(東雲色[しののめいろ])

森の時代

稲葉真弓 朝日新聞社(1996)

 ひとくちに女装者といっても様々なタイプがいる。たとえば、ほんのひととき女の姿をすることで男であることから逃れ、ストレス解消をする者、ただ部屋にこもつてひとりだけで鏡に向き合う自閉的な男、乳房やヴァギナに憧れて、性転換してでも身も心も女性になりきりたいと願う男もいれば、女性の姿をして男性と関係を持ちたいと思う男もいる、あるいは女の姿をした男同士、友達になるだけでいいと言うやつ、女装は好きだけれど、女の姿をしてセックスすることだけは勘弁してくれと言うやつ、自分がなにを求めているのかよくわからないまま、たまたま惚れた男がホモだったから、女役をしているうちに女装にのめりこんでしまったやつなど、女装の姿が様々あるように、そのタイプも行動も種々様々だ。最近では、女装者のことを異性装症と言ったりするらしいが、誠にはそんなことはどうでもいい。自分がどんなタイプの女装者であるのか、考えてみたこともなかった。そのとき心地良ければそれでいいわけで、性の関係があろうがなかろうが、これもどうでもいいことだった。


 彼は最後まで残してあった儀式にとりかかる。手が震えないようにして息を詰め、紅筆を唇の一番端で一瞬止めて、すっと離す。すると見事に相似形の、完璧な左右が形づくられる。三輪誠の唇ではなく、女に変身した男の唇。彼はこの狂いのない相似形が好きだった。自分の顔の中で一番整った見事な流線形。彼はそれをたしかめると、ティッシュペーパーでピンクの紅の照りを浮かべた唇を上から注意深く押さえる。すると色が沈んで、整った流線形の唇の原形だけが残される。
 誠は、ブーツのボタンを留めながら思う。醜さはいつも、目立ちたいという内部からやってくるのだ。目立ってはいけない。男であれ女であれ、装った形は自然に近いのが一番美しいのだ。
 彼は、顔を鏡に近づけて最後の点検をする。口紅が濃すぎはしないか、ファンデーションがむらになってはいないか、アイラインが瞼からはみだしてはいないか。それから彼はゆっくりと鏡から離れる。完璧な化身だった。ブルゾンのポケットには、いつものように札を何枚かと小さなカセットテープ、耳にはイヤホンを突っ込む。
 外は六月の湿った風が吹いている。彼は微笑する。もうすぐ雨季だ。誠はこの季節が、なぜかどの季節よりも好きだ。雨と水、湿ったコンクリートの匂い……。神殿が一番神殿らしくなる水の季節だ。
 今夜も、道を行く人の何人かが彼を振り返るだろう。男だか女だかわからない長身で痩せた人物の顔を、たいていの人は無視するが、しかし、太い首や尖った喉仏に気づく人もいないわけではない。じっとみつめられたこともあったし、すっと目をそらす人もいる。もう慣れっこになっているからどんな視線でみつめられたところでうろたえることはない。いつものように髪をかきあげながら大股で、気取ったところもなく、恥じた様子もなく、彼はむしろどこか哀しげな顔で歩く。それが彼の顔であり、彼のいつもの表情だった。まだ二十五歳なのに、彼は自分をときに老人のように感じることがあった。もうなにも起こらない、なにも待たないとても静かな老人の晩年の顔つき。


「タマキはなんで女装者になったのよ、そのままでもきれいなのに」
 その質問はなぜ男に生まれたのかという質問と同じほどばかげていた。それにこの質問には、妙に彼をいらだたせるものがあった。きれいといえば、小夜子ほどきれいな女はいないと思うからだ。この人はそれに少しも気づいていない。もうひとつ、この世には、男であろうと必死にあがくやつとあがかないやつとがいる。男でありたいと願う男を誠はたくさん知っているが、たいてい彼らはプライドを食って生きている。女に非難されることを好まず、女といえば下等動物だと思い込み、″俺の生き方に口をはさむな″と言いたがる。そういう面倒な連中と一緒になりたくなかっただけだ。誠は言った。
「別に、なろうと思って努力したわけじゃないです。気がついたら、女の服が似合っていた。俺は昔もいまもプラスとマイナスの極を行き来して、そういう生き方が性に合っているだけ。女の服を着たって俺は俺。コスチュームがその人の思想や生理を変えるわけないでしょう。だれだったっけ、たとえ性転換したって、狩人としての男の思想は残るって言った人は……」
 小夜子は笑い出し、「あんたは珍しいわ」と言った。「錯覚がないもの。みんな錯覚をするからね。妄想って言うのか、自分を心地良くしてくれるものが、姿さえ変えればどこかに現れる……そう思ってる。ここに来るのは、みんな男である自分から逃げたがっている人ばかり」
「そうかもしれない。俺は別にどっちでもいい。男でありたいときには、男を選び、ふっと自分がいやになったとき、女になる。自分の中にある天秤の両端を行ったり来たりしているだけ。俺はたぶん、バランスという言葉がだれよりも好きな人間だと思う」
「はみださない。無理をしない。いつでも戻れる。そういうこと?」
「俺は殺さないんです、自分を。戻れなくなったらそれでもいい。極が二つあるのならそれもいい。どっちがいいのかわからない。わからないし決められない。だから男であったり、女の真似をしたりする」


