(紅梅)

少年と少女のポルカ

藤野千夜 

ベネッセコーポレーション(1996)
講談社文庫(2000)

 この作品は、第122回芥川賞受賞作家、藤野千夜さんの初めての単行本として出版されたものです。この本には、デビュー作の「午後の時間割」もおさめられています。
 恥ずかしい話ですが、わたしは藤野さんが「夏の約束」で芥川賞を受賞されるまで、藤野さんのことは全く知りませんでした。藤野さんは、完全に女性として暮らされている”女流作家”です。新聞などの受賞報道ではじめて知ったのですが、TVの社会生活のジャンルとしてこんな生き方もあるんだと嬉しかったです。TVとして公然と暮らせる分野は本当に限られていますからね。お水系以外では、芸能界やファッションモデルの一部にはいらっしゃいますが、まだ、一般のお仕事(OLなど)では、男であること(肉体的なことはもちろん法的なことも)を隠さなければお仕事はありませんよね。

 藤野さん自身が、「性同一障害者」なのかどうか知りませんが、女性の生活規範を自分の生活スタイルにされています。少なくとも本人の外見上は、男と女の二分割の社会スタイルを肯定したうえで女性性を選ばれていて、男女の枠を超える新しい形を求めている方ではないように思えます。
 わたしが女装に求めるものも、現在の「男らしさ」「女らしさ」を根底から破壊しようとすることではありません。わたしは、身体的な形だけで一方の型を強制され、一生縛られることがたえられません。「男らしさ」を押し付けられることが嫌いですが、そこから逃れるために、私の場合は「女らしさ」を求めたのだと思います。 「男らしさ」からの逃避が、即「女らしさ」を求めることであるとは限りません。たとえて言えば、「男らしさ」と「女らしさ」は、直線上の両端で対立している反対ものではなくて、平面的な広がりの中のエリアみたいに入り組んで存在しているように思います。身に付いた「男」「女」の枠つまりエリアの区画線(わたしは区画線自体が不明確ではっきりした区画などはないと思っていますが)を越えた「第三の性」や区画自体を取り払ってしまう「性のない世界」なども考えられるのでしょうが、私の頭では想像することはできません。
 結果的に、表面上は同じ女装という手段を選んでいますが、藤野さんは、ご自身を女性性の規範の枠の中にフルタイムで自分を置く生活を選ばれ、私の場合はどっちつかずで、男と女(女もどきかな)の間を行ったり来りのパートタイムのTV生活を送っています。身体的特徴だけで、社会規範を強制され一生拘束される社会常識が早く変わってくれるといいですね。(ハンディキャップ者の社会問題とも根は同じところにあるような気がします。)

 この本は、陸上部のリュウに恋しているホモの男子高生トシヒコの目をとおし、女性になりたがっている同級生のヤマダ、電車恐怖症の幼なじみミカコとの高校生活を描いた青春学園小説です。

『トシヒコは昔から男の子のことが好きだった。物心ついた頃からずっとそうだ。けれどもトシヒコはもう自分がホモだということでは悩んではいない。今、トシヒコは十五歳、高校一年生。十三歳のとき、自分がホモだということでは悩まないと決めた。それまでは県立の大きな図書館に通ってはさんざん同性愛に関する専門書を読みあさり、そういった本に記された同性愛者の特徴と自分を比較して一喜一憂してもいたのだったが、ある日そのうちの一冊に、
「同性愛者の特徴の一つとして、同性愛関係の書物をたくさん読んでいるということが挙げられます」
 という内容の記述を見つけ、それ以来なんだか馬鹿馬鹿しくなって悩むことをやめてしまったのだった。』

 わたしは同性愛者ではありませんが、自分のアイデンティティーを求めたくて、本を読みあさったのはわたしも同じです。でも、いくら分類してみたところで”いったいそれがどうしたの?だからどうなの?”っていう感じですね。記述されていることに、どれほど自分があてはまっていたとしても、それはそれだけのことであってそれ以上の何ものでもありません。その根っこのところは何も見えてこないのです。自分を無理に分類の枠の中に押し込めて、かえって分からなくなってしまったことのほうが多かった気がします。本に書かれていることが自分の姿なのだと思い違いをしているのなら本末転倒ではないでしょうか。人は皆違います。TVだって、皆が同じではありません。自分を信じることから始めなければと思います。

