杜子春傳

 私は、閻魔大王の前に立たされました。

 --今度はどんな地獄に落とされるのだろうか--

 眼は、私を曳いてきた地獄の鬼の行方をうつろに追っていました。

 --あんな惨めな貧乏暮らしには、金輪際、戻りたくない。三百万、一千万、最後には三千万の銭をもらってもだめだった。いくら金があっても一年もしたら、すぐに元の木阿弥だ。自分にほとほと愛想が尽きてしまった。仙人にさえなれば、こんな暮らしともきっとおさらばできる。
 「いかなることがあっても決してロをきいてはならぬ」という戒めさえ守り通せば、不老不死の仙人の身となれる。そういわれて、華山の雲台峯で白石三丸と酒一杯を飲み、堂内の西壁に一枚の虎皮を敷いて東向きに坐ってから、どれほどの月日が経ったのか。道士が去ると、悪鬼・夜叉・猛獣や八大地獄が現われ、ありとあらゆる責め苦を受け、果ては妻まで一寸刻みにされ、名を名のることを哀願されたが、口を開かなかった。だが、俺は、いったい何をしているのか--

 鬼は、閻魔大王に書類を渡すと、
「この者の八大地獄の刑は全て終わりました」
 と報告しました。

 --ああ、終わったのか--

 私は、ほっとして閻魔大王がゆっくりと書類を繰ってゆくのを眺めていました。
 地獄の責め苦もつらかったけれど、終わった今となっては全てが夢の中の出来事のように思えました。この身体だって、今は、傷一つ付いていないではありませんか。

 --あの、仙人の言うように、私は間違いなく夢を見ているのだ。全てが幻なんだ。だけど、こんな幻を見せて、一体何のまじないのつもりなのだろうか……。もっとも、私の命は、あの仙人に預けてしまったのだから、今更こんなことを考えても詮ないことなのだけれど……。
 だが、地獄ではいろいろな人がいたものだ。地獄の責めに涙を流して改心を誓っている者もいれば、地獄に来た因縁を他人のせいにしてさらに怨念の炎を大きくしている者、只ただ目の前の責め苦に恐怖している者、百八煩悩の全て見せてもらったようなものだ。そういえば、わたしが、仙人にお金をもらって遊び呆けていたときだってそうだった。金が無くなると掌を返したように人の心も離れていったものだった。所詮は、この世もあの世も夢物語なのか……--

 「このように陰の気が強い奴は、男に生まれさせるわけにはいかんな!宋州單父県の副長官王勸の娘がいいだろう」
 そのとき、閻魔大王の声が聞こえてきました。それは、耳に聞こえてくるのではなく、心の奥底から、わき上がってくるような意識の声でした。
 はっとして、顔を上げようとしたその刹那、私の身体は宙に浮き、天井の暗闇に吸い込まれるように上っていきました。と、上っているはずがいつの間にか、真っ逆さまに頭から落ちていき、突然、目の前に光がひろがったのです。

 霞がかかったようなやさしいひかりが私を包んでいました。
 久しく忘れていた人の手のぬくもりを身体に感じて、私は、深く息を吸い込んで吐こうとしたのですが、そのとき、仙人の言葉が浮かび、思わず息を呑み込んでしまいました。
「どんなことがあっても、声を出してはいけない」
 わたしはこのとき初めて、地獄の責め苦よりも安楽の誘惑の方が克ち難いものだと思ったものでした。
 産婆は、私の足首をもって逆さに吊ると、背中を叩きました。
「わたしの赤ちゃんはどうしたの、産声が聞こえないわ」
 心細げな女の声がしました。
「大丈夫ですよ。蘭瞳奥様、元気な女の赤ちゃんですよ。でも……」
 私は、女の手に抱かれました。やわらかな、温かい手のぬくもりがわたしの顔を、頭を撫でてゆきます。
 そして、私の顔に滴が落ちてきました。滴は頬を伝い、産着を濡らしてゆきました。

 両親は、私の声が出ないのを悲しみ、あらゆるものにすがりました。医者、薬、呪い祈祷、あらゆる事を試しました。
 赤児の身体ではあらがうことも出来ず、無理やり飲まされた薬のなかには身体に障るものもあったのでしょう。私は、体が弱くあらゆる病気を経験することになりました。時折、元気になって動こうとすると、気持ちに体がついていかず、やけどをしたり寝台から落ちたりと一日として医者や薬の世話にならない日はないくらいでした。
 でも、そんなことは八大地獄の責め苦に比べれば、どうと言うことはなかったのです。本当に辛かったのは、口をきかぬ私を心配していとおしんでくれる母・王蘭瞳のやさしさに応えられない自身の歯がゆさでした。

