(紫苑[しおん])

この闇と光

服部まゆみ 角川書店(1998)

「レイア姫」盲目の私は、お姫さま!この国は戦争で負け、父の国王と私は隣の国の兵士たちに幽閉されている。三歳の時、母は私を連れて逃げようとして死んだ。そして、その時から私の目も見えなくなったのです。


「今日は日の醒めるような薔薇色のドレスだよ」と父が言う。父の話し方は優しく、甘く、丁寧だ。
「明るい薔薇の花びらのようなピンクだ。襟はレースの縁取りのある白」と私の手を襟に触らせる。「前に赤いリボンが付いている」と、手をリボンに持っていく。「ボタンは白い貝殻だ。まだおまえ一人で嵌めるのは難しいだろうね。薔薇の花の形をした素敵なボタンだよ」一指で触ってもぎざぎざの囲い塊を感じるだけだ。「腰にも赤いリボン、触ってごらん。滑らかで指が滑るようだろう?サテンのリボンだ。縁はもっと赤い……濃い赤……濃い赤のことは『真紅』と言うのだよ。真紅の糸で縁取られている。とても似合う。まるで妖精のお姫さまみたいだ」
「ようせいってなに?」と私は聞く。
「妖精とはね……」と言いながら、父は私の向きを変える。
「よし、リボンも結んだ。妖精のお姫様の出来上がりだ。妖精のことは朝食を摂りながら話してあげよう」
「プゥ」を抱き、父に手を取られて隣室に向かう間、私は着せられた洋服を思い浮かべる。
 明るいピンク、白い襟、白いボタン、赤いリボン、それに真紅……「真紅」は濃い赤……目の中は赤茶色に染まっている。「真紅」は「赤茶色」と違うのだろうか?


 目が見えるようになってから、私は…‥・いや、僕と言うべきだろう。なぜなら、僕は男だったから。そして僕くらいの年齢では、大概の少年が、自分のことを僕と言っているから……もっとも、僕が自分を男だと知らされたのは、見えるようになった翌日、そして理解できたのは、それから一月も後だった。
 見えるということは偉大なことだ。
 僕は自身の喉仏のある首を、平らな胸を、太い胴を、そして性器を……確認した。だが、それが男の特徴であることを……自分が女の子ではなく、男の子であると……理解するまでには時間がかかった。改めて、男とか女とか考えたことは今まで一度もなかった。何しろ僕はレイア姫として、物語と音楽だけの世界で育てられたのだ。それこそ異世界だった。女として扱われ、物語も、日常の会話も、男女の違いを感じさせるものは注意深く避けられていた。そして盲目だった。自分が男だなどと、夢想だにしなかった。姫君だったのだから!


 そして僕は……毎日、毎日、一度は聞いていた声を思い出す……レイアは美しい……世界で一番美しい……白雪姫よりも、いばら姫よりも、だれよりも……笑わせる……どうということのない顔の……しかも男の子だ!……あの男は……僕に囁きながら、内心大笑いをしていたのだろうか?
 そう……オウディウスの『変身物語』というのを読んでくれたこともあった。

 森の中で交尾している二匹の蛇を杖で打ち、男から女に変わってしまうティレシアスというひとの話だ。ティレシアスは七年間、女でいて、再び同じ蛇たちに出会い、元の姿に戻ったという。その後、ティレシアスは視力を奪われ、予言者となる。

「父」は、どういうつもりで、この話を僕に聴かせたのだろう?
 神、アブラクサスの脚は二匹の蛇で出来ている。父は言った。半男半女の精神が叡知に至る姿だと……アブラクサス……アブラクサス……神の意志はランダム……悪魔をも兼ねる神、アブラクサスの名を呪文のように繰り返しながら、僕は思う。確かなものは何もない、と。
 『変身物語』を聴き終って、「男のひとが女のひとになってしまったの!?」と、僕は叫んだものだ。「信じられないわ」と……おめでたいレイア……僕こそティレシアス……信じられない。
 何もかも……まるで、世界の破れ目から、別の世界に転がり落ちたような気分だ……