 ヤマダは、トシヒコのクラスメイト。男子校に女装で通学し、夜はスナックでバイトして働いています。

『ヤマダは男のことが好きだ。
 が、ヤマダは自分のことをホモだとは思っていない。ヤマダは自分のことを間違った身体に生まれた女だと思っているから、ホモと呼ばれることは不当だと考えている。同様に女の格好をしていても女装と思われるのは不愉快だ。ヤマダは去年の秋から週一で女性ホルモンを注射しているし、夏には睾丸も摘出した。それなのに近所に住む昔馴染みの男のアメリカ人は、自分だってポニーテールみたいな頭をしているくせに、ヤマダのことを見かけると必ず「男の子にスカートは似合わないよお」と注意するような顔で言うからヤマダはアメリカ人だかクリスチャンだかは嫌いだ。十月生まれのヤマダは先月十六歳になった。
 ヤマダは毎日女の格好で登校している。今日はインディゴ・ブルーのキュロット・スカートに黒タイツ姿だ。背中まである髪を外巻きにカールさせ、両耳には光り物の小さなピアス、唇は薄い赤に染められている。学校側がそんなヤマダを野放しにしてしまったのには当然理由があった。制服の着用は一応義務づけられてはいたものの、以前それに従わず私服で通学した生徒を処分したのが勝訴だか敗訴だか係争中だか、諸説紛々で生徒たちはよく知らないが、とにかく裁判沙汰になったのに懲りて、それ以来各学年数名ずついる私服通学者を黙認するようになっていたのだった。ヤマダも当初そういったうちの一人と見做されていたのだけれど、どうやら事情が違うと学校が気づいたときにはすでに遅く、ヤマダは学校中でただ一人の女子生徒を自称して憚らないはどに度胸を据えていたので警告には貸す耳を持たなかった。
 ヤマダは教職員用の女子トイレを使っていたし、体育の着替えも一人保健室で済ませていた。それでもヤマダがスカートだけは学校に穿いて来ないのは、ヤマダが親ともども呼び出された時期にまだヤマダはスカートを穿いて来る段階に達していなかったからだ。それは夏休みが開けたばかりの頃のことで、ヤマダは半ズボンとキュロットの中間みたいに見えるボトムばかり穿いて登校していた。しかし季節が進み、ヤマダのキュロット(もはや半ズボンには全く見えない)は益々スカートに近づいた型になって来ているから、級友たちもそろそろXデイ近しかと日々様子を窺っているけれど、そうなれば学校側もいよいよ黙っていないという風説でもある。』

 もう一人の登場人物、ミカコ。電車恐怖症です。このような症状は、常識では理解できませんが、”常識”という言葉がくせものです。そして、電車恐怖症が本当に病気であるのか。TVと置き換えてみるとどうでしょうか。

『視界の外から鉄橋を渡る遠い電車の音が耳に届き、電車に乗る練習はしてるのか、と思い出したように訊くと、ミカコは、ううん全然、と言って小さく舌を出した。凄いんだよ、全身から血の気が引いて目が開けられなくて身体がぶるぶる震えるの、最初にそうなったとき一緒に乗ってた友だちの腕にしがみついて、夏だったからその子の腕、私の爪に抉られて血まみれになっちゃった、嫌でしょ、とミカコは言い、そういえばそんな話を聞くのははじめてだったと思いながら、トシヒコは、そりや凄い、と言った。』

 ある日、ヤマダは学校にスカートを穿いてきます。トシヒコはヤマダがスカートを穿いてきた理由を尋ねました。

『「自分の問題?」
「だって穿かない理由がないんだもん、よく考えてみたら。穿いて来ちゃいけない理由じゃなくて、学校で穿かない理由。だから自分の問題。わかる?」
「わかるわけない」
「あ、そう」
 ヤマダはあっさりそう言うと、金魚みたいに丸くした口から小刻みに煙を吐き出した。
「私ね、子供の頃、放っておいても自分は将来大人の女の人になれるって思ってたんだ」
「漫画の猫みたいだな」
 トシヒコは鼻を鳴らして言った。
「将来人間になれるって思ってるやつ」
 ヤマダは一拍置いてから意外そうな顔をして、クボタって少女漫画なんか読むの?似合わな−い、と笑った。
「昔、本屋の娘から借りたんだよ」
「へえ。彼女?」
「いや」
 トシヒコは首を横に振り、ヤマダは、ふうん、と口を閉じたまま言った。
「でね、そうじゃないって気づいてからが大変。身体中に違和感がまとわりついちゃって離れないの。ずっと吐きそうな感じがしているっていうか」
「そうか」
 トシヒコは足許の小石を蹴った。
「なあ、もういいぞ、そんな話」
「まあ聞いてよ。私、毎週注射打ってるじゃない。水曜日」
 と言ってヤマダは人差し指を自分の腕のつけ根辺りに当て、トシヒコは頷いた。
「最初にその注射打ったとき、凄く痛かったんだけど、先生がね、身体の中で女性ホルモンが男性ホルモンと闘ってやっつけるって、子供にでもいい聞かせるみたいに、そう言ったのね。で、それを聞いて病院を出てから、凄く驚いたんだけど、はじめて自分が世界に溶け込んで行くような気がした。わかる…‥・わけないか」
「ああ」
「スカートもたぶん同じ。べつに穿かなくてもいいけど、穿くとか穿かないとかで悩むのはいやじゃない。だってそれって男のすることでしょ」』

 この小説では、淡々とした学校生活の日常が綴られていきます。別に取り立ててドラマチックなことも何もない毎日。私たちの日常生活と同じことです。所詮、他人の心の中までは、決して入り込めません。表面は平凡に見える他の人の生活も、心のうちはやはりいろいろな悩みの中にあるのだと思います。でも、トシヒコがそうであるように、人は自分の世界からしか相手を見ることはできません。そんな行き違いへのあきらめが、平凡な日常を続けさせているのかもしれません。

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