[浅葱色]

椿山課長の七日間

浅田次郎 朝日新聞社(2002.10)

 椿山和昭は、渋谷の有名デパートに勤める46才の婦人服売場担当課長。仕事で接待中に脳溢血で死んでしまった。あの世への途中、中陰役所で生前の行いを判定され、身に覚えの無い邪淫の罪を晴らそうと現世に戻ってくるが、与えられた体は、アブラギッシュな中年男性の自分とは似ても似つかぬ妙齢の美女のものだった。この世で与えられた時間は、初七日までの残り3日間しかなかった。同じ日に亡くなったやくざの親分と小学生の男の子が絡んで、お話しが進んでいきます。

 ずいぶん以前のswitchという映画を思いだす方もいらっしゃるかもしれませんが、内容はずいぶん違います。美女の心の中に宿る中年男性の心。トランスのギャップ感を楽しみたいと期待して読まれる方には、はっきりいってハズレの小説です。構成上、女性に変身することで話はうまく展開していくのですが、椿山課長が、女性の体をやけにすんなりと受け入れてしまうのはちょっと期待ハズレでした。でも、そんなことを割り引いてもはるかなに素敵な小説です。泣けちゃいます。とっても後味の良い小説です。

 椿山課長を何故女性に変身させたのか。うらやましいことに、口から出る言葉は自然に女言葉になり、おやじの意志は、外見上、全てその姿に相応しい女性らしい言葉や仕草に翻訳されてしまいます。トランスについては、「人格分類表に基づき、最も対照的な姿に変えた」という設定になっています。姿形は対照的ですが宿っているメンタリティは同じですから、対称と言ってもよいかもしれませんね。

 わたしも、このHPのインデックスのページに、

「万世の功名も生前一杯の酒にはしかず
 もし、この時に楽しまずば
 老いて命終わる日、悔ゆともいかで及ぶべき」

 なんて、書いていますが、「あなたは、3日後に死にます。最後の3日間だけ貴男(または貴女)の望み通り、女性(または男性)の体にしてあげます」といわれたら、あなたなら何をしますか?意外と自分のトランス願望の正体が見えてくるかも知れませんね。

