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YES・YES・YES

比留間久夫 河出書房新社(1989)

ゲイ・ホモセクシャルの心理を描いた小説です。男を男として愛する形ですから、この小説にはトランスベスタイトの描写はほとんどありません。むしろ、それを風刺するような描き方になっています。ゲイの立場からみれば当然な感情だと思います。それでも、抱かれながら女性の性役割に感情移入していってしまうのは、程度の差こそあれ、トランスベスタイトと根本は変わらないような気もします。


 客は部屋に入るとおもむろにトランクケースを開けた。
 そして僕を呼ぶと、
「おい、これを着てくれ」と言った。
 僕はベッドの上にぶちまけられた服を見て、一瞬、目が点になった。
 えっ? 僕は笑いだした。おかしくて死にそうだった。
今まで変な形のパンツをいろいろ穿かされたり、月桂樹の冠を頭に被らされたりしたことはあったが、女の格好をしろって言われたのはこれが初めてだ。スカート、リボン、ブラウス、パンティストッキング、……それに下着まである。
「本気ですか?」僕は客に聞いた。
「ぐたぐた言ってないで早く着ろ! それに見合った金はちゃんと払う」
 客は少し気分を害したようだ。しかしそれに見合った金って言い方は、とても抽象的な言い回しだ。こんなふうに言う客はそんなにたいして金はくれない。くれたためしがない。
「これ、全部、着るんですか?」
 僕は可愛いレースのフリルの付いたパンティを手に取って、笑いながら聞いた。
「そうだ。大丈夫だ、新品だ。ほかのもちゃんとクリーニングしてある」
 こいつの言うことはまるで答えになっていない。
「今、ここで、着替えるんですか?」
「ああ、そうだ。……恥ずかしいか?」
 ははっ、恥ずかしくないって言ったら完全に変態だ。僕もあんたのお仲間だ。

 天井の鏡、壁の鏡、ベッドの鏡、あらゆる鏡に僕が映っている。首を少し動かせば、そこに、鏡に映った自分の姿がある。僕はそれを見て、思わず笑わないではいられない。まるで自分でないようだ。どこかの変態野郎でも見てるような気分だ。
 男は僕に完璧な化粧を施した。この男は赤が好きなようだ。目蓋の回りに塗られたシャドウも、唇に引かれた口紅も、みんな濡れたような赤だ。それは白色のファンデーションとくっきりコントラストを描いて、まるで僕を白痴の女の子のようにしている。白痴をいいことに、薄汚い肉欲の毒牙にかけられている、哀れで足りない女の子。
 高く塔のように上げられた足のてっぺんに、白いパンティが、降伏の旗のように打ち萎れ、ぶら下がっている。爪先を揺すってそれを振り払ってもいいのだが、僕はあえてそれをしない。
なかなかエロティックな眺めだ。それは気分を盛りあげる小物としてあった方がいい。それは不思議な、そして甘美な混乱だった。

■    ■    ■


 僕はまるで自分が本当に『女』であるかのような錯覚に導かれた。だってエデンの『深淵』に、セレナーデを激しくかき鳴らされながら、本当に女のように、いくって感じになっていくんだから。射精する、いくって感覚ではなく、本当、突っ込まれながら沸き上ってくるような、いくって感覚。
 僕は今までこんな経験をしたことはなかった。それは今までのバンドラが、あくまでも、意識的な、女になったような、快感にとどまるものだったからだ。それに比べて、これは何ていうか、本当に、物理的に、自分が『女』になったような肉体的な快感に裏付けされたものだった。その限りなく高みに昇っていくような感覚、エデンの中に姿を変え、転移された、ナルシスの上昇の感覚。僕は何か得も知れぬ神秘的な啓示に、歓びに、打たれながら、きっと女が味わうオルガスムスとはこういう感じなのかもしれないと、ゆったりと至福に昇りつめていくような快感の中でそれを感じていた。
 それはほんと言葉なんかじゃとても言い表わせないはど、すごく、すごく、すごく、気持ちのいい錯乱だった。僕は完全に宙に浮遊するような状態で、まったく真っ白になった頭の中で、やめないでと願いながら、自分をママに向け、大きく開いていた。この上ない肉体の歓喜に、この上ない精神の空白に、溢れてくる幸福な絶叫をまるで口の中に押しとどめることもできずに。(きっと僕はすごい声を出していたんじゃないかな?)本当に自分を『女』のように感じながら。

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HAPPY BIRTHDAY

比留間久夫 河出書房新社(1990)

 女性に興味がなく、女のような男も嫌い、女のカッコをする男はもっと嫌いというGAYの晃生との恋愛に揺れながらも、いつかは女の子に生まれ変わりたいと願うTSの亮。亮は悩みながらも、少しずつ男の性を捨てていきます。


