(利休鼠)

セラフィタ

世界幻想文学大系より

H・ド・バルザック (株)国書刊行会(1976)

(あらすじ)

 スウェーデンボリの従弟セラフィトゥス男爵の妻が、天使霊セラフィタを身ごもったのは、一七八三年のことだった。セラフィタは人間の肉体を持ち、ノルウェーで生まれ育ったが、美少年とも美少女とも見られる容姿で、牧師の娘ミンナはセラフィタを男性と思い、野心家の青年ウィルフリッドはセラフィタを女性と思って愛する。しかしセラフィタは二人の愛をしりぞけ、十九世紀の最初の夏のある日、地上の肉体を捨てて昇天する。


 男性から見れば、美しい女性。女性から見れば、素敵な青年に見えるというセラフィタ。セラフィタ、両性具有の代名詞のようなこの名前から想像して、トランスなものを求めようとしてこの本を手に取る人にとっては、この物語は全くの外れです。この物語では、スウェーデンボリ(スウェーデンの預言者)を通してバルザックの宗教観が綴られていきます。私にとってセラフィタは、これが最初に読んだバルザックの本で、しかも斜め読み(正直に言って、バルザックの言葉(=記号)の海に溺れてしまいました。)もいいところなので、バルザックのファンの方から見れば、いい加減なことを勝手に書くなと怒られてしまいそうですが、面の皮が厚いうえに写真の通りの厚化粧ですのでご容赦ください。

 この本を読んで、久しぶりに弁証法という言葉を思い出しました。弁証法、これも誤解を恐れず簡単に言えば、対立する二つのもののいいとこ取りをして別の次元に昇華しようということで、例えて言えば、陽子の女装のようなものです。普段は男の立場で受益して、女装して女性の特権まで手に入れたいという欲張りな考え方のことです。
 バルザックは、この物語の中でスウェーデンボリの思想を借りて弁証法的にあらゆるものの結合を試みています。セラフィタの存在自体も当然その類証なのでしょう。この物語の中で、セラフィタ自身の肉体的性別は明かされていません。無性と言いたいところですが、象徴的なことは、常にセラフィタが見るものの性と相対する性として認知されていることです。仏教では、観世音菩薩が連想されますが、観世音菩薩と違って見る者の目が性的に昇華されていない(もちろん観音様を抱いた説話もありますが)のですね。女性が天使を見ると男性性を意識するものなんでしょうかね?
 TVは、誰に対しても、纏った衣服の性別で認知されることを望みますから、セラフィタのような存在を理想とする人っていないかもしれませんね。両性具有のインターセクシャルの方でも、自己の性的アイデンティティをどちらかに求めることで精いっぱいじゃないでしょうか。
 両性具有の代名詞のように言われるセラフィタは、トランスなものというよりは、見るものの愛欲を映す鏡であるだけなのかもしれません。突き詰めれば、人間の識(認識・仏教的に言えば五蘊)の象徴であるのかもしれません。人間は、対象物を見るとき〔認識するとき)その実体を見ているのだと信じていますが、心の中に映るものは各自の経験(因縁・煩悩障)によって選別し、加工して見ているのです。人間に与えられた感覚器も限られていますが、その感覚器がとらえた実体は、さらに歪められてしまうのです。
 セラフィタが地上の愛を拒否して天上に上っていくように、セラフィタは自己の投影だけに捕まえることの出来ないものなのではないでしょうか。このような性形態は、この世のものではないというのが正解なのでしょうね。

 結婚に関するスウェーデンボリの説は次のような僅かな言葉に要約されます。 〈主は男の生命の美しさと優しさを取って、女に移された。男は女の生命の美しさと優しさに結びつかぬ時、厳しく、悲しげで、猛々しい。それらに結びつく時、喜ばしげで、完全である〉《天使》たちは、常に、美の最も完全な状態にあります。 《天使》たちの結婚は、不思議な儀式によって、祝福されます。この結婚からは子供は生れませんが、男は悟性を与え、女は意志を与えたのです。二人はこの世でただ一つの存在、ただ一つの肉になります。それから、二人は天上の形をまとって天界に向うのです。この世の自然の状態では、両性相互の欲情は《結果》であって、疲労と嫌悪をもたらします。しかし、天上の形をとって同じ《霊》となった夫婦は自分自身のうちに欲情の尽きることのない原因を見出すのです。

 究極はやはり物質と霊、やはり創造主の存在に行き着くのですが、いくら抽象的な言葉を積み重ねても、形而上学的な言葉の限界を感じます。(私が、溺れているだけかもしれませんが……)でも、こんなわたしにも共感できたところがありましたので、引用しておきます。女性の声で語らせているところが憎いですね。

 「信ずるとは」と、セラフィタは《女》の声で語り始めた。それまでは《男》の声で語っていたのだ。
 「信ずるとは感ずることです。神を信ずるためには、神を感じなければなりません。この感覚は急には身につきません。ちょうど偉大な人たちが、軍人とか芸術家とか学者たちが、物事を知り、作り出し、行動する人たちが、皆、持っていて、人々を感心させる、あの驚くべき力が急には身につかないのと同じです。思想はあなた万が物事の問に知覚する関係の束で、習うことのできる知的な言語ですね。《信仰》も天上の真理の束で、やはり一つの言語ですが、思想が本能よりも秀れているように、それは思想よりも秀れているのです。この言語も習うことができます。……」

 どなたか私のように頭の悪い小娘にも解る邦訳を書いてくださらないでしょうか。

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