リュコメデス宮のアキレウス

(原作「ギリシャ神話」より)

 

 テティスは水面にきらめく光のように美しいニンフでした。そんなテティスに、ゼウスが言い寄りました。ゼウスだけではありません。ポセイドンもテティスにぞっこんまいってしまいました。
 けれどもテティスには、掟と託宣の女神テミスによってある神託がなされていました。
「テティスが息子をもうけたら、その父をしのぐ者となるであろう。父がどれほど偉大だろうと、問題ではない」
 この神託は、ゼウスとポセイドンの逸る心をひるませてしまいました。
 ゼウスは言いました。
「そうか、あの娘はわたしのものにはならないのだな」
 ポセイドンも言いました。
「だが、あの娘がわれらを惑わしたかわいらしさに、お返しをしてやろうではないか。娘を堅物の退屈な男とめあわせよう。そうすれば、そいつとの息子が父親をしのごうが、たいしたことではないからな」
 ゼウスは下界を見おろしました。
 そして、そのまなざしはテッサリアのプティア王ペレウスにとまりました。

 ある時、ゼウスは、ペレウスがかねてよりつきあいのあった王のもとに客として滞在するように仕向けました。この王は、とても多忙な男だったので一度も客とともに朝食をとる暇がありませんでした。客の相手は后がしました。
 そして朝食のあと、后は強く美しい体をしたペレウスをベッドに誘いました。けれどもペレウスは、飾らない、まっすぐな心の持ち主でもありました。后の誘いをすげなく断ってしまいました。
「あなたはお美しい。あなたの隣で朝食をとるのは、耐えがたいほどです。しかし、あなたのご夫君の客でいながら、あなだとベッドをともにするなど、わたしにはできません。そのようなことは、わたしはいたしません」
 これを受けて、后はペレウスのことを夫に告発しました。
「あの男がわたしにけしからぬことを迫りました」
 けれども、ペレウスは頑としてこれを否定しました。そのまなざしはまっすぐでした。王はペレウスを信じました。
 このなりゆきを、ゼウスはオリュンボスからながめていました。そして、ポセイドンに、
「どうだ、あの男はテティスにあつらえ向きではないか。あの男なら、堅物で、いささか退屈で、だが愛されるにふさわしく、いい体をしている。あの者の息子が父親をしのごうと、どうということもあるまい。どうだ?」
 ポセイドンも同意しました。
 神々の母ヘーラーは、夫ゼウスがほかの女に心を移さなかったことにほっと胸をなでおろして、「テティスの婚礼はいやがうえにもきらびやかに祝おうではありませんか」と提案しました。
しかし、それにはまず、ペレウスがこのニンフの心を得なければなりません。そして、それはかなりの難題でした。テティスは、神託の予言を知っていました。しかも、それを不都合に思っていたのです。
 テティスは、愛人にするなら偉大なゼウス、そうでなくてもせめてポセイドンを、と望んでいたからです。ですから、ゼウスとポセイドンには、テティスが一介の人間の男にすぐに色よい返事をするなどありえない、とわかっていました。
 そこで、ペレウスに入れ知恵をしました。
「この洞窟の前で待っていろ。テティスは毎日、昼下がりにここに来る。昼寝をするために、イルカに乗ってやってくるのだ。テティスが横になったら、おまえはすかさずのしかかれ。そして捕まえてしまえ。なにが起ころうが、かまうことはない。もしも逃がしたら、おまえはテティスをものにできないぞ」
「なにが起ころうがな」
 ポセイドンが念を押しました。
 いったいなにが起こるのか、神々は言いませんでした。それを見物する楽しみを半減させたくなかったからです。
 というわけで、ペレウスは洞窟の前でテティスを待ち受けました。
 テティスはイルカに乗ってやってきて、横になりました。そこへ、ペレウスが襲いかかりました。すると、テティスは火の玉に変身して、ペレウスに火傷を負わせました。それでも、ペレウスはテティスを放しませんでした。するとテティスは、牝熊に姿を変えて、焼けただれたペレウスの肌をひっ掻きました。それでもなお、ペレウスはテティスにしがみつきました。テティスは、この男はこれほどにも自分を愛しく思ってくれているのかと、その情にほだされて、ペレウスを抱きしめました。
 これを見ていた神々は言いました。
「さあ、おまえたちの婚礼に列席してやろうではないか」

