどこに誰かが寝ておき、子供が帰ってきたときその人はねどこから出て、人はだにぬくもった後に直ぐに寝さすようにしてやります。このようにして育てて行けば病気になることはありません。とかく冷えることの多い仕事ですが、冬などこたつを与えるのはよくありません。遅く帰ってくる時など、このように扱ってやる心がけが必要です。
 このようにして十一、二歳までに仕込まれた陰間になりたての新部子(しんべこ)は、はじめて化粧し、まゆをかき、歌や踊りの稽古をさせられ、やがて客をとることになります。

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