 自分の誕生前の記憶は、今、目の前の日常こそが幻の光景だと教えています。でも、やさしく、私の身を心配して声をかけてくれる母の言葉になんとか応えたい。この気持ちはいつしか若い母・王蘭瞳への愛に変わっていきました。しかし、この愛を完成させる肉体はもはや私には備わっていませんでした。自由のきかない赤児として、一方的に受け身の立場で、愛する女・王蘭瞳の世話を受けることは身悶えるほど恥ずかしいことでもありました。羞恥心と口をきけない歯がゆさで流す涙も、王蘭瞳の目には病の苦痛に流す涙に見えたことでしょう。私が涙を流すとき、王蘭瞳は私を抱きしめて一緒に涙を流してくれました。次第に、私はこの母・王蘭瞳に身を預けて、任せることの喜びを知るようになっていきました。

 私は、みるみるうちに成長してゆきました。そして、成長するにつれて容姿は、母・王蘭瞳にほんとうに似てきました。私は、自分のからだが、愛するものの身体に入り込んで同化していくような感覚におそわれるようになっていきました。いつもいつも母に抱きしめてもらって、そのまま母の体の中に溶け込んで一体になってしまいたい。そう考えるたびに悲しくなって、いつも涙を流してばかりいたのです。そして、涙を流している私を見ると、母は赤児の時と同じように私を抱きしめ、頭を撫でながら一緒に泣いてくれるのでした。
 親戚のものの中には、私がまったく喋らないのを訝しがり、母・王蘭瞳が甘やかしすぎているからだと言って、突然脅かしてみたり、蛇や百足を目の前にぶら下げたりして、何とか声を出させようとする者もいました。でも、そんなときは決まって母が事前に知らせてくれて、かばってくれました。おかげで、声を上げないですんだのです。

 年頃になると、周りでは、器量がよいとの評判が立ち始めました。その頃には、私も女の身体になれてきて、時折、仙人の言葉を忘れて声を上げそうになってしまうことさえもありました。人から器量が良いと言われると、自分でも自分のからだがいとおしく誇らしくさえ思えてきていました。
 そんな時、私の事を嫁に貰いたいという男が現れたのです。
 両親は、この娘は唖だから婿養子でなくてはだめだと断るのですが、男は執拗に求婚してきました。
「喋られなくても、そんなことは構わないのです。私が、絶対に幸せにしてあげましょう。お嬢さんみたいな素敵な人は、居るだけで立派な妻になれます。喋らないことも、世の中のお喋り女のいい手本になりますよ」
 立派な仲人を立てて、礼を尽くしてくる男に、父はついに、私を嫁がせることを承諾してしまったのです。

 宋州では、嫁いだ女は二度と生家に戻ることは許されませんでした。身分のある男の妻は自分の部屋から出ることすら出来ませんでした。
 嫁ぐ日の私は、綺麗にお化粧されても、流れ出る涙を止めることは出来ませんでした。母に抱いてもらえるのも、母の顔を見ることさえ今日が最後なのです。
 その日、私の部屋にやって来た母は、私の目をじっと見据えてこう言ったのです。
「杜子春、泣かなくてもいいのですよ。お前はきっとこの世の行を全うできます」
 私は、母の言葉に耳を疑った。
「驚いたでしょうね。でも、黙って私の言うことを聴きなさい。私は、あなたをここに送った仙人に仕える仙女なのです。お前を見守るために、この世に遣わされてきたのですよ。
 お前のようにまだ修行の足りないものは、まったく喋ってはいけないことになっているけれど、行を全うして次に生まれるときには、霊力を得てまた自由に喋れるようになるのです。これからは、お前は女として一人修行してゆかねばならないのですよ。これからが本当のお前の修行です。嫁ぐお前に、この家の女に代々引き継がれてきたお護りを渡します。これからは、この簪を絶対に身体から放してはなりません」
 母・王蘭瞳はそう言って、私の髪に一本の簪を挿してくれました。
--全て分かっていたんだ。分かっていて私を受け入れてくれていたんだ--
 その簪に手を触れると、悲しみに沈んでいた私の心は不思議と穏やかになっていきました。
 婚家の前に着いた私は、先祖廟に礼拝すると、女の汚れた身で屋敷を穢さないようにと夫に背負われて部屋に入りました。これからは、自分の部屋以外に歩くことは許されないのです。これからの私の命は夫の思いひとつ。七出に触れた女は家を出され、実家に戻ることも許されず、路傍に佇んで自分を受け入れてくれる人をただ待つしかないのです。