 結婚式はテッサリアのペリオン山で盛大に執り行われました。神々は豪華な贈り物をたずさえて、続々と婚礼の席にやってきました。神々はペレウスに、二頭の不死の馬を贈りました。これがどんなにすばらしい贈り物だったかは、想像を超えるほどです。さらに、黄金の甲胃も贈りました。これまでに作られたなかで、もっ.とも美しい甲胃でした。これを作ったのは、ほかでもない、なんでも作れない物はない神、ヘーパイストスでした。
 とてもはなやかな、まれにみる華燭の宴でした。近隣諸国の王たちやすべての神々がやってきました。けれども、一柱の神だけは招かれませんでした。それはエリス、不和・いさかいの女神です。けれども、結婚式にいさかいの女神を呼ぶ人が、はたしているでしょうか。
 無視された女神エリスは激怒しました。そして、祝いの席に乗りこみました。それは、食事が終わって、列席者たちはまだ酒の盃を手に談笑しているときでした。
 エリスはつかつかと広間に入ってきました。エリスもなにかを持ってきました。あたりをじろりと見渡して、アテナ、ヘーラー、アプロディーテの三柱の女神たちに、意味ありげなまなざしをとめました。女神たちは、ひとところにかたまっておしゃべりに興じていました。エリスはそちらへと歩み寄り、贈り物を取り出しました。それは黄金の林檎でした。エリスは林檎を床に置くと、女神たちの足元に向けてころころと転がしました。そして、高笑いを残して広間を去っていきました。一同はしんと静まり返りました。誰もが、エリスがやってきたのを見ていました。なにかよからぬことが起こると、みなが予感しました。
 花婿のペレウスが、すばやく黄金の林檎を拾いあげました。女神たちは、神様ですから、かがむなんていやだったのです。ペレウスは林檎を見て、その皮に刻まれている文字を読みました。そこには、こう書かれていました。
「もっとも美しい方に捧ぐ」
 ペレウスがもう少しかしこくて、「ここにおられる女神のみなさま、今日はわたしどもの結婚の日です。ですからこの林檎は、当然のことながら、わが妻に捧げさせてください」とでも言っておけば、そんなペレウスのふるまいを、お茶目な冗談と受けとめて、誰しもものわかりのいいところを見せ、このやっかい事から逃れることができたでしょう。
 ところがペレウスは、かしこいところを示しはしませんでした。お茶目なところも見せませんでした。その場に棒立ちになって、三柱の女神たちをじっと見つめました。
「失礼ですが、おうかがいいたします。みなさまがたのうちどなたが、一番お美しくていらっしゃるのでしょうか。どうやらこの林檎は、その方にお渡ししなければならないようなのです」
 そこへ、ゼウスが足早に歩み寄りました。
「ならぬ、花婿のペレウスがそのようなとんでもない決定を下してはならぬ。そのようなことをしたら、花婿の身になにが起こることか!」
 ゼウスは林檎を取りあげました。
「そなたたち、アプロディーテ、ヘーラー、アテナのうち誰がもっとも美しいかを決めるのは、ほかの者でなければならぬ」
 ゼウスは、審判者を探さなければならなくなりました。

