(白緑[びゃくろく])

弓形の月(ゆみなりのつき)

泡坂妻夫 双葉社(1994)

 真吹から「仮面(ペルソナ)」という言葉を教わったことがある.
 社会生活で、人はいつも自分という一つだけの仮面を着けていなければならない。仮面によって重役は重役らしく教師は教師らしく、父親は父親らしく、その人の役割にふさわしい人格が現れて、社会は円滑に動いている。もし、この仮面を不用意に他のものと取替えれば、相手はそれを怪しく思い、付き合いに支障が生じてしまう。しかし、その定めに反することは、それ自体も魅力的である。五月は一つにはいろいろに仮面を替える愉悦のために劇団入りをしたのだが、情事にも似た密かな戯れは化粧をしているわずかな間だけ。日常の生活にまでそれを持ち込むことは未経験で、今回真吹はそれを要求しているのである。
 仮面を替えたまま舞台という特殊な空間を出ることに不安がなくはないが、危険と思うとかえってそれがほの暗い魅惑となっていく。
 五月の思考は舵を取られた船のように、不安を含めた微酔(びすい)の中をさ迷いはじめ、酔いとは異質な気の高ぶりも起こって、明日着て行く着物を取り出してみた。真吹のところから持って来た一揃いである。
 畳紙(たとう)を開くと、香料にかすかな樟脳(しようのう)の匂いを混えた香りが漂いはじめる。着物は白大島の単衣(しろおおしまひとえ)で、空色の地に大ぶりの白藍(しらあい)の牡丹が全体に散らされている。帯は薄い紫の地に艶消しの唐草を織り出した袋帯。帯止めは紫の平打ちだった。バッグは白地の印伝革(いんでんがわ)、櫛は麻の葉の透かし彫のある半月型の黄楊(つげ)。
 五月はセーターを脱ぎ捨てて、着物に袖を通した。ドレッサーの前に立つと、着物を羽織っただけで、仮面を取替えたような気持になる。
 髪形を変えた方がよさそうだった。髪を後ろに撫で付け、ふっくらと束ねてみたい。その方が着付けよりも、手間が掛かりそうである。


(ものがたり)
 小川五月は、劇団「孔雀座」の演出家の真吹三津雄から自分の妻を演じるように命じられた。これは、次の芝居の主役を決めるためのテストだという。真吹夫人を演じる五月は、大島のきものを着て真吹とともに富士のふもとの山荘に着いた。

 この山荘「桂華荘」は、真吹の父が建てたものだが、劇団が経営不振になって手放したものだった。その桂華荘も、今度改築してホテルになるという。この集まりは、現在の山荘の持ち主、群岡高男の妻、暎子(真吹のおさななじみ)の考えた趣向だという。五月のほんとうの素性を知らないのは、群岡高男と娘の芙二子の二人だけなのだが……。


 長い廊下を歩き、短かい渡り廊下を過ぎ、階段をほぽ一階分降りたところに浴場があった。
 脱衣場に入ると、暎子は五月の手を握った。
「群岡さんに見付けられてしまったわ」
と、五月が言った。暎子は手の動きを止めた。
「全部、喋らされたの?」
「いいえ」
「おふりかわりは?」
「それなら、大丈夫。群岡さんは今度二人だけで会いたい、と言っていましたから」
「じゃ、露見したのは真吹さんの奥さんじゃない、それだけね」
「はい」
「それなら上出来よ。試験は満点とはいかなくても、九十点はあげましょう」
「……これから、どうなるんですか」
「わたしの言う通りにして。まず、弁天娘を元の姿にしましょう」
 咲子はその作業を楽しむように、丁寧に五月の帯を解き、着物を脱がせ長襦袢を剥ぎ、最後に湯巻きを奪った。五月は女性のように狼狽し、前に手を当てた。
「鏡をご覧なさい。ふしぎに美しいわ」
「嫌よ。恥しいわ」
「その声もいいわ。ずっとその調子でいてね」
「……ちょっと、普通じゃありませんね」
「そう、あなたのお芝居に、加わりたいわけ。さあ、あなたの番よ」
 五月が着物を脱がせると、暎子は照明のスイッチを入れて外に出た。岩で囲まれた湯壷の横にある雪見燈籠の中の電気の明りは、暎子の隅隅が見えるほど明るくはなかった。


