(木賊色)

Search〜きみがいた

GID(性同一性障害)二人の結婚

平安名祐生・恵 徳間書店(2000/10)

 ともに生まれつき体と心の性別が異なる性同一性障害を抱えながら結ばれた祐生さんと恵さん(大阪・堺市)が、入籍二年目を機に、二人の手記をまとめて出版した本です。二人は、戸籍上は女性の祐生さんが夫、男性の恵さんが妻として暮らしています。逆転夫婦というキャッチフレーズに単に興味本位でこの本を手に取った方には、きっとつまらないと思います。どちらかといえば、二人のGIDの手記といったほうが適切だと思います。心と体のギャップに悩む二人が、性の違和感に目覚めた幼年時代から葛藤に苦しむ思春期、二人の出会い結婚を通しての思いが綴られています。出版されたばかりで、ネタばらしになってしまいますので、引用は控えめに触りのところだけにさせていただきます。興味のある方は、是非購入して読んで下さいね。

 一見フツーに見える僕たち夫婦は、実はフツーの夫婦と少し違う。戸籍上は、メグミが男「夫」、僕は女で「妻」という”逆転夫婦”なのだ。男が世帯主という世の慣習に従って、住民票の世帯主も、男であるメグミということになっている。
 僕とメグミは、性同一性障害という病気を背負って生まれてきた者同士なのだ。
「えっ、オカマとオナベなの?」
 多くの人は、そんなふうに思うかもしれない。が、ちょっと違う。
「ホモなの? レズなの?」
 と聞かれることもあるが、これも違う。
 自分を気持ちの上で男(女)だと認めた上で、女装(男装)願望・趣味があったり、女(男)言葉を使ったりと女(男)っぽくふるまうのがオカマ(オナベ)。自分を男(女)と認識しながら、男(女)を好きになるのがホモ(レズ)だと僕は思う。
 僕たちが、そういったオカマ、オナベと決定的に違うのは、もともと生まれた時から体と心の性が違っていたことだ。女の体で生まれてきたものの、最初から心が男だったのが僕。体は男だったが、心が女だったのがメグミ。体の性を取り違えて生まれてきてしまった(=性同一性障害)のだ。男装(女装)の趣味があるとかしぐさが男っぽい(女っぽい)とかのレベルをはるかに超えた医学的な「病気」で、心に合わせて体を男(女)に変えたいと望んできた。

自分が女である(または男である)という事実を当たり前として生活している人には、けして分からないことがあると思います。誰がどう言おうと、女である(男である)ことを信じて疑わない当たり前。その当たり前の中に忘れていることはないでしょうか。逆説的ですが、普通の人が押し付ける「男らしさ」「女らしさ」を自分たちこそ忘れているのではないでしょうか。私はTVでGIDではありませんが、「らしさ」という言葉の縛りに悩み、反発しながらも反対の性の「らしさ」に惹かれ、純化してゆく、これだけは共通する想いだと思うのです。日頃からの「らしさ」に対する過剰反応は、「らしさ」という感覚を尖らせて、最後には「その人らしさ」に辿り着くのだと思います。外見じゃなくてその人自身を認めること、それが素直にできたら素晴らしいと思います。