 ゼウスは、トロイの王子パリスに目をつけました。パリスは、ブリアモスとヘカベーの息子でした。かれがまだ母の胎内にいたとき、両親の家庭にちょっとした騒ぎが起きました。というのは、パリスが生まれる前に、ヘカベーがこんな夢をみたのです。夢でヘカベーは、薪を産みました。薪からは、燃える炎の蛇が何匹もうようよと這い出てきました。
 ヘカベーの夢を占わせると、予言者はこう言いました。
「生まれるお子は、すぐさま殺しておしまいなされ。その夢の告げるところは、そのお子がトロイの街に災いと大火をもたらすということです」
 生まれた王子は、殺されることになりました。
 パリスを殺すよう命じられた家来は、そんなことをするには忍びませんでした。家来は赤ん坊を牝熊に託し、牝熊はパリスを育てました。そののち、パリスは牧童のもとで大きくなりました。青年になったとき、王家の人間だということがわかって、あたたかく生家に迎えられました。
 イダ山で牡牛の群れの番をしてさえいれば満足だったパリスが、ある日、道端で草の茎をくわえていると、突然、まるで地から湧いて出たように、目の前に三柱の女神があらわれました。女神たちは言いました。
「わたしたちのうち、誰がいちばん美しいか、おまえは決めなければなりません」
 ヘーラーは、自分を選んでくれたら全アジアの王として富と権力をあげよう、と約束しました。アテナは、かしこさと強さをもった戦士として全ての戦闘における勝利を約束しようと言いました。いい話です、じつにいい話です。ところがアプロディーテは、世界一の美女をおまえのものにしてやろう、と言いました。
 パリスは、黄金の林檎をアプロディーテに捧げました。
 それからは、アプロディーテがパリスにまつわるすべてを取り仕切りました。以後、パリスと彼の国トロイはアフロディーテからは庇護を、ヘーラーとアテナからは迫害を受ける事になりました。
 アフロディーテは、アフロディーテとトロイ王族のアンキセスの間に産まれたアイネイアスとともに、パリスをスパルタへ向かわせました。パリスはスパルタの王メネラオスを訪ねました。パリスとアイネイアスは、メネラオスの歓待を裏切り、アフロディーテの力を借りてメネラオスの妻ヘレネをトロイに連れ帰りました。
 なぜなら、ヘレネこそは世界一の美女だったからです。
 このヘレネ略奪が、トロイ戦争の引き金になりました。

 莫大な富を誇るとはいえ、それほど強大でもないメネラオス王が妻を取り戻すのを助けるために、なぜギリシアの王たちがこぞって集結したのでしょう? ギリシアの歴史をひもといても、王たちは常日頃から固く結束していた、などということはありません。その正反対で、誰かが不幸に見舞われても、ほかの王たちは無関心を決めこんだり、それどころか喜んだりしました。けれどもこのたびは、王たちは一致団結して、メネラオスに加勢するため、ギリシアの隅々から馳せ参じました。
 これについては、ずっと遡ったところから説明しなければなりません。どこまで遡るかというと、やはり、神々の父ゼウスのところまでです。
 テュングレオースの后レーダーは、ある日、ゼウスの訪問を受けました。といっても、ゼウスはその威厳ある姿をあらわしたくはなかったので、白鳥に姿を変えました。ゼウスは白鳥の姿でレーダーと交わり、レーダーは身ごもりました。レーダーは卵を産みました。この卵から、世にも美しい、色白の女の子が生まれました。この子がゆくゆくは世界一の美女になることは、誰の目にも明らかでした。それがヘレネです。
 ヘレネは、母のレーダーと養父のテュングレオースのもとですくすくと育ちました。その美しさは、すでに伝説になっていました。ヘレネは、かつて生を受けたあらゆる女のうちでももっとも美しい女として知れ渡っていました。これからも、こんなに美しい女はあらわれまい、との評判でしたそのヘレネが、花婿を選ぶ年頃になったのです。
 ギリシアの津々浦々から、英雄が、勇士が、美しい男が、かしこい男が、富豪が、権力者が、われこそはうるわしのヘレネの心を射止めようと、結婚を申し込みにやってきました。そこに、アガメムノンが登場しました。もちろん、本来ならば既婚者であるアガメムノンの出る幕ではありません。アガメムノンは、後込みする弟のメネラオスの代理を買って出たのでした。テラモーンの子アイアースもやってきました。ロクリスのアイアースも、ディオメーデースも、そしてオディッセウスまでがやってきました。
 ヘレネの養父テュングレオースは、だんだん不安になつてきました。空恐ろしくなってきました。なぜならテュングレオースは、誰をヘレネの婿としても、そのほかの全員を敵に回すことになつてしまうと分かっていたからです。
 テュングレオースは考えました。
「わたしが決定を告げるやいなや、この勇士たちは斬り合いを始め、体を血で染めるだろう。しかも、真っ先に血祭にあげられるのは、このわたしだ」
 テュングレオースは、もちろんそのようなことは避けたいと思いました。
 オディッセウスは、候補者のうちでもっとも貧しく、なにも貢ぎ物を持ってきませんでした。また、ヘレネにそれほど執心してもいませんでした。むしろ、ヘレネの従姉妹のペーネロペーに心を動かされていました。
 オディッセウスは、テュングレオース王の前にまかり出て、言いました。
「お開きください。もしも争いを未然に防ぐことができたら、ペーネロペーさまをいただけますか?」
「おお、喜んであたえよう」
「けっこうでしょう。では、こうすることにいたしましょう。馬を一頭、ほふるのです。そして、その肉を地面にばらまくのです。すべての英雄は、それぞれ肉の上に立って、誓いをたてなければなりません。つまり、誰がヘレネを妻としても、その者に味方し、ヘレネをその者から引き離そうとする者に立ち向かう、と誓わせるのです」
 ちょっと微妙な誓約です。けれども、オディッセウスが求婚者たちを説き伏せたので、求婚者たちも納得しました。
 テュングレオースは、ほっと胸をなでおろして、養女のヘレネをアガメムノンに委ねました。そしてアガメムノンは、弟のメネラオスの待つふるさとに、ヘレネを連れ帰りました。メネラオスは、もっとも富裕な男でした。ほかの男たちは、悔しさに歯がみをしながら帰っていきました。ですが、誓いは誓いです。
 かれらは考えました。
「誰が、メネラオスの妻に手を出そうとするものか。メネラオスは、強力な兄アガメムノンに守られているのだから」
ところがそこに、小アジアの植民都市トロイの王子パリスがやってきて、ヘレネを奪ったのです。
パリスは、その後のことには楽観していました。なぜなら、アプロディーテが仲を取り持ってくれたヘレネは、パリスのことを好きになってくれたからです。

