[滅紫(kesimurasaki)]

闇の女王

半村 良 1978.5 実業之日本社
    1979.11 集英社文庫

  [あらすじ]

 日本屈指の大富豪天羽賀修一郎は、破産に近い大浪費の末、失踪した。真相究明に乗り出した堀井は、修一郎が夜の歓楽街の世界を支配しようとしているらしいとの情報を得る。一方、その頃、東京では東京ジャックと名乗る集団が無差別テロを繰り返し都民を恐怖に陥れていた。調べを進めていくうちに、しだいに夜の世界に生きる悪の王国の姿が明らかになっていく……。

 半村良さんを偲んで、この本を読み返してみました。
 ジャンルとしては、SF娯楽ものですが、TSをまともに取り上げたという意味では、社会派の作品です。
 まだこの頃は、一般の雑誌に広告を出すような開かれた女装ショップもなくて、もちろんニューハーフという言葉もなかった頃です。ジェンダーという概念も定着していなくて、女装者といえば、十把一絡げの「おかま」で、性的変態のレッテルを貼られていました。当事者さえもそのような常識の中に自分を当てはめて悩んでいる人が多かったころに、性転換者と異性装者やゲイの立場の違いを区分して表現したこの作品は、それなりに意義があったと思います。

 現在では、警察官さえもセーラー服を着て小説まがいのおとり捜査などのお仕事をする時代(とはいってもお仕事だからこそ、セーラー服も許されるのであって、この恰好で普段も過ごせるというわけではないですが)ですから、この小説のような設定自体が時代遅れになりつつあります。この二十数年の間にずいぶん世の中も変わってきたものです。でも、TSに一人で悩んでいる悲劇のヒロインは、まだまだ大勢いらっしゃるのでしょうね。


 男と女それは堀井にとってはじめのうち、白と黒のように間違いようのないほど異るものであった。しかし、天羽賀のことをいくらかでも理解しようと、その方面の事柄について述べた何冊かの書物を読んで見ると、案に相違して<性別>という言葉の定義すら困難なことを知って唖然としてしまったのである。肉体や精神の奥深くわけ入って行くと、男の中にも女がおり、女の中にも男がひそんでいるらしいのだ。
 天羽賀はその曖昧な部分に陥ち込んでいるのだ。
「いったい、どんな感じなのだろう」
絵を描く手をとめて堀井が呟くと、となりで仕事をしている福山が、
「え……何のことです」
 と尋ねた。
「男のくせに女になりたがる人間のことさ」
福山はウフフ……と笑った。
「きまってるじゃないですか。女みたいな感じですよ」
「そういうのを君は異常だと思うかい」
「そうですね……」
福山は少し考えてから答えた。
「僕らから見れば異常ですよ」
「但し書きつきか」
「そういうのは、多数決みたいなもんですからね」
「多数決か。そうかも知れないな」
堀井も苦笑した。
「よく言うじやないですか。俺も男だ、なんてね。
でも、そいつが本当に男なのかどうか、他人には判りませんよ。判ってるのは女房か恋人くらいなもんでね」
「そうだな。肉体だけではなく、精神のことを言うのだとしたら、女だって男性的な精神を持つこともあり得るわけだしね」

  〜

「俺がさっきまで考えていたのは、そういう性に関する荷物を背負ってしまった者の感覚についてなのさ」
「そりゃ、僕らとはいや応なしに違う筈ですよ」
「そう思うかい」
「ええ。たとえば、病気にかかった者が病院へ行って治してもらっても誰も何も言わないけれど、性転換手術を受けると新聞に書かれちまうじゃないですか」
「そうだな」
「原因は病気と同じようなものなのに、本人の変な好みみたいに思われてしまうんです。つまり、社会から圧迫を受けて生きているんです。それに、現在は男でありながら、未来に女を持っているわけですしね。そういう立場に置かれたら、美意識だって変りますよ。それが絵描きだとしたら、或る色は強く、或る色は弱くと、感じ方だって違って来るでしょうしね」