 婚礼が終わった次の日、私は夫から母が自ら命を絶ったことを告げられました。
「行の秘密を漏らしたものは、その死をもって償わなければならないのです。でも、私の魂はいつもお前の周りにいて見守っていますからね」
 別れの悲しさに、王蘭瞳の言葉の重さを聞き逃していた自分の愚かさを悔やんでも悔やみきれず、私は、立って歩くことすら出来ませんでした。しかし、夫は、何を思ったのか、そんなかよわげなわたしの姿に満足そうな顔をしていました。

 --この身に男を受け入れなければならないとは--
 おぞましさに身を強ばらせて、私は毎夜、人形のように抱かれていました。
 それでも最初の頃は、いやがるわたしの姿が堪らないと男は満足げだったのです。欲しかったおもちゃを手に入れた子供のようにわたしの身体を貪っては果てていました。そんな姿から私はもっと早く夫の偏執的な心に気付くべきだったのです。

 そうしているうちに、わたしにも子供が出来ました。子は、愛する母に因んで蘭憧と名付けられ、跡継ぎの絶えた実家王家の養子として育てられることになりました。小さいうちは母親のもとでとの、実父の計らいで同じ屋根の下で暮らせることになりましたが、夫は里心が付くからと私から子を引き離したのです。
 しかし、乳母は、そんな私を哀れに思ってか、夫の留守を見計らって私の部屋に蘭憧を連れてきてくれました。
 腕に抱いて、乳をやりながら満足そうな蘭憧の顔を眺め、頭を撫でていると、こんなにも、自分の子供とはいとおしいのもなのかと、幸せをかみしめたものでした。そして、おぼつかない言葉ですり寄ってくる蘭憧に声をかけてやれない自分が、ほんとうに口惜しかったのです。
「これが、本当に幻なの。蘭憧、お前は誰の魂をうけてきたの。今となっては、私の愛はお前だけのものなのよ」
 心の中で語りかける私に、蘭憧はいつも微笑み返してくれるのでした。
 蘭憧といる時だけが、私の安らぎの時になっていきました。

「賈大夫の故事にもあるように、世の中の女で夫の才能を見て心を開かない女などいないのだ。子を見て笑いかけるのに、夫を見て心を開かないとはどういうことだ。」
子供をあやす私を見つけた夫は、私の腕から子供を取り上げ、私の髪を掴んで振り回しました。
「私は知っているんだぞ。おまえは身体が悪くて声が出ないのではない。お前は私を嫌って声を出さないのだ。それほどまでに私を嫌うのはどうしてなのだ。さあ、言ってみろ」
 私の髪から落ちた簪を拾い上げると、子供の両足を持ち逆さにぶら下げ、子の喉元に簪をあてがったのです。
 そう言われることは、夫を拒み続けてきた私の因縁であることは間違いないことなのだとしても、夫にしても愛するわが子に、このような仕打ちをするとはどうしたことか……。
 私は、睨み返していました。
 夫は、私のその目を見た途端、簪を子の喉元に突き刺し、手を離したのです。
 蘭憧の頭は床の石畳に叩きつけられ、鮮血が飛び散りました。
 私は、思わず血にまみれた子供の身体にすがり、声を上げて泣いたのです。
「ああ……」

 わたしは、気が付くと仙人の館に座っていました。この館に来たときに飲んだ薬の紙包みがそのままに目の前に落ち、湯飲みからはまだそのままに湯気が上がっていました。
 「後一息で不老長寿の薬が完成して、お前も仙人に成れるところだったのだ。わしの見込み違いだったようだ。お前には仙人になる素質はないようだ」
 仙人はそう言うと、わたしを里の村へ送り返してしまいました。
 村も出てきたときと同じように何も変わっていませんでした。
 そこには、またもとのままの貧乏な生活だけが待っていました。
 しばらくして、私は気を取り直してもう一度仙人の館を訪ねてみようと考えました。けして、仙人になりたいと思ったわけではありません。もう一度だけ、もう一目だけでも、母として我が子蘭憧に逢いたかったのです。
 わたしは、仙人の館を目指しました。しかし、いくら探し歩いても仙人の館は二度と見つかりませんでした。

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