 さてメネラオスは、涙が乾くと、兄を呼びました。
「その時がきたぞ」
 アガメムノンも言いました。
「そうだな、その時がきたな」
 誓いをたてたすべての英雄たちが召集されました。名高い予言者たちも呼び集められました。当時、予言なしでは、誰も戦争をしなかったのです。
 カルカースは、ティレシアースに次いで有名な予言者ですが、かれも呼ばれました。カルカースの第一声はこうでした。
「つぎのことがなされないうちは、出航は無用に存じます。すなわち、ペレウスさまとテティスさまの子息をお捜しなされ。この、父をしのぐ息子をともなわぬかぎり、われらは海に乗り出すこと、無用に存じます。神託はそのように告げております」

 結婚式の晩に身ごもったニンフのテティスは、月満ちて半神の息子アキレウスを産みました。しかし、テティスはたいへんに胸を痛めました。なぜなら、この子は人間の子供でした。すくなくとも、半分は人間の子供でした。ということは、いつの日にか、死ななければなりません。そこでテティスは、アキレウスを不死身にしてやろうと考えました。
 テティスは息子を不死身にするために、ペレウスに内緒で、アキレウスを不死にするためにアキレウスの死すべき部分を除こうとしました。夜は火の中で人間の父から受けついだ死ぬ部分を破壊し、昼はアムブロシア(神酒)を塗ったり、冥界のスティクス川に浸したりしたのです。
 この方法を知っているのはニンフと半神だけで、ふつうの人間は知りません。
「この子についている死すべきものをすべて焼いてしまうのよ」
 いつもはパンを焼く竃に火をおこして、赤ん坊を入れました。
 赤ん彷のアキレウスが竃に入れられて、まさに焼かれようとしていたとき、ペレウスがテティスの住む洞窟にやってきました。そして、妻のしていることを目にして、驚いてしまいました。テティスはまだアキレウスをすっかり竃に入れてはいませんでした。まだ踵を握っていました。そこへ、ペレウスが飛びかかりました。テティスを突き飛ばして、ちいさな息子を竃から引っ張り出し、水に漬けて熱をさまそうとしました。
「おまえは、あらゆる善き精たちから見放されたか!」
 ペレウスは妻に叫びました。
 テティスもペレウスに叫び返しました。
「あなたこそ、わたしがなにをしていたか、ご存じないくせに! なんてことをしたのです!」
「わが子を焼こうとしていたではないか!」
「焼こうとしていたのではないわ! 不死身にしてやっていたのよ。あなたとはもう、いっしょにいられません!」
 テティスは海に飛びこんで、ペレウスのもとを去りました。
 アキレウスは、ほぼ全身が不死身になりました。それは、傷もつかないということです。けれども、テティスがしっかり掴んでいた一ヵ所、つまり踵のうしろ側だけは人間のままで、不死身ではなく、けがもすることになりました。この、踵に続く腱の名は、誰でも知っています。アキレス腱です。

