[紫苑]

片想い

東野圭吾 文藝春秋(2001.3)

 この小説は、FTMGIDを中心にしたお話しです。
 心の性で生きるために、肉体的な壁を乗り越えた先には、社会の厚い壁が待っています。そのなかでも社会的性つまり戸籍の性は、社会生活を営むうえで根本的なものです。

 戸籍の訂正には家裁の許可が必要なため、埼玉医科大などで性転換手術を受けた6人が、平成13年5月24日に、戸籍上の性別表記の訂正を求めて、各地の家庭裁判所に申し立てをしました。
 戸籍の記載に錯誤があった時に訂正を申請できると定めた、戸籍法113条の「錯誤」の意味を拡大解釈して、裁判によって解決することを求めています。
 日本精神神経学会は、最高裁長官、衆参両院議長、法務大臣などにあてて、「性同一性障害の法的性別に関する緊急要望書」を提出し、戸籍訂正を認めるべき旨を要望していますし、一部の地方議会でも、性同一性障害者の戸籍の性別訂正を可能にするよう求める意見書を可決しています。
 しかし裁判所は、性別の生物学的側面のみに基づき「出生時は外性器のみなず染色体についても女性であったことが明らか」で、戸籍法上、訂正の理由となる「錯誤」があったとはいえないとして、現在のところは、医学界公認の性転換手術を受けながらも、戸籍の性別訂正が認められていません(ISの場合は可能なようです)。もちろん、当事者の方々は却下決定を不服として抗告されています。 世の中の大多数の壁を乗り越えられない人達のためにも、頑張っていただきたいと思います。

 これまでに公表された裁判例で戸籍訂正を認めない理由として、
 1.人の性別は法的には性染色体によって判断すべきである
 2.訂正を認めるべきであるという国民的なコンセンサスがない
 3.戸籍訂正を認めれば、他に重大な問題が生じる
 4.立法によって解決すべきであって、現行戸籍法によっては解決することができない
 を挙げていますが、欧米のほとんどの国々は、すでに70〜80年代にかけて特別法を制定し、あるいは、特別法を制定していない国でも、戸籍法の規定を拡大解釈し裁判によって性別表記の訂正を認めていることから考えれば、いずれの理由も説得力のないものだと思います。

 自分が選んだ心の性で生きてゆくことで外見と性別表記が調和しないことは、当事者の方々は元より覚悟のうえではあるのでしょうが、働くという生活上基本的なことさえも外見と戸籍の性が違うという本人の能力と全く関係ないことで、大きな制約や不利益をうけるという社会の矛盾を当事者の覚悟と忍耐にだけ押し付けておけばよいなどということはないはずです。
 この小説は、心の性で生きるということを、今一度じっくり考えてみるには最適の本だと思います。


