〔梅染)

それぞれの情況

五味太郎 (株)集英社(1993)

 私が、五味太郎さんのことを知ったのは十と?年前のこと、我が子に「らくがき絵本」という本を買い与えた時のことです。とにかく面白い!子供よりも大人の方が落書きしたくなるような本でした。自分の錆び付いた発想をさらけ出してくれるような、お絵かき絵本でしたね。それ以来、五味さんの絵本を見かける度によく、本屋さんで立ち読み〔ゴメンナサイ!)するようになりました。
 最近では、「大人(は、が、の)問題」という本でご存知の方も多いかと思います。
 五味太郎さんは、1945年、東京生まれ。工業デザイナーから転身された絵本作家で、独創的な作風によって子どもから大人まで幅広いファンがいます。絵本以外にもエッセイ、服飾デザイン、アニメーションビデオ製作など、さまざまな分野で活躍されています。
 この本も、本屋さんで立ち読みして巡り会った本の一つです。五味さんがTVについてどのように考えていらっしゃるのかは分かりませんが、珍しく男女の問題について書かれていたので引用してみました。


■女、そして男
 本質的に人間というやつはかなり辛い生き物だけれど、それをさらに辛くしているのはどうやら、男、女という区分をあまりにも明確に意識したところに原因があるのじやないかと思っている。生物的雌雄は、ま、とりたてて言わなくてもなんとなくはじめっから決まっちやつているのだから、意識するしないの問題ではなさそうなのだが、なぜか力をこめて男たるもの、女たるもの、とか、男において、女において、とか、あるいは男と女の関係についてだとか、男問題とか女問題とか、なにしろごちゃごちや言いすぎているような気がする。役所や民間の調査表のごときものに記入する際にも、男、女のどちらかにはっきり○をつけたりしなければならず、まことにその区分において堅いのである。だから男に○をつけちやつた奴はなにしろ男をやるより仕方なく、女は女でやるより他になくなってしまう。そして男たるもの、女たるものの実際がそれほど単純に区分できない実情において、みんななんとなく重たいんじゃないのか、そんな気がする。で、男のくせにとか、女だてらになんて訳の判らぬことを言うハメになる。
 左の端に男、右の端に女と書いてある棒グラフみたいなところに、ま、10階調ぐらいでいいと思うが印がうつてあって、だいたいぼくはこのへん、わたしはむしろ左寄り、なんて調子で記入できるような調査表を作るべきである。左の端に、あるいは右の端にバシツと○をつける人はそういない筈だよ。


 このような、小気味よいエッセイを読むと思わず「そうなんだよねぇ」と素直に頷いてしまいますね。あなたなら、10段階のどの辺りに○をつけますか?
 でも、現実には平気で(何も考えないで、あるいは疑問を持つ以前の話として)男女の一番端に○をつける人の方が大多数のような気もします。自分の心を素直に評価できるほど自分に自信のある人は、そうざらにはいないのじゃないでしょうか。たとえ自分の中の異性的な心を見つけたとしても、はっきり主張できるのかどうか。”私はたとえ少数派であっても、異端視されてもこの立場で生きて行くんだ”と覚悟が出来ないから、皆さんカムアウトできなくて悩んでいるのですからね。やはり、どちらかに属して精神的・社会的安定感の上に安住したいために、「らしさ」を演技し続けるのかもしれません。
 DVの男性達も「らしさ」に過剰に反応して、「男らしさ」に何とかついていこうとして、「男らしさ」を暴力でしか表現できないあるいは「男らしくない」自分の弱さを暴力でしか誤魔化せない人達かもしれません。
 一方、TVは、多分に自分のジェンダーをとおして「らしさ」を押し付ける社会に反発したり拒否したりしながらも、異性のジェンダーの「らしさ」を肯定して自己実現しようとするという自己矛盾を持っていますね。「らしさ」がなくなってしまったら、TVの楽しみは存在するのでしょうか。
 「らしさ」というアイデンティティーがなければ、2階調であれ、10階調であれ選択すること自体が不可能なことですね。
 わたしの場合は、いい加減な人間ですから、どこに○を付けるというよりも、“この辺からこの辺まで、と気分によってうろうろしてますのでよろしく”って、言いたいですね。やはり、求めるもの(=「らしさ」)は存在して欲しいです。「男らしさ」「女らしさ」を追及する人にも居て欲しいですが、わたしのようにどっちつかずでふらふらする人間の存在も否定しないで欲しいという、全く欲張りな人間です。

「大人問題」という本の中で五味さんは、

『かつて子どもであったことを忘れてしまった大人たち』などという表現があります。子ども心がわかるわからない、あるいは単に昔が懐かしいというようなときに、ちょっと差別化をしたくて使う人が多いようです。細かい区分がありすぎるから、そんな表現が生まれます。ずっと一本つながっていれば、そんは言い方しなくて済みます。あえて言うなら、『かつて人間であったことを忘れてしまった大人たち』というところでしょう。

と書かれていますね。
 わたしたちは言葉によって差別化(分節化)されて、その言葉の中に自分で自身を縛りつけ、そして、結果的には自分を見失っているのかも知れませんね。


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