 一見女に早える私は、「女に極力近づきたい」という意識が強い。けど、「女そのものになりたい」という意識は、今はないんです。
「女に極力近づきたい」から、外見的にも女らしくしたい、休も女に近づきたいと思って暮らしてきたわけですが、「女そのものになりたい」というのとどう違うかというと、「元男だった」ということを自分で認める人間でいたい、ということ。
 同種の友達の中には、自分が女だと信じて疑わない人もいるんです。元男だったということがバレるのは絶対に嫌だ、という人。
 私に言わせると、それは勘違いなんです。私たちは性同一性障害の病気を持って生まれた、もともと体が男だった、性転換して女になったとという現実をきちっと認識しながら生きて行く方がいいと思うんです。そうしないと、誰かに、
「所詮、男でしょ」
 というような言われ方をした場合に、対処できなくなる。元男だということを隠して男の人とつきあってきて、バレたのが引き金になって自殺してしまったニューハーフさんを私、何人も知っています。バレた時、一番の負い目になるのが、自分が子どもが産めない体だということなんですが、それを相手から言われると、もうショックでショックで、手首を切ってしまう。よくあるケースなんです。自分を100パーセントの女だと勘違いしてしまっていたための悲劇だと思う。
私、外見的に女に見えるようになってずいぶん経ちますが、背が174センチあるし、声も低い。喉仏もある。それは、どんなにうまくお化粧をしようとも、女言葉を使おうとも、隠せない事実だと思うんです。よ〜く見ると、「男みたいな女」なんだ、と。それ以上でも以下でもないのが、私だということを自覚しているつもり。
 と、えらそうなことを言う私も、自分が女だと勘違いしていた時期もありました。でも、世間との軋轢、男性との軋轢の中で、自分が100パーセントの女としては生きていけないことを悟ったんです。
女から男に変わった人も同じ。自分を男だと信じて疑わない人も多いけど、そんなふうに思っていると、結局自分で自分の首を絞めることになるのになと思う。「元は女だった」ことを認めた上で生きていかないと、璧にぶち当たった時に「こんなはずじゃなかった」と絶望的になり、取り返しがつかないことになると私は思うんです。
 そもそも、女はこうでなければならない、男はこうでなければならない、なんていう価値観に縛られなければいいことなんですが。
 いろんな男がいて、いろんな女がいる。いろんなニューハーフがいて、いろんなボーイッシュがいる。そんなふうに、みんながそれぞれの違いを認めることができるようになれば、私たちも「100パーセント女」の”縛り”から解放されるのにと思うんですが……。

体だけ変わったからといって、即、理想の生活が出来るわけでないことは当然です。最初は、しないよりはしたほうがより理想に近づけるだろう、少しでも近づきたいからと思っているわけですが、いつの間にか、体を変えることが目的になっちゃうのです。結婚と似ていて、そこからがスタートなのに、目的になちゃうんです。体を変えても、気持は楽になるかも知れませんが、自分の本質まで一緒に替わってしまうわけではありません。脱げない体の中には、やはり、子供の頃からの自分が同じように居るのです。

「この人と結婚したら、幸せになれるだろうか」
 そんなふうに言う女の子がよくいるじゃないですか。
「彼が私を愛し続けてくれるだろうか」
「経済的に豊かに暮らせるだろうか」
 など、世の女の子が結婚に期待することを聞いていると、私、「いい加減にしなさいよ」と思っちゃう。そんな、相手に何かを与えてもらおうと虫のいいことばかり考えて、幸せにしてもらおうなんて考え、私は大嫌い。思い上がりだと思うんです。むしろ、「彼を幸せにしてあげたい」というふうに、相手にとって自分が少しでも役立ちたいと思う気持ちが愛なんじやないかと私は思う。
 もちろん、いくぶんかは相手が私にとって好都合かどうかは考えます。でも、それはほんの少しだけ。相手に、自分が何かをしてあげたい。大げさに言うと、自分が相手を幸せにしてあげたい。「与えてもらう」より「与えてあげたい」の方が大きくなくちゃおかしいぞ、と思うんです。
私の場合は、ユウ君の優しさにホロッときて好きになっちゃつたのですが、彼の前で肩の力を抜くことができたこと、二人でいることがすごく自然だったこと、それに私も彼を支えてあげたいという思いが大きくなって結婚しました。

我侭ということではなくて、自分の弱さを受け止めてくれる人がいる。安心して自分を預けられる人がいるというのはとても素敵なことだと思います。受け止めてくれる人もそうですが、相手の人に素直に自分を見せることが出来るのも素敵だと思います。「その人らしさ」を大切にしているから出来るのだと思います。
GIDとはいっても、ただ求める性のパターンに自分をはめ込めばいいのではないと思います。自分の求める「自分らしさ」が、世の中で決めている女性の方に偏っていたり、男性の方に偏っていたりするだけでなのです。社会の型紙に無理矢理自分をはめ込む必要はないと思います。まず自分という状態があって、社会が自分を表現しようとしたときに「男」と「女」の二つの言葉しか持っていなかっただけなのです。記号に合わせるために「病気」にされてしまうなんて、それこそ社会の方が「病気」なのだと私は思うのですが……。

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