 しかし、俺に、最初のいやな足跡をつけたのは、この俺じゃなかったこともたしかだと誠は思う。俺のものである白い画面に、他人の足が踏み込んで白い道をぐちゃぐちゃにしていったのだ。女の子のようだと言われた子供のころ、誠は自分の中に得体の知れぬものを抱え込んでいた。レースの服、母親の美しい下着、硬いものではなく柔らかいものに惹かれる気分を、誠は自分がうっとりとしたものに触れた最初の記憶として覚えている。そんなものに囲まれていると、自分の肉の内側に隠された秘密めいたものが、ひそひそとした幸福感とともに起き上がってくる。
 それを、むりやり引き剥がしたのは母親だった。母親は、誠がもの心つくころ、酔うと必ず誠に向かって「お前はだれの子、変態ちやん。生まれそこないのお人形ちゃん」と言った。そういうときの母親の声は、ざらざらして刺があった。母親に嫌われているのではないかと、その声を開くたびに誠は怯えた。俺はただ、きれいなもの柔らかいもの、暴力的ではないものが好きだっただけなのに……。
 いまはなにが変態なのか、よくわからない。
 あのころ、好きだったものは、全部母親の持っていたものばかりだ。美しい石をちりばめたステージ用のヘア飾り、半透明のリボン、これもステージ用の指輪やネックレス、きらきらと光るそれらは、全部母親のつける香水の匂いがしみついていた。案外俺は、母親が持っているものならどんなものでも、好きになれたのかもしれない。くたぴれたリボンであっても、色の剥げた靴であっても……俺は、母親の物ではなく母親を象徴するなにかに激しく惹かれていたのかもしれない。
 カンパリソーダを傾けながら、小夜子がぼんやりと言った。
「最初のいやな足跡ねえ……。どうかしら。生まれたときかもしれないね。本当は女に生まれたかったのに、男の子ですと宣言されたときにさ」
「陳腐すぎる」
 誠は静かに笑った。この店に来る客たちは酔うと決まって言うのだ。「女っていいわよねえ。私も女に生まれたかった。ペニスって邪魔よね。そう思わない?」
 肉体的にも女になりたがっている男ならともかく、女装趣味者の多くは決して自分の器官を取ることなんか考えない。男から女へとたやすく変身はしても、股間にあるものをだれよりも愛している。女を抱きたいとは積極的には思わなくても、ペニスのない自分なんて自分ではないのだ。
 そう、フランスの外務省の職員の愛人だった中国人の男スゥ・ペイ・プーのように。彼は、赴任先である中国にやって釆たフランス人の男と二十年間も愛人閑係を続けながら、一度も自分のペニスを愛人のために使わなかった。愛人の前ではいつも女の姿をして、京劇歌手として通したペイ・プーは、自分の性を隠し通し、フランス人の愛人でさえ、″彼女″が男だということを最後まで知らなかったという。いったい自分をどこに隠していたのか、闇の中で相手の体をまさぐるときもペイ・プーはひたすらペニスの存在を隠し続けたのだ。そして、睦言の中で″彼女″は、フランス人から国家秘密を探り出し、祖国に流していた。ひょっとすると、″愛人″とか愛する祖国″の間でひきさかれていた中国人は、勃起したくてもできなかったのかもしれないが、それが闇の中であれ二十年間、宙ぶらりんのペニスを抱えていたことを思うと、誠はなぜか泣きたくなるのだ。この世には男でありながら最高の女がいる。
 それこそ最高の足跡だ。

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