「あなたは先程、ふつうの女性、という表現をお使いになりました。そこで私からお尋ねしたい。ふつうの女性、とはどういう女性ですか」
「それは肉体が女性で心も女性ということだと思いますが」
「わかりました。では肉体が女性とはどういうことか。これは性染色体がXXであると定義できます。実際には例外もあるのですが、そのことは今は置いときましょう。次に心が女性とはどういうことか。子供の頃からスカートを穿きたがるということですか。おままごと遊びが好きということですか。ロボットよりもお人形が好き、野球帽よりもリボンが好きということですか」
「そういったことが単に環境や習慣の賜(たまもの)だということはわかります。でも、女性的な性格というのが存在するのは事実でしょう」
 哲朗がいうと、相川は一度深く領いた。
「人間の特性に男性的なものと女性的なものがあるのは認めます。では質問しますが、あなたのいうふつうの女性とは、心が百パーセント女性的なものだけで占められている人のことをいうんですか。男性的な部分が少しでもある人は失格ですか」
「いや、そうはいいませんが、全体的に女性的な部分が多い人のことを一般に」
「多い少ないというのは、あまりに定性的です。主観的でもある。それを一体誰が決めるんですか」
 哲朗は口を閉ざした。返す言葉がなくなってきた。そんな彼の顔を、相川は覗き込んできた。
「あなた、フリーライターだとおっしゃいまLたね。トランスセクシャルやトランスジェンダーを取材したことはありますか」
「ありません」
「では、取材するとしたらどうしますか」
 奇妙な質問だった。なぜこんなことを訊かれるのかわからなかった。
「それは、やっぱりまずこういう店に来て……」
 そこまでしゃべったところで相川は頚いた。
「そうでしょうね。そうすれば簡単に取材対象は見つかる。我々には横の繋がりもあるから、同様の悩みを
持った人間に、芋蔓式にコンタクトをとれる。しかし、その方法には根本的に間違いがあるとは思いませんか」
 相川のいっている意味を哲朗は考えた。しかし、求められている答えを出せそうにはなかった。すると彼女がいった。
「その手段で取材できる相手というのは、ある程度の壁を突き破った者にかぎられるということです。ここにはしょっちゅう新しい子が釆ます。彼等ほまず、自分が本当は男性だという自覚を持っています。それはすでにひとつの壁を破っていることを意味します。次に彼等は男性として生きる決意をしている。これもまた乗り越えた壁です。店に出て、客の相手をするにも、克服すべきものがある。さらに」相川は人差し指を立てた。「取材に応じるにも、自分の中で打ち負かさなきゃならないものが存在するんです。あなた方が聞ける話というのは、それだけいくつもの困難を越えてきた者の声にすぎない。最近はその手のノンフィクションがたくさん出ていますが、どれもこれも強い人間のことばかりが描かれている。まるで、トランスセクシャルやトランスジェンダーには精神力の強い人間しかいないようにね。でも実態はそんなものじゃない。最初の壁さえ越えられずに苦しんでいる者のほうが、はるかにたくさんいるんです」
 相川は周囲を見回すと、床に落ちていた紙を拾い上げた。何かの広告のようだ。それを細い指先で丁寧にちぎり始めた。幅一センチ、長さ二十センチほどの紙の帯が、彼女の手に残った。
「メビウスの帯を御存じですか」哲朗に訊いてきた。
 ええ、と彼は戸惑いながら嶺いた。
 相川は持っていた紙の帯を彼のほうに差し出した。作ってみろ、という意味らしい。
 哲朗は帯の両端を持ち、一方を一回捻った後、端同士を合わせた。正解だったらしく、相川は首を縦に振った。
「男と女ほ、メビウスの裏と表の関係にあると思っています」
「どういう意味ですか」
「ふつうの一枚の紙ならば、裏はどこまでいっても裏だし、表は永久に表です。両者が出会うことはない。でもメビウスの帯ならば、表だと思って進んでいったら、いつの間にか裏に回っているということになる。つまり両者は繋がっているんです。この世のすべての人は、このメビウスの帯の上にいる。完全な男はいないし、完全な女もいない。またそれぞれの人が持つメビウスの帯は一本じゃない。ある部分は男性的だけど、別の部分は女性的というのが、ふつうの人間なんです。あなたの中にだって、女性的な部分がいくつもあるはずです。トランスジェンダーといっても一様じゃない。トランスセクシャルといっても、いろいろいます。この世に同じ人間などいないんです。その写真の人にしても、肉体は女で心は男などという単純な言い方はできないはずです。私がそうであるようにね」
 淡々と語った後、反応を何うように相川は哲朗を見つめてきた。その目からは揺るぎない意思が感じられた。これまでに越えてきた苦悩、味わってきた屈辱の大きさが伝わってくるようだった。
 哲朗は美月の写真を引き寄せた。
「この写真の女性は、男と女の関係は北極と南極のようなものだと表現したそうです。俺はコインの裏表とどう違うんだと反論したんですが」
「なるほど、北極と南極ね。それはいい」相川は口元を緩めた。「メビウスの帯と同じです。コインの場合、裏から表に行くことはできないが、北極から南極へは移動できる。繋がっていますからね。かなり遠いですが」
「たぶんそういう意味だったんでしょうね」
 哲朗も、今は理沙子のいっていたことがよくわかる。
「あなたは私が手術もホルモン療法もしていないことを不思議に思いませんか」
「じっはそのことをお尋ねしようと……」
「私は自分のことを異常だとは思っていないからです。この心で、この身体を持っている、それが自分自身だと信じているからです。何も変える必要はない」
「しかしこの店で働いている人なんかは」
 哲朗がいうと、相川はかすかに眉をひそめた。小さくかぶりを振る。
「自らを解放したいという欲求を、彼等から奪うわけにはいきません。悲しいことに今の社会は、男はこうあるもの、女はこうあるものという決め事に満ちています。姿形に関してもね。幼い頃からそういう中で育った者が、自分の姿は本来のものではないと思い込み、丸くて大きな乳房を忌み嫌ったとしても無理はないでしょう。私は性同−性障害という病気は存在しないと考えています。治療すべきは、少数派を排除しようとする社会のほうなんです」
「受け入れられさえすれば、ホルモン療法も手術も必要なくなると?」
「私はそう信じています。だけど、無理かもしれない」相川は首を振り、ため息をついた。「人間は未知のものを恐れます。恐れて、排除しょうとする。どんなに性同一性障害という言葉だけがクローズアップされても、何も変わらない。受け入れられたいという我々の思いは、たぶんこれからも伝わらない。片想いはこれからも続くでしょう」
 彼女の言葉には重みがあり、哲朗の心の奥にずっしりと沈んだ。改めて相川の顔を見たが、今は男性とも女性ともいいきれなかった。どちらでもなく、またどちらでもあるのだろう。
 哲朗は、以前どこかで彼女と同じ目をした人物に出会ったことがあるような気がした。しかし思い出せなかった。
 相川は先程の紙の帯を手の中で握りつぶした。
「北極と南極という喩えも悪くありませんが、私はやっばりメビウスの帯のほうが的確だと思いますね。男と女は繋がっているが、どこかで必ず捩れているんです」そういうと、にっこり笑った。

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