 「男のくせに女になりたがる人間は、いったい、どんな感じなのだろう」
 貴女の場合はどんな感じですか?などと改めて問われてみても、「そんなこと意識したことないからわかりません」よね。どんな恰好であろうと、自分は、自分です。自分を離れて、男も女もないじゃないですか。「自分を男だと信じて疑わないあなたこそ、どんな感じなの?」と、逆に問い返してみたくなります。
 ジェンダーについては、「男の中の女の部分、女の中の男の部分」と表現されるような、絶対的な男のジェンダーや女のジェンダーが存在するわけではありません。”らしさ”という、それこそ多数決の理論で決められた(または、決められていると信じ込んでいる)イメージを物差しにして、自分を縛りつけているのであって、”らしさ”自体に本来は性別などないのです。
 ”らしさ”とは、所属のための記号です。あるグループへの所属の証なのです。”らしさ”の記号をたくさん持てば持つほど、所属への帰属意識が強化されてゆくのです。TS・TG・TVの社会的許容度は、身体的形態(これも一種の記号です)というよりは、このグループのメンバーとしての許容度に係わる問題なのです。
 ですから、私は、TSを一種の精神的病気として性転換手術という治療で解決出来るなどというのは、おかしな考え方だと思っています。極端な言い方ですが、性転換手術は、お化粧の延長のようなものだと思います。社会制度上は、身体的な外性器の形というたった一つの記号だけで、その人の一生を特定のグループに縛りつけています。男女のグループの境界を緩やかにする社会制度がなければ、本質的な解決には繋がっていかないのではないかと思います。

 小説の中でのTSに対する扱いは、精神障害的なところが強調されているので、現在では、差別感を感じる方もおられるかもしれませんね。
 
「多数決か。そうかも知れないな」と言いながらも、半村さんは、医学者のスペシャリティを信じ込んで、TSを一種の病気と考えられているようです。誰しも、多数決で病気にされてしまうのでは、文句の一つも言いたくなってしまうでしょうにね。TSに、理解があるのかどうか今読み返すと、何だか中途半端な表現ですが、これでも、当時としては目の覚めるようなTS擁護の台詞でした。

 それにしても、今読み返してみても、性転換に関する医学的な考え方や戸籍をはじめとする社会制度が当時となんら変わっていないことに驚かされます。いくらジェンダー論が盛んでも、いくら女装者が街に増えたといっても、当事者と係わりの無い一般の方達は、何年経っても意識が変わることなどないのでしょうかね。


 性転換願望者に対する性転換手術は、彼らを社会に適応させてやる為のもの、とされている。
 事の起りは発生学的問題にまでさかのぼり、人間という生物の根源に近い問題を含んでいるのだ。
 生まれつき外部性器に男女両性の形態を現わしている者を、男女いずれかに決定してしまうのは、その生産に立会った者のごく主観的な結論である場合が多いという。その後の発育が女性に傾いていても、一度男と判定された者は、最後まで男として存在して行かねばならない。
 また、外部性器がそうでなくても、心理的に異る性へ傾いて行く場合もある。そういった悩みを持つ人々に、性転換手術の機会が公然と与えられることになったのは、そう古いことではない。
 日本では、昭和四十四年に性転換手術を施した産婦人科医が、優生保護法違反として体刑および罰金刑を宣告されているし、医師の間でもその分野に対する関心は低く、宗教的問題が欧米ほどやかましくない国情にもかかわらず、不自然な行為として忌避する傾向が強いという。
 もともと日本には、性転換というものを前提にして作られた法律はいまだに存在していない。したがってそれは公的に禁じられてもいないかわり、優生保護法などを援用して取り締られることがあるし、ひょっとすると手術そのものに傷害罪を適用される危険性も絶無とは言えない。
 国から免許を受けた医師であっても、性転換という個人の行為そのものが違法性をはらんでいるとすれば、医師はその業務権の外にある行為を行なったことになるかも知れないからだ。
 それは民法の私権問題や戸籍法における出生届に関連して来るのだ。出生届には当然男女の性別が明記されるが、その書式には中性的存在の記載欄はない。もし性転換手術に成功し、その害を認められなくて咎められなくても、戸籍上の性別の移動は手術以上に困難であり、今のところ絶望視されている。
 従って、当人にとっては本来正当な性を獲得したとしても、転換後正規の婚姻はできないのである。養子的な手続以外に、戸籍をひとつにする方法はないのだ。
 たしかに、性転換手術は慎重に行なわれるべきだろう。性転換を望む者の多くは、精神異常の一分野とも言うべき、性的倒錯症の中の性転向症である。彼らは正常な肉体の所有者でありながら、異性への性的欲求を持てなくなっており、同性においてのみその欲求を充足し得る人々なのである。そのためにこそ、彼らは性転換を望んでいるのだ。
 したがって、それが軽症の者に対しては、治療ではなく遊戯への加担となり、重症の者に対しては、先ずその精神の異常を除去することが必要とされる。また、一般にはそれと同一視され易い衣裳倒錯症も、極端な場合には性転換を望むケースが多いという。
 しかし、実際に性転換手術を必要としている人々も多いのである。法体系がそれに対して黙殺の形をとり続けているのは、判定その他未解決の部分が多すぎるからであろう。


(追記)
 半村さんは、SFばかりではなく作品のジャンルも幅広くて、多彩な作品を残されています。特に「八十八夜物語」は、女性として私もこんな生き方をしてみたいと思うような素敵な作品です。

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