 さて、メネラオスは、王たちに誓いを思い出させるために出発しました。メネラオスには、ピエロスの賢明な老王ネストールと、かしこい発明家のパラメーデースがついて行きました。みんながみんな、進んで誓いを新たにしたわけではありませんでした。出征などせずに家にとどまり、妻子とともに家業にいそしんでいたい男が、すくなくとも一人いました。なんとも興味深いことに、参戦から逃げ腰になつていた男は、誰よりも狡知に長けたオディッセウスでした。しかもこの誓約は、ほかでもない、オディッセウスが考え出したのに。
 オディッセウスは神託によってつぎのような警告をうけていたのです。
「おまえはトロイヘいけば、二十年目にならないと帰れない。しかもたった一人、無一物で帰るのだ」
 バラメーデースとネストールとメネラオスが、イタケー島のオディッセウスの館にやってきて、彼を連れ出そうとしました。
 オディッセウスは、美しくかしこいペーネロペーと結婚しており、二人のあいだにはちょうど一つになったばかりの男の子、テーレマコスがいました。
 メネラオスとネストールとバラメーデースが、オディッセウスの館にやってきたとき、オディッセウスは不在でした。館には、ペーネロペーしかいません。テーレマコスを抱いたペーネロペーに、三人はたずねました。
「おつれあいはどこに? ペーネロペーさま」
「夫はおりません」
「どうしたのです? かれの身になにか?」
「ええ。気がふれてしまいました」
 バラメーデースは、その話をはなから信じませんでした。
「どこにおられるのか、教えてください。オディッセウスさまはどこにいるのです?」
「海辺に」
「案内してください」
 三人は、ペーネロペーが妙にそわそわしていることを見てとりました。ペーネロペーは、ちいさなテーレマコスを抱きあげると、先に立って歩いていきました。三人は、そのあとから浜辺に降りていきました。
 そこには異様な光景が広がっていました。その知恵によって世界に知られた策士オディッセウスが、砂浜を耕しているのです。鋤に牡牛と驢馬をつなぎ、道化のような帽子をかぶっています。オディッセウスは砂地を排して、畝に塩を蒔いていました。
 メネラオスは、やさしい心の持ち主で、オディッセウスに変わらぬ愛情を抱いていましたが、わっと泣き出しました。
「わたしの偉大な友オディッセウスは気がふれてしまった!おかしくなつてしまった!戦に連れていくわけにはいくまい!気のふれた者に、軍勢を率いることなどできないのだから!」
 バラメーデースは言いました。
「本当に狂っているのかどうか、試してみようではないか」
 バラメーデースは、やおらペーネロペーに向き直り、腕からテーレマコスを奪い取ると、オディッセウスの鋤の前に投げ出しました。するとオディッセウスは、牡牛と驢馬を押しとどめ、鋤を高く持ちあげたので、幼い息子はけがをせずにすみました。
 そこで、バラメーデースは言いました。
「狂っているとかなんとか言っているが、生と死の見分けもつかないのが、狂っているということだ。オディッセウスが狂ってなどいるものか」
 正気であることがばれたオディッセウスはやむなく遠征に加わることになりました。
 さて、つぎはアキレウスを見つけなければなりません。けれども、誰も居場所を知りません。オディッセウスは、策謀によって参戦をまぬがれることに失敗したあとは、ことのほか精力的に事にあたりました。アキレウスのことを引き受けたオディッセウスは、アキレウスがひそんでいる場所を探し回りました。

