(茜色)

大変だァ

遠藤周作 新潮文庫(1973)

 私が中学生のころに生まれた初めて読んだTS物の小説です。歳がばれてしまいますが、これを読んだのは本になる前のこと。当時、産経新聞に連載小説で載っていました。お陰さまでこの連載物を読むようになってから、新聞を読むくせができました。
 まだニューハーフという言葉などないころ(当時はブルーボーイですね)で、学生運動全盛期です。現在の状況とは比べ物になりませんが、この小説に書かれているように、このころからTVやTSの存在が社会的にも認識され始めたのかもしれません。
 当時の私は、子供なりに自分の心癖に罪悪感をもって悩んでいましたから、これがパロディ小説とはいえ世の中には、おんなじような人もいるんだと嬉しくなって毎日、新聞を心待ちにして読んでいました。

『青年は唇のあたりにうす笑いをうかべて、
「あなたが、まだ、よく、わかっていないんです」
「え?」
「ぼくらを御覧なさい」
泉はびっくりして、青年とその妹とを眺めた。
そして、その時、はじめて、今まで考えもしなかったことが頭にひらめいた。まるで太い棒で頭をガーソと叩かれたような気持だった。
「あッ」
「気がつきましたね」
 青年は微笑した。       、
「そ、そんな‥…・本当ですか」
「本当ですよ」
「じゃァ……あなたは…‥・本当は女なんですか」
「女だった、と言って下さい」
「それじゃァ、妹さんは……男ですか」
「男だったと言って下さいよ。まァ兄嫁と言っていますが、ぼくら夫婦なんです」
「つ、つまり、女だったあなたが今は男となって、男だったその方を・…‥奥さんにしているんですか」
「そういうわけです。これは手術を受けましてね。今は体も女性です。だから銀座のバアにホステスとして行っていますが、お客はもちろん、他の仲間も知りません」
「そんなホステスが、いるんですか」
「いますよ。銀座には。四、五人。みんな気づいていません」
 泉の頭には銀座の酒場の情景がうかんだ。客たちが両側のホステスの肩に手をかけて得意になっている。彼は右側のホステスを正真正銘の女の子だと思っている。だがそれが元は男だった女だとしたら‥‥‥。
「ふゥー」
 あまりのことに泉は大きな溜息をついた。』

 遠藤周作氏は”男性の女性化、女性の男性化は放射線のせいだ”という設定でこの小説を書かれています。もちろん、パロディーですけれど、現在では、環境ホルモンのことが明らかになってきています。偶然かもしれませんが、”男性の女性化、女性の男性化”を単なる社会風俗現象と捉えなかったのは、やはり大作家たるものがあると思いますね。

あらすじ

 男性の女性化、女性上位、学園紛争に象徴される当時の社会風俗を背景に、典型的な封建的亭主関白に貞淑な妻、箱入り娘の塙一家をめぐり事件が起きます。
 封建亭主の塙剛太は、娘の巴絵と交際したいという若者を鍛えようと闇鍋会を開きますが、たまたま、実験室から逃げてきた鶏を捕まえてこの闇鍋に入れて食べてしまいます。ところが、この鶏、放射線(プラターズ線)を浴びて性転換した鶏で、これを食べた者も性転換してしまうというのです。
 男尊女卑の関白亭主が女性化し、娘の巴絵は男性化、友達の男子学生も女性化してゆきます。一方、娘時代の同級生にホストクラブに誘われた妻の静枝は不倫に目覚めてしまいます。
 塙一家の行く末ははたして……。

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あべこべ人間

遠藤周作 集英社(1982)・集英社文庫(1985)

 狐狸庵先生こと遠藤周作氏のTS物第二弾です。「大変だァ」からほぼ10年経ち、前回が社会風俗の一つとしてTSが描かれていたのに対し、今回は、完全にTSそのものをテーマに取り上げたユーモア小説になっています。
 入れ替わり物ではないFTM、MTF、ホモセクシャルがソフトなタッチでユーモアを交えて描かれています。男性が女装して妻になり、女性が男装して夫にという設定は私の好きなテーマなんですが、TS・TV小説にはたくさんありそうなパターンに思えても意外と少ないものです。
 他の小説を読んでいると想像もつきませんが、狐狸庵先生、どうも男性の女性化、女性の男性化には随分興味を持たれていたみたいです。
 このようなユーモア小説でなく真面目な?方の小説では、確か”月光のドミナ”がTSを扱っていたと思います。(今、手元にありませんのでうろ覚えですが……)