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「キャーッ!」
 間近に女の悲鳴が聞こえて、椿山は振り返った。室内の闇に目を凝らす。
 落ちつけ。落ちつけ。自分の身にいま何が起こっているかを冷静に考えろ。
「誰か、いるの?」
 不安げな女の声がした。自分が言おうとしたことを、闇の中の女が言った。
「落ちついて。騒がないで。おねがい」
 そうじゃない。これは自分の声だ。
 キャー、と再び金切り声を上げ、椿山は長い髪を両手で掴みながらバスルームに駆け込んだ。灯りをつける。鏡の中に佇んでいるのは、自分とは似ても似つかぬ妙齢の美女だった。
 もはや驚くでもなく怯えるでもなく、思いもよらぬ仮の肉体を前にして、椿山はただ呆れた。
「よみがえりキット」の黒い鞄の中で、携帯電話が鳴っている。あろうことか着信音は「運命」。
「ふざけないでよっ!」
 われながらヒステリックな叫びがおぞましい。バスルームから出て「よみがえりキット」をかき回し、電話機を耳に当てた。
 担当者マヤの低い声が届いた。
「おめでとうございます。あなたは無事、現世に到着しました。ご気分はいかがですか」
「はいはい、気分は上々よ。それにしても、よくもまあこんな格好にしてくれたわね」
 自然に口から出る女言葉がいよいよおぞましい。電話の向こうで、マヤはフフッと暗い笑い方をした。
「誰が決めたわけでもありませんわ。現世人格分類表に基づき、あなたを最も対照的な姿に変えただけです。もしどうしてもお気に召さないのでしたら、チェンジは三人まで可能ですが」
「チェンジ?……いいわよ、もう。何が出てくるか考えただけでゾッとするわ」
「かしこまりました。では、メモのご用意を」
「メモ?」
「はい。仮の肉体の諸元についてお知らせしておきます。これからはその人物になりきって下さい。まず氏名は、カズヤマ・ツバキ」
「どういう字を書くの?」
「あなたの俗名をひっくり返しただけです。和山椿。年齢は39歳」
「あら、けっこう行ってるのね。もっと若く見えたけど」
「のちほどじっくりご覧下さい。近ごろのキャリアウーマンはおしなべて年齢不詳なのです。しかしよく見れば目尻にはすでに多少のシワも出ておりますし、お肌は相応にくたびれておりますわ。さ、復唱して下さい。あなたのお名前」
「……カズヤマ・ツバキ」
「オゥ・イエー。よくできました、ツバキさん」
 いいかげんな名前を口にしたとたん、ふしぎな気分になった。和山椿という女性の人格が、すんなりと胸の中に定まったのだった。
「悪くないわ。続けて」
 メモを取りながら、「椿」は言った。
「職業はフリーのスタイリスト。あなたはご在世中、デパートのファッション部門に長くいらしたということなので、そういたしましたの。もちろん、独身。何かご不満は?」
「いえ、べつに……」
「では現世人格を確定いたします。何かお困りの折は、電話機の☆印を押してコールして下さい」
 はい、と椿は素直に肯いた。
 電話を切り、細くなよやかな指先を見つめる。四十六年間慣れ親しんだ節太のごつい指とはえらいちがいである。
 手の甲に浮き出る筋は三十九歳の年齢を感じさせるが、それなりに艶かしい。尖った指先には形のよい透明な爪が伸び、いかにも家事労働とは縁遠い、独身キャリアウーマンの手という感じがする。
 死者に恐怖心はない。未来がないのだから不安もなかった。ただ、胸がときめいた。
 ルームライトをつけ、カーテンを閉める。自分は椿山和昭ではなく、和山椿なのだと言い聞かせながらロッカーを開け、全身が映る鏡の前に立つ。
 ううむ。まんざらでもない。いや、はっきり言つてタイプである。
 黒のTシャツにべージュのストレッチパンツ。背は高からず低からず、細身のわりにはバストもヒップも十分にあり、しかも年齢を感じさせぬみずみずしさである。
「スケベおやじ。なにジロジロみてるのよ」
 鏡の中の自分が不愉快そうに言った。
「でも、仕方ないっか。自分の体くらいちゃんと確かめておかなくちゃね」
 齢が若く見えるのは、濃いワイン色に染めたショートヘアのせいもある。シャープで知的な表情と良く似合っている。アクセサリーは糸のように細い金のネックレスと、プチダイヤのピアス。左手の中指にカルティエのリング。素足に高級ブランドらしき黒のサンダル。シンプルでさりげなく、一分の隙もないグッドセンスである。
「さっすがベテランのスタイリストだわ。もう、言うことなし」
 ドアチェーンをかけ、ロックを確認し、誰もいるはずのない室内を振り返る。ストレッチパンツのサイドファスナーに指をかけると、心臓が破裂しそうに高鳴った。仮の肉体とはいえ、完全なる生命が宿っているらしい
 自然としどけない内股のしぐさになってファスナーをおろし、Tシャツを脱ぐ。
「おお」と唸ったつもりが、「かわいいっ」という声になった。
 着痩せするたちなのか、下着姿の体は思いがけずたくましい。肌は白く、まことにきめ細かい。
 さて、ブラジャーはどうやって脱ぐのだろう。妻のそんなしぐさは覚えていない。左手を腰から、右手を肩ごしに回してホックを探る。
「ええと、どうするのかしら」
 赤ん坊を背負うようにすると、両手が届いた。一糸まとわぬおのれの裸身を、椿はあかず眺めた。
 何とも奇妙な感覚である。休日にはおそらくジムとエステとで、鍛え上げ磨き上げているにちがいない完成された美女の中に、ハゲデブメガネの三重苦にあえぐ中年男のメンタリティが宿っている。
 おそるおそる体のあちこちに触れてみた。しかし手は美女のものであるから、感触がメンタリティを満足させはしない。あくまで自分の手が自分の体を弄んでいるにすぎなかった。
 鏡に向かってさまざまのポーズをとり、ふしぎな視覚と触覚を楽しむ。好奇心とナルシシズムと変身願望がからみ合う、悦楽の極致という気がする。
 何の気遣いもいらず、後くされもなく、犯罪性もなければ金もかからない。
 長いことベッドの上であられもない痴態をくり拡げたあとで、椿は時を見た。
「いけない、こんなことしてる場合じゃないわ」
 いけない、いけない、と洩らす言葉にかえって欲情してまたしばらく体を弄んでから、ようやく下着をつけた。

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