【鳶色(とびいろ)】

性転換(53歳で女性になった大学教授)

Deirdre N. McCloskey 文藝春秋(文春文庫2001.5.10)

 53歳で妻子もいる経済学教授が男から女へ性転換するまでの実話です。
 著者は、かつての名前をドナルド、現在はディアドラ・N・マクロスキーといい、女性となったいまも大学で教鞭をとっています。
 マクロスキー教授は少年時代から女装趣味があり、結婚して子供ができてからも女装を続けていたが、本人はあくまで趣味にすぎないと考えていました。ところが、50歳を過ぎ、子供が大学に入って家を出たあと、インターネットの世界からどっぷり女装趣味にのめりこんでしまいます。それまでは家の中だけでこっそりやっていたのに、女装仲間と外出しはじめ、もっと女らしくなるための方法を探りはじめる。そんなある日、突然、本当は女になりたかったのだと気づきます。
 それからは、がむしゃらともいえそうなエネルギーで、女性になるための「闘い」にとりくみ、家族と喧嘩別れをしたり、精神病院に強制入院させられそうになったりとさまざまな障害を乗り越えて、ついに「なりたかった自分」を手に入れました。
 性転換は 「アイデンティティ」が問題であり、つまり、「自分は何者か」という問題です。 彼は、自分のアイデンティティの決定については、それを性同一性障害という「病気」として捉えるのではなく、みずからの自由意志によってなすべきだと考えています。自分のあるべき性別を決めるのは、精神科医でも国家権力でもなく、また世間の目でもなく、あくまで自分自身だ、と。

 男らしさや女らしさは心であれ肉体であれ、どこか内面の深いところに根づいているものだと考えたくなるのも自然なことだ。しかし、ある意味で性差とはきわめて表面的なものともいえる。それは一種のパフォーマンスであり、他者を観察しながら習得していかなければいけない。人は仮面をつけて生きている。
 遺伝か、環挽か? その筈えはわからない。女らしさや男らしさは毎日の暮らしの中でさまぎまに表現される。だが、それらしく行動するには、心の底からの感情がともなわなければいけない。オレンジになるには、オレンジの気特になること。1990年代の女性になるには、1990年代の女性らしい感情をもつこと。

 性別とは何によって規定されるのでしょうか。生物学的な性差も男/女の単純な二分法だけではすまなくなっていますし、文化によって規定される性的役割分担となると、さらに変化に富んだものとなります。
 しかも医療技術の進歩により、性別を変えること(身体的外見を変えること)が可能になっています。技術的に可能となれば、モラルの問題はさておき、いま現在の自分の幸せを求めて性別を変えたいと思う人が出てくるのも当然のなりゆきですし、その流れはもはや止められないところまできています。
 ごく普通の人が、理性的な判断のもとで、自分の自由意志によって、なるべく少ない負担とリスクで性の境界を越えることが当たり前とされる時代になりつつあります。
 往々にして、人は自分に理解できないことを気味が悪いと感じ、気味が悪いと感じたものを排除しょうとしがちです。たとえ奇妙な話だと思っても、せめて、とりあえず偏見なしに相手の話に耳を傾けられるようになれば、この世界はもう少し暮らしやすい場所になるでしょう。

 なぜディアドラは女の仲間に入ったのか? この間いは意味をなさない。なぜなら、人間の本質について、「なぜ」とは問えないからだ。なぜ、休暇をオーストラリアではなくインドネシアで過ごすのかと訊かれたら「インドネシア料理が好きだから」とかなんとか納得できそうな理由をあげられるだろう。だが、その理由が納得できるのも、その人らしいからである。では、その人らしさとはいったいなにか? オランダ人であれば、理由などなしにブローチェが好きなのだ。なぜ性の境界を越えたのかという質問は、なぜ中西部出身なのか、なぜ思慮深いのか、なぜ心が広いのかと訊くようなものである。ただ、そうだからと答えるしかない。
 その人らしさとは、天性のものであると同時に、後天的に作られるものともいえる。ロマン主義的にいえば、人は生まれながらに本質が決まっていて、それを表現するだけということになる。隠されていた本物のディアドラが出現した? いや、「本物」という言葉はふさわしくない。人は自分を作りかえることができる。それが自由な人間というものだ。ある日、ディアドラはオランダの女友達に、男女の歩き方の違いを説明しようと立ち上がり、男っぼく歩いて見せようとした。ところが、うまくできなかった。いかにもわざとらしく、誇張しているようにしか見えない。女らしく歩く練習を一年も重ねたせいで、男の自然な歩き方を忘れてしまったのだ。
 心の動きも変わってきた。かっとして幼稚なふるまいをする、やたらと面子にこだわる、力の駆け引きを楽しむ、謝ることが苦手、思いやりを態度で示せないざそんな男っぽい態度が理解しがたくなった。昔住んだ家の記憶が消えていくように、男らしさを忘れつつあった。
 その調子!
 努力して自分を女に作りかえていったのだ。しかし、人はみんなそうしている。男のときもそうだった。女らしさを抑え、スポーツに興味をもち、ガールフレンドを作り、議論好きのタフな男へと自分を形作った。ドナルドを女っぽいと思う人はほとんどいなかったらしく、何度も意外だといわれた。
「こんなことになるとは、夢にも思わなかったよ」
 よほど演技がうまかったのだろう。

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