   きれいになりたい
   美しくなりたい

 いつ頃からだろう、そんな思いが亮の心に芽生えだしたのは。
 それはもうずいぶんと遠い昔のような気もするし、まだほんの半年ぐらい前の話のような気もする。
 きれいになりたい、美しくなりたい。
 そんなふうに言うと、人はきっと鏡の前であれこれ物想いに耽っている、思春期の可愛らしい女の子を想像するだろう。
 ああ、きっとこの子は今、恋をしているんだな、と。
 けれど別に、亮は誰に恋をしているのでもない。
 いや、確かに、晃生への想いは恋と名付けても何らおかしいものではないけれど、そのことはもう、繰り返し、言いたくはない。晃生は亮に『女の子』を求めているのでは決してないのだから……。
 きれいになりたい、美しくなりたい。
 それはきっとほかの誰のためでもない。
 自分のためだ。自分が生きていくのに一こんなおおげさな言葉は使いたくないけれど一、それはきっと必要なことなのだ。
 昔、海で溺れそうになったことがあった。あの時の気持ちとなんか似ている。日頃は空気なんてさして必要なものだとも気にもとめていなかったのに、いざそれが失われてしまうと、とても困るような。きっとそれと同じ。もし今、自分にこの思いがなくなってしまえば、きっと自分は人生に溺れてしまうだろう。何にもすがれずに、冷たい大波にさらわれて……
 こんなこと考えたくもないけれど……。
 こうしてじっと鏡を見ていると、何故か心が落ち着いてくる。世界がこの鏡の中だけになってしまったような。どんな雑音も脅迫も耳に聞こえてこない。聞こえてくるのは自分の内なる悲喜こもごもな、楽しい囁きだけ。
 わたし、きれいになれるかしら?
 わたし、美しくなれるかしら?
 バンビはさっきからずっと、部屋で独り、鏡を見ながら、ぶつぶつとつぶやいている。
 まるで「鏡よ、鏡よ、鏡さん」の世界。バンビも人のことをとやかく言えたものじゃない。バンビはそのことに気づき、小さく笑う。
 きっと鏡はいちばんのお友達。いちばんの人生の相談相手。恋をする夢見がちな女の子たちにとっても、世界に恋したいひとりぼっちのバンビにとっても。

■    ■    ■

 わたしは街でよくゲイボーイとかを見かける度、すこしずつ、心惹かれていく自分に気がついていた。
 綺麗な言い方をすれば、自分の中に何かが思い出されてくるとでもいうのかな、遠い甘い記憶の断片を指でくすぐられるような、そんな感じ。
 いや、本当のことをいえば、そんな物語みたいな話じゃない。
 わたしは晃生と出逢う前も、出逢ってからも、ずっとそのことを忘れたことはなかった。
 ただわたし、ほかに何か道はないかなって考えていたんだと思う。ほら、人はよく自分の中に自分でも気がつかない自分が−才能がかな?−眠ってたりするって言ったりするものね。たぷんわたし、それを探していたんだと思う。晃生の腕の中で安心して、心地よくうたた寝しながら、いろいろな夢を次から次へ。
 けれど自分のことは自分がいちばんよくわかるもの。わたしは自分が幸福でいられそうな夢以外、一つ一つ世界を消していった。
 そしたら残ったのは、やっばり、晃生の腕の中と、『女の子になりたい!』 って昔からの子供っぽい夢だった。
 けれどそれは晃生とつきあいはじめた時点ですでにわかっていたんだと思う。ただわたし、晃生が目覚めた時、わたしのその話を聞いて、「ステキな夢だね」 って言ってくれるかどうか、それだけを確かめたかったんだって気がする。そしてもし晃生がそう言ってくれたなら、わたしは喜んで、すぐにでもその夢の中に飛び込んで行けたんだって思う。
 だけどそういうことって本能的にわかったりする。だからわたしずっと心の奥にそれを眠らせといた。このままずっと眠り続けていてくれるのなら、それでもいいって、何度も晃生の腕の中で思った時もある。そのぐらい晃生の腕をわたし、なくしたくはなかった。だって初めてわたしが聞いた子守歌だったんだもの。
 けれどもし夢なら、それは持っているだけでも幸せなんだけれど、わたしの場合、それはきっと『本当の自分の姿』だった。それにならなければ自分が自分ではなくなってしまう、ちょっと重たく言っちゃえば、そんな感じになるのかな。
 わたしが抱き続けてきた不和、それほきっと誰もわかってはくれないと思う。晃生でさえ、その内面までは絶対覗けやしない。けれどそれはそれでいい。だってわたし、晃生にそんなことまでわかってもらいたいとは思わなかったもの。
 それに当のわたしでさえ、自分でもわからない、大きなドラゴンをからだの中に飼っているような気分なんだから、とてもそんなこと人に説明できたりはしないものね。
 わたしは朝起きて、鏡に映った自分を見て、いつもがっかりしていた。一度きりだってわたし、鏡に映った自分を、自分だと感じたことはない。目をつぶり、新しい朝が来れば、世界は変わっているかもしれない……。そんなこと本当に信じているほどわたし子供ではなかったつもりだけど、もしかしたら奇跡が起こっているかもしれない、そんなふうに思って、わたしいつも鏡を見ていたんだと思う。
 もちろん、子供の頃の話だけどね。
 けれどわたしの中のドラゴンは一 なんかいやだな……
 けれどわたしの中のお姫さまは、日に日に大きくなっていった。そしてそれはきっと一ちょっと生臭い話になっちゃうけど『SEX』とも無縁ではなかったと思う。晃生の腕の中でわたしはいつも女の子だった。わたしはいつも女の子だって夢を見ながら、晃生の腕の中にいた。晃生がどう思っていたにしても、わたしは女の子として愛されていた。そして朝起きて、鏡を見て、わたしだんだん耐えられなくなっていった。だってそこには夢の中のわたしがいなかったから。そこには悲しそうな顔をした、とまどいがちの男の子がいつも映っていたから。

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