 この小説の中には、物語の伏線として数々のアンドロジイナス(両性具有)に関する伝承や風俗が紹介されていきます。「とりかへばや物語」の簡単な紹介もあったりして、そういった面でも興味の湧く物語です。


「ところが、元元、古代の日本では女性の出産は豊穣のシンボル、その女性は山の神でありお神さんだったのです。従って、修験道も仏教の影響を受けているものの、無下に女性を宗教の外に排斥するようなことはしませんでした」
「江戸時代は女の行者が多くいたらしいですね」
「ええ、不二道では特にそれが顕著だったようです。従って、女性の信者も多い。期間は限られていましたが、女性の信者も富士登山ができたのです」
「女性の月経や出産を穢れだとして特別扱いしなかったのですね」
「子孫繁栄の大切な自然の摂理だと理解していました」
「つまり、男女平等の考えなのですね」
と、咲子が言った。石黒はうなずいて、
「今考えると、大変に進歩的な教えです。でも、当時としては女人禁制、女人結界の思想はかなり強固でしたから、男女平等、男女同一を説くとき不二道ではふしぎな男女間係を考えだしました。それ
を<おふりかわり>と言います」
 石黒は街子におふりかわりを披露してみなさいと言った。
「今、ここでですか」
 と、街子は少し迷惑そうだったが、これは「おうた」という和讃(わさん)ですと言い、姿勢を正して朗詠しはじめた。

  ふりかわるおしえの道がなかりせば
  みろくのみよをたがしらん
  女が男のふりをして
  前髪とってなかをすり
  男のように髪ゆうて
  はなし
  咄じまんでかごをかき
  こんのももひきこんきゃはん
  わりふんどしでしりからげ
  遠人からなるおんかたは
  はかまをはいて一腰で
  男がふり袖きこなして
  姿はほっそり柳ごし
  女はそれにひきかえて
  むねをたくってあけひろげ
  じばんのえりまでぬき出して
  男まさりの口上で
  はずかしそうはさらになし
  おんながだんなになりました
  是は全くふりかわり
  双方これをしるならば
  むつまじくになりまする

「おうた」はまだ長く続きそうだったが、街子はそこで言葉を切り、
「このぐらいで勘弁して下さい」
と、言った。
「とても幻想的なおうたですね。歌舞伎の女方(おんながた)の所作が目に浮びます」
 というのが暎子の感想だった。そういえば歌舞伎では男と女の「ふりかわり」が日常のように行なわれている。『弁天小僧』になると、可憐な武家屋敷の娘が、彫物を入れた男子に変わっていく一部始終が華麗な見せ場として演じられる。
「不二道は元元富士信仰から起こったのですが、二つに見えても本当は一つであること、不二にはそうした意味が籠められているのです」
 と、石黒が言った。その後で石黒は「児手柏(このてがしわ)の双面(ふたおもて)」というたとえを付け加えたが、誰もその意味が判らなかった。
 児手柏は漢名を側柏(そくはく)といい、檜に似た常緑潅木で雌雄同株。小形の鱗状の葉に特徴があって、裏表の区別がつかない。というところから、識別のできない状態を児手柏の双面というのだそうである。漢方では児手柏の葉を止血薬、果実を滋養強壮にするという。
 真吹が言った。
「世界のいろいろな民族が、それぞれの宇宙創成神話を持っていますが、そのはじめは一つの卵のようなものだった、という伝説が多いですね。その始原的なものから神神や万物が分化されて、ですから、はじめは人間には男女の別がなく、それが何かの理由で男と女に引き別けられた、というような」
 石黒は懇談の間にも盃を重ね、意外な健啖ぶりも見せ、口に何もないときは多弁だった。
「古代エジプトの神話ですと、大空の女神はヌートといい、大地の神はゲブといいます。はじめ、その二種の神は、しつかり抱き合っていたんですが、大気の神シューが、二人の間に割り込んできて、天と空とを切り離し、ヌートを両手で高く差し上げてしまったんです」
「不二道で言うと、それが陰陽のはじまりですね」
 と、街子が言った。
「はじめ天地が一つだったという話は、象徴的ですね。中国での陰陽は元は易学でいう、相反する性質を持つ気です。陽は日、春、南、昼、男。陰は月、秋、北、夜、女。この二つの気が合わさると万物が創成し、人は完全な姿になる」
 陽焼けした街子と違い、暎子はほんのりと酔いを頬に染めて、
「そういえば、観音様は男でも女でもありませんね。それが、人間の理想の姿なんでしょう」
「観音様というと、親鸞が見た有名な夢があります」
 と、石黒が言った。
「その時代、僧は女性との接触を禁じられていて、この戒を犯すと女犯僧として厳しい罰を受けなければなりませんでした。親鸞はそのことで真剣に悩んでいました」
「自分の欲望を断つことができなかったのですね。偉い方ですから、勿論、人に隠れて、ということもできない」
 と、暎子が言った。石黒はうなずいて、
「そのとき、観音菩薩が夢枕に立ったのです。そして、こうおっしゃいました。たとえ親鸞が女犯すとも、我れが玉女の身となって犯されましょう。一生の間仏を飾りなさい。そうすれば極楽に導きましょう」
 「人を救うなら、観音様は女にも変身するのですか」
 「全能な神は、男女ともに両全で、どららの陰陽も併有しているという考えです。人というものはとかく、完全なものへ憧れるものですね。一般的に言っても、人は夫妻が一体となって、はじめて一人前だという考えが支配しています」