 さて、母親のテティスと父親のペレウスは、息子にかかわるもう一つの予言を知っていました。それは、「世にも偉大な英雄になり、そのため早死にするか、あるいは、なにごともなく平々凡々と一生を送り、天寿をまっとうする」というものでした。
 アキレウスは、リュコメデスの娘、デイダメイアと結婚して、毎年冬場の六か月間はスキュロス島で過ごしていました。

 テティスは、この島の神殿に、アキレウスを呼び寄せました。
「おまえは不死の命を授かるはずだったのに」
「不死の命など欲しくはありません!私は戦士です。男としての資質にも恵まれています。神々に敬意は払いますが、その一員に加わりたいと思ったことはありません」
「では、人間に課せられる宿命について、考えたことがないのですね」
「どんな宿命が課せられるというのです? 死なねばならない身だというだけの話ではありませんか」
「そのとおり」
 テティスは穏やかに言いました。
「おまえは死なねばなりません、アキレウス。死のことを考えると怖くはありませんか? おまえは男であり、戦士であるそうですが、戦士は早死にするものです。平和を愛する男に比べれば」
「どのみち、死はわが定めです。年老いて生き恥をさらすぐらいなら、若くして華々しく命を散らすほうがましです」
「いまさらそれをどうこう言っても、もう遅いのです。おまえは死を逃れることはできないのです。それでも、私はおまえに選択させることはできます。私には未来が見えるからです。おまえの運命を知っています。まもなく、男たちがやってきて、大きな戦争に従軍するよう、頼むでしょう。ですが、その戦争に行けば、おまえは死にます。行かなければ、長生きをして、たいそう幸せに暮らせるでしょう。名を取って若くして華々しく散るか、名を捨てて、つつがなく天寿をまっとうするか。好きなほうを選びなさい」
「それはどういう選択なのです? 選ぶまでもない! 私は若くして華々しく死ぬことにします」
「まずは、死について少し考えてみてはどうです?」
 長い沈黙がありました。アキレウスの心は、テティスの目の中に吸い込まれていきました。
「アキレウス、よく聞きなさい。私の言うことをよく聞くのです! 私は、おまえをおまえ自身から救わねばなりません。おまえは古き神々の名にかけて誓いを立てることになります。新しき神々の名にかけて誓ったものとは比べものにならない、はるかに厳粛な誓いです。
 わが父、海の老人ネレウスに、われらすべての産みの母、大地母神に、冥府の女王ペルセポネに、永遠に責め苛まれる場所タルタロスの支配者に、そして、女神であるこの私に対して、おまえはいま誓うのです。決して破ることはできない誓いだと承知したうえで……。もしこの誓いを破れば、おまえは永久に気が狂ってしまうでしょう。そして、神を冒漬したテラ島が、そのあげくにたどった運命と同じく、スキュロス島も海の底に沈むことでしょう。さあ、誓いなさい」
 アキレウスは、放心したように、テティスが言うとおりに繰り返しました。
「われ、ペレウスの息子、アイアコスの孫、ゼウスの曾孫なるアキレウスは、ここに誓う。リュコメデス王の宮殿へ戻ったら、ただちに女のように装うことを。一年のあいだは宮殿にとどまり、常に女の格好をする。だれがアキレウスに会いたいと訪ねてきても、そのたびに女部屋に身を隠し、あいだに人を介してでも、だれとも接触はもたない。リュコメデス王には全面的にアキレウスを支持させ、有無をいわせず約束を守らせる。以上のことを、ネレウスにかけて、大地母神にかけて、ペルセポネにかけて、タルタロスの支配者にかけて、女神テティスにかけて、ここに固く誓う」