あらすじ

 岡本茂は東京でアパート暮らしの予備校生。松浦春江は高校を卒業して一旦は地元平戸で就職しますが、好きな茂のことを忘れられずに上京します。茂のアパートを訪れた春江は、茂が従妹と同棲していると聞かされショックを受けます。再び茂のアパートを訪ねた春江は、部屋の中から女の声で喫茶店で待つように言われ、てっきり茂と同棲している従妹だと思って喫茶店で待っていると……

『 隅の席で春江は茂の従妹が姿をあらわすのを待っていた。二、三人の客が入ってきたが、いずれも男だった。五分たった。十分たった。そして十五分ぐらい経過した時、すこし体の大きめの女性がうつむきかげんにガラス戸を押して入ってくると、こちらに背をむけて椅子に腰かけた。
(茂さんの従妹かしら)
 春江はそう思ったが、しかし背中しかみえないので、どんな顔かわからない。
 伝票を持って立ちあがった。そしてその女性のそばを通り抜けて、カウンターで伝票をさし出しながら振りかえった。
 眼と眠が合った。春江はもちろんのこと、相手の顔にも驚愕が稲妻のように走った。
「まァ」
 店の客たちがびっくりしてこちらを注目するほど、春江は鋭い叫び声をあげた。眼前にいるのは茂の従妹ではなかった。まぎれもない、岡本茂その人だった。岡本茂が化粧して、女の服を着て、カツラをかぶって坐っていた。彼は春江がびっくりするはど妖艶だった。
「なして、そぎゃん恰好ば……」
 春江の声に茂はあわてて立ちあがり、
「出よう」
 彼女はーいや、彼は自分の伝票を春江の伝票の上にかさね、千円札を放りだすと、つり銭も受けとらず逃げるように外へ出た。そして春江をほったらかしたまま、走ってきたタクシーに急いで乗り込んだ。
「茂さん、待って」
 と春江はむなしく声をあげた。』

 茂はアメリカ帰りの美容師高野光とつき合い、女装するようになっていたのです。
 一方、茂のことを忘れられない春江は、東京でお手伝いさんとして働くようになりますが、その家の主、女性評論家兵頭啓子によってしだいに異性装について啓蒙されていき、茂のことを理解するようになってゆきます。
 茂と再開した春江は、茂を受け入れようと高野の指導で、お互いに異性装で生活する訓練を受けるようになっていきます。

