(萌葱)

セラフィムの夜

花村萬月 小学館(1994)・小学館文庫(1999)

[あらすじ▼

 何故かとっても悲しい小説です。すべての登場人物がとっても悲しい。どの登場人物も自分が背負う業のようなものにどっぷりと浸かっているような感じがします。総てのものは、業に流されて消えてゆくとでも言いたそうなそんな小説です。

『案の定、いつも受け付けにいる看護婦だった。上気した顔で、涼子のかたわらを小走りに駆けていき、ナースセンタとおぼしき部屋に飛び込んだ。うわずった声が届いた。
「確定したわよ。あの患者さんは、やっぱり睾丸性女性化症候群ですって!」
 涼子のところまで、どよめきが伝わった。
「信じられない。あんなきれいな人が!」
「ところが、大先生が言ってたわよ。睾丸性女性化症候群の残酷なところは、なぜか美人に生まれることなんですって。だから、結婚している人が多いのよ。男が放っておかないから。ただ、生理がないことや、不妊の訴えがあって、はじめてこうしてわかるわけ」
 涼子はハッとした。看護婦が言っているのは、自分のことではないか。
「ねえ、睾丸性の女性化っていうことは、じつは男だったってことなわけ?」
「そうね……いろいろな状態があるらしいんだけど、あの患者さんの場合、卵巣の位置に、睾丸があるらしいわ。性染色体は46XYですって」
「XY……じゃあ、完全に男じやない!」
「信じられないのよ、私は診察台で、あの患者さんの性器を見ているわけ」
「ねえ、それって、どんなだった?」
「完全に女よ。それも、天使みたい」
「天使?」
「きれいなのよ。まったくなんて言ったらいいかしら。淡い色をして……私なんか、内心羨んでいたんだから」』

 言葉(記号)の呪縛、私もよく捕まってしまいますが、言葉というのはすごい力を持っています。自分のアイデンティティーを得るために、言葉は非常に有効です。現象を分節的に表現してくれますから、自分の一面が当てはまれば所属の安心感が得られます。たとえそれが、標準から外れたものであったとしても、自分の位置を確認することができるからです。しかし、間違ってはいけないのは、言葉が表現しているのは、その時の自分の部分的な一断面であるのに、言葉にとらわれて自分のアイデンティティーがそこにあると思い込んでしまい、自分自身を言葉のほうに合わせようとしてしまうことです。言葉以前に自分が存在しているのであって、言葉で定義される自分があるのではないのです。言葉はあくまでも一現象の一断面を固定したものなのです。ひとつの言葉で自分のすべてが定義されるわけでもないし、時が移れば自分の存在自体も移ろいます。言葉に惑わされて、自分を見失わないように気をつけなければと思います。特に、他人から投げつけられる言葉に対しては。

『「君は何かになろうとして、結局パンチョッパリ(半分日本人)になってしまった。なぜか? 簡単だよ。君は自分以外の何かになろうとしたからだ。哀れだが、愚かだ。愚者とはどういったものか?
 愚者とは自分以外の何かになろうとあがく者のことだよ。
 社会や、そしてシステムは、君をからめとろうとする。君をとりこみ、君から奪い、君を変形させる。君を君以外のなにかに変えようとする。
 君は孤独に耐えきれない不細工な弱者だ。いいか。孤独は君が君自身であるための唯一の方法であり、選択なのだ。
 だが人は、大多数の愚者は、孤独に耐えきれず、なんらかの集団に身をおき、自分をねじ曲げ、自分を自分以外の何者かに変形させる。
 変形させられるだけではない。人は君のように自ら変形しようとあがく。いいか。君は自ら歪んで、つぶれたんだ。だが、自分以外の何かになろうとするのは、慢性の自殺だよ。
 君は一緒にしてほしくないと言うかもしれないが、君は僕の仲間だ。僕も自分以外の何かになろうとした。その結果、僕は半分日本人どころか、人でさえなくなりつつある」
 涼子は男の言葉を茫然と聞いた。男は山本に向かって言いながら、涼子に言い聞かせている。青臭い言葉だが、沁みた。
 自分以外の何かになろうとするな。
 男でも女でもなく、涼子であれ。』

 人という字が二人が寄り添うことを表しているように、人は自分ひとりで生きてゆくことはできません。衣食住どんな些細なことであっても、自分ひとりで完結できることなどほとんどありません。物を使えば、それを作った人をはじめとしていろいろな人の手を経て、またそれにかかわってきた人の行為を受けて、今現在、その物は自分の手にあるのです。日常においては、他のためということを意識することはほとんどないでしょうが、自分の行為が他を助け、また、同じように自分も他に助けられながら生きています。
 私たちが他に対して何かをしてあげようとするとき、その心は何に裏づけされているのでしょうか。無償の行為、有償の行為どちらもあるでしょうが、そこには、仲間という意識があるのではないでしょうか。俗に同じ釜の飯を食うと言いますが、自分との共通点を見つけてそれを強調することでその意識はさらに強くなっていきます。そして、人はさらにその共同体意識を強くする方法を見つけました。それは、共通の仲間はずれ(敵)を創ることなのです。
 共通点という本来無価値なもの(単なる状態として存在すること)を、共同体の中にいることで受けられる利益とすりかえて、それ自体に価値があるものと思い込んでしまう。共通点を持たないこと自体が、共通点を持たない人の存在そのものを否定し価値のないものあるいは、より積極的に除外されるべきものと考えるのです。区別(共通点を持たない)が差別(区別を排他的要素する)になってゆくのです。
 差別は、共同体の意識を高めるためのスケープゴートのような役割を果たしています。それを煽る人たちは、そのことで共同体の純化という刷りかえられた価値観を楯にして、共同体の中で自分の存在を確認して安心感を得、また同時に有利な地位・利益を得ているのです。
 全宇宙探しても、自分は自分一人だけなのです。人は一人ひとり違ってあたりまえです。ひとつの尺度だけで差別されるものではありません。


あらすじ

 天使のような容貌と肉体を持ちながら生まれつき生理がない人妻・上条涼子は、大学の後輩の大島に好意を寄せられ、湊辱されてしまう。
さらに、病院に赴いた涼子は、自らの性の驚くべき真実を知る。異常なまでにつきまとう男・大島を殺めた涼子は、彼の腹違いのヤクザの兄・山本に助けを求めた。
 二人は、山本の母の故郷である韓国へと向かう。そして、山本には恐るべき殺し屋が襲いかかった。

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