 真吹は改めて五月の顔を見て、
「弟君尚侍の役を、君にと思っていたんだ。桂華荘へ連れて行った意味もこれで判ったろう。君は試験に合格した。君はこの役がうまく演じられると思う」
「……頑張ります」
「ただし、試験は満点とはいえなかった。それは忘れないことだね」
「……自己陶酔してしまったことですか」
「その通り。自己陶酔が強すぎると、舞台では独りよがりになってしまう」
「……ぽくは特殊なんでしょうか」
「いや、違う。これは近代の分析心理学で言われていることだが、男性の心の奥底には女性が存在し、女性の心の奥底には男性が存在する。平安時代の貴族はそんな知識を持っていなかったけれど内なる異性に忠実だった。男でもおおらかに化粧もしたし、紀貫之は女文字で日記を書いている。だから『とりかえばや物語』のような小説も書かれてもおかしくはないと思うね」
「でも、その貴族は野性的な武士に滅ぼされてしまうんでしょう」
「そうなんだ。だから、男性が内なる女性を認めるというのは、大変に危険なことでもあるね。戦時中なら、論外なくそうした考えはタブウだ。男はあくまで勇敢、大勢の強い兵隊がいなければ国は滅亡してしまう」
「そのタプウは魅力的ですね。どうしてでしょう」
「世界のはじまりが渾沌だったからだろうね」
「民族神話では、はじめてこの世に現れた人間は、男でも女でもなかった、というんですね」
「そう。我我はそのときの記憶をどこかに持っていて、故郷が忘られないように、心のどこかではそのころを憧れているらしい」
「先生が『とりかえばや物語』に目を付けられたのは、単にその世界が特殊だという意味だけではなく、とても哲学的なんですね」
 五月は自分でもぎこちない言い方だと思ったが、真吹もおかしそうにうなずいて、
「世界のはじまりは渾沌だった。人はそれに秩序を与えなければならなかった。まず、天と地を分ける。太陽と月、光と陰、昼と夜、男と女、親と子、善と悪、敵と味方。中国の陰陽の考え方だね。その秩序はどんどん細分化されていき、少しでもそれが乱れると社会が成り立たないまでになった」
「芝居で言うと、役者と観客、主役と脇役ですね」
「数学でも同じだね。人ははじめ自然数を作った。この自然数が世の中を秩序立てるのに極めて有効だった。ところが、社会が複雑になるにつれて、自然数だけではことが収まらなくなる。元元、宇宙の渾沌はそう容易く整理されるようなものじゃなかったんだね。たとえば円周率などは整数では表せない数字だ。それは端数を切り捨てたりしてなんとか使いこなしてきたが、虚数や無限数といった概念が生じると、ほとんど難解だね。数学者の中には無限数をタブウにした人もいる。無限数を突っ付くと、恐しい怪獣が現れ、この世を破壊してしまう、という」
 すると、男性でいながら、内なる女性が強く意識にあがってくるような人は、自然数で量ることはできないが、否定すべき数でもない、ということなのだろう。

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