『「いいかい。今日からはできるだけ男になった気持で生活してごらん。自分は今、女じゃない、男だったらと思うんだよ」
春江はそんな高野の要求に抵抗を感じた。しかしはじめは面白がって茂と一緒にやっていたこの遊びが少しずつ春江のなかにも特別な感覚を植えつけてきた。
「どうだい。女になりきった茂と男になった春江ちゃんが二人っきりで一時間をすごしたら……」
何回目かの日曜日、二人をそれぞれ「女」に変え「男」にした高野は満足そうに自分の作品をながめていたが、急に煙草を灰皿にもみ消してプイと立ちあがった。
「私は一寸、そのへんを一まわりしてくるよ」
 彼はそのまま部屋から姿を消した。あきらかに茂と春江とを二人きりで部屋に残してどう
いう反応が起きるかを見るつもりだった。
 高野の姿が見えなくなると、春江は男装した自分が急に猛烈に恥ずかしくなった。
「うち、着がえようかしらん」
 と彼女がひとりごとのように言うと、茂は泣きそうな顔をして、
「いけないわ、わたしたち、このままで一時間をすごすのよ、あなたは男、わたしは女で……」
 と首をふった。
 その女言葉と茂がつくった女っぽい仕草と声いや、それよりも窓から流れこむ午後の陽光と、アパート全体を包んでいるシーソとした静かさとが春江に突然、倒錯した感覚を与えた。
 そして彼女ほ芝居ではなく、鏡にうつった実少年の姿にまったく自分を一致させて、
「そうだな」
 と答えた。
「コーヒーでもいれましょうか」
 と茂が女っぽくたずねた。
「うん」
茂がアパートの部屋についているガス台に火をつけ、コーヒー・ポットをその上にのせ、コーヒー茶碗を二つとり出している間も、春江は手伝おうという気持にはまったくならなかった。
いや、むしろ、そういうことほ女の茂がやることで、男の自分はコーヒーができるのを平然と待っていていいという気持が、自然に、素直に胸の底から湧いてきていたのである。 コーヒーの香りがぷんと部屋にひろがった。
「お砂糖は?」
「ああ、二つ、入れてくれ」
 と春江は答えたが、茂は、
「はい」とうなずいて言われた通りにした。それはおかしくも、妙でもなかった。
 コーヒーを飲みながら、二人はしばらく黙っていた。春江が茶碗を置いた時、スプーンが落ちて畳を少し汚した。ティッシュペーパーをつかんだ茂はいそいそとそのしみをぬぐった。
 女装はしていても、掌の大きさや厚みはかくせなかった。それはやっばり男の手だった。
 その手を見た瞬間、春江はあのフェリーポートで自分にチューインガムをくれた時の茂の手を思い出した。あの手が今、ブラウスから出て畳を拭いている……。
 フェリーボート。セーラー服を着た自分。白いワイシャツに制服のズボンをはいた茂。 春江は夢からさめたもののように現実にひき戻された。彼女は男ではなく女だった。茂は女ではなく男だった。その瞬間、何とも言えぬ白けた気持がまるで悪寒のように背中をはしった。』

 高野は茂を「男でも女でもないミックス・セックスのモデル」として売り出すことにし、密かに開発された性転換ホルモンを茂に注射します。注射が効いて完全に女性になった茂ですが、次に男性に戻るための注射を打つと、男性には戻れず体毛だけが生えてきて毛深い女性になってしまいます。薬が未完成で、茂は男に戻れなくなってしまいました。女性の姿ならともかく、だまされて中途半端な身体にされた茂の復讐が始まります……。

(内容は、これから読む人のお楽しみ!)

 茂の復讐が終わって……。

『「じや、アンプルはまだ残っているんだな」
「いいえ、最後の一本ばこんわたしの体にうってもらいました」
 と春江は胸をはって答えた。
「わたしは男になります。茂さんが女なら、その方がよかと思うたとです」
 その間、茂はほとんど眼を伏せて何も言わなかった。
「わたしたちアベコベになったばって、どっちっちゃかまいません。若かっせんもう一度、
人生ばやりなおせますもん」
 杉田は二人の問に何が起ったかは知ることができなかった。しかし、二人の間に何かが起ったとは信ずることができた。
「そうか、やりなおすのか」
「はい」
「それじゃ、みつからないうちにここを早く出るといい」
 三人はそのまま病院を出た。夜、日比谷の通りはあまり人影はない。
「ここで失礼します」
「さようなら」
若い二人は肩をならべ、杉田とは反対の方向に歩きだした。ふりかえった杉田の眼に、むしろ茂をリードしているような春江の姿がうつった。二人は手をつないでいた。』

『「もう平泉たいね」
 あみ棚の荷物をとるのは女の茂である。そして、それを持つのも女の茂である。
 平泉の駅にはチリソ、チリソと風鈴がなっていた。ここは南部風鈴の産地でもあるのだ。
 観光客が列をなしておりる。有名な中等寺にみな行くらしい。
春江と茂とは、だから高館のほうに先に足をむけることにした。
(わたしたちの新婚旅行…‥・)
 春江は倖せだった。女子高校生の頃に新婚旅行のことを考えるとういういしい新妻の自分の姿がまぷたにあつっぼく浮んだが、現実にはそうではなかった。自分は新妻ではなく…‥・夫なのだ。
 夫である以上、女の茂に、
「おい」
 と少しは威張ってみせるべきだろうに、春江にはどうしてもそんな男らしい言葉が口から出なかった。照れくさく、恥ずかしく、やっばり、
「ねえ」
 と言ってしまうのだ。』

 まだ、小説は続きますが、後はご自分でお読み下さいね。

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