 ずいぶん昔のことですが、狼少年とか狼少女が話題になったことがあります。「狼が来た」というイソップのうそつき少年の話ではなくて、狼に育てられたという少年とか少女の話です。結局、実際に狼が人間の子供を育てていたわけではなくて、狼の巣の近くで発見されたということで作り話だったらしいのですが、狼に育てられるというような極端な状況でなくても、環境によって人格やジェンダーがどれくらい左右されるのか興味のあるところです。もちろん、恣意的な人体実験など出来ることではありませんが、インターセクシャルの場合など似たような状況は、現実にもありうることです。

 この小説は、三歳の時に事故に遭い失明した男の子が誘拐されて、女の子、それもお姫さまとして純粋培養で育てられるというお話です。
 とりかへばや物語も弟君がお姫さまとして育てられることでは、よく似た話のようですが、決定的な違いは、本人の性自認です。とりかへばやでは、本人に本当は男であるという意識がありますが、この小説では、主人公に自分が男だという認識が全く無いのです。
 周りから当然のように女の子としての扱いを受け、本人もそれを信じて疑わないのならば、身体の性がどうであれ、当然”女の子”なんです。身体の性がどうであれ、それで、全く問題ないわけですからね。
 「悲しき熱帯」(レビストロース)に紹介されている、男女の性役割が逆転している部族などもいい例だと思います。
 問題が起きるとすれば、ジェンダー(意識の性)に違和感を持った時なんですね。

 小説の後半は、解放されて本当の両親の家庭に戻る展開にになりますが、残念ながらお話しのテーマは、ジェンダーの葛藤ではなくて、誘拐犯のなぞ解きの方になってしまいます。それはそれで面白いのですが、男の子が、すんなりと身体の性に合わせた性自認を持ってしまって、いかにも身体の性こそ本来落ち着くべきジェンダーであるかのような前提でお話が進んでしまうことに、かえって不自然さを感じてしまいました。
 周りが見なす自分の性別(身体の性)を受け入れることがさも当然であるかのように(でも、これが一般の社会常識ですね(^_^;;)、こんなにさらりと書かれると、前半のあれは何だったの。ちょっと待ってよ!と言いたくなってしまいました。


「憶えているかい?アブラクサス」
「神の名前ね」と私は言う。
 前に「神の意思はランダム」と父から聞いたときに知った名前だ。「神の名はアブラクサスという」と、そのとき父は言った。 物語で、私はさまざまな神を知っている。ギリシア神話の神、ケルト神話の神、それにキリスト教やイスラム教、仏教等の神々…‥・神は大抵良き神であり、光の側に属している。闇の側の神は、悪神とか悪魔とか、堕天使と呼ばれ、人々を不幸にする。でも父は「世界には光と闇が存在し、善と悪が在り、人もその両方を併せ持っている。だから神も両方を併せ持っていなければおかしい」と言い、そういう神としてアブラクサスの名を挙げた。以来、私たちの間で、物語を離れて、単に「神」という場合、それはアブラクサスを指したけれど、物語の中で、この神の名前を聞いたことはない。父は「そのうち出会うよ」とだけ言っていた。
 そして出会った。


 この小説ではもう一つ、善と悪を併せ持った神というのが象徴化されているようです。
 宗教的には、絶対的な善悪があって、一般人間社会の便宜的な善悪とは異なります。人間の価値観に左右される善悪は、時代や社会に左右され普遍性を持つものではありませんからね。
 一般的な善悪のことをいうならば、善というのも悪というのも究極は、人の心の在りようで恣意的で便宜的なものです。ですから、男女のジェンダーも意識の問題だとでもいうことなのでしょうかね?
 わたしは頭が悪いので、服部さんが何をイメージしているのかよく分かりませんでした。

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