「呪います!」
と、アキレウスは叫ぶと、泣きはじめました。
「あなたを呪います! 私を女にするとは」
「どんな男にも、女の部分はあるものです」
 テティスは静かに言いました。
「私はおまえが早死にしないようにしてやったのです」
 テティスは答えて、ぐいとアキレウスを押した。
「さあ、リュコメデスのもとへ帰りなさい。何も説明する必要はありません。おまえが宮殿に着くころには、彼はすべてを承知していることでしょう。
これも愛情ゆえの仕打ちです、哀れな息子よ。私はおまえの母なのですから」

 リュコメデスは宮殿でアキレウスを待っていました。
「女神テティスの宣託は届いている」
と、彼は言いました。
「では、われわれに必要とされることは、もうご存じですね」
「ああ」
 アキレウスが部屋に入っていくと、妻のデイダメイアは窓辺に座っていました。扉が開く音を開いて、彼女は振り返り、目を細めてほほえみながら、両腕を広げた。アキレウスは妻の頼にキスして、窓の外を見つめ、眼下に広がる港や小さな町を眺めました。
「みなが知っていることは、おまえも知っているはずだ」
と言って、アキレウスはため息をつきました。
「あなたが女の格好をして、父の妻妾たちの部屋に隠れなければいけないという話ですね」
と、彼女は言って、うなずきました。
「どうしてそんなまねができる、デイダメイア? 何という屈辱だ!あの女はわたしの男らしさをあざ笑っているのだ!」
「アキレウス、それ以上あの方に腹を立ててはなりません。あの方は女神なのです」
「冗談じゃない!」
 アキレウスは歯噛みしながら言いました。
「これではいい笑いものだ!」
 デイダメイアは、アキレウスの言葉に、ぞっと身震いし毅然として言い放ったのです。
「いいえ、笑いごとではありませんわ。あなたは、もう誓いを忘れたのですか。今からはケルキュセラーという女として暮すのです」

 アキレウスの一件を引き受けたオディッセウスは、ほどなくアキレウスがひそんでいる場所をつきとめました。
 アキレウスがかくれているという噂のあるスキューロス島から彼をつれだすために、オディッセウス、ネストール、アイアースの三人が派遣されました。

「リュコメデス王、われらの任務は急を要するものです。あなたの婿、アキレウス殿の行方を捜しております」
 リュコメデスはあやうく酒杯をとり落としそうになりながらこう言いました。
「客人方、アキレウスはここにはいない。彼は、その〜、妻と、わが娘と、大げんかをして、もう二度と戻らないと誓って本土へ行ってしまったのだ」
「イオルコスにもおりませんが」
「じつを言うと、私もあそこにいるとは思わなかったよ、オディッセウス。たしか、トラキアへ行くとかいう話をしていた」
「アキレウスがここにいないのなら、われらはすぐにお暇するべきでしょうな、ネストル」
「せめて、ひと晩だけでもここに泊まっていただきたい、オディッセウス。ネストル王もしばらく休まれたほうがよろしかろう」
 リュコメデスはお義理で申し出ました。
「それはかたじけない、リュコメデス王!」
「つい今朝がたも、ネストルは疲れたとこぼしていたところでした。海上で寒風にさらされると、節々が痛むのだそうです」
「われらの滞在がご迷惑でなければよろしいのですが」
 もちろん、迷惑に決まっています。社交辞令で口にした招待を相手が受けるとはリュコメデスは夢にも思っていませんでした。任務が失敗に終わった以上、使節団としてはすぐさまミュケナイへ戻って、アガメムノンにその報告をしなければならないはずなのです。本来なら、この島でのんびり骨休めをする暇などないはずでした。

 時間を稼いだ、オディッセウスたちは島中をくまなく探しましたが、アキレウスを見つけることはできませんでした。
「王よ、ちょっとお願いがあるのですが、玉座の間にこの宮殿にいる奴隷以外の人間を全員集めていただけませんか?」
「それはまた……」
 リュコメデス王は警戒して、ためらいました。
「私はアガメムノンの命を受けているのです。王よ、さもなければ、こんなお願いはいたしません。こちらの宮廷内の自由民すべてに、ミュケナイの大王の感謝の言葉を伝えるようにと命じられております。それも、男も女も、ひとり残らずその場に居合わせるようにと、とくに念を押されていまして。こちらの宮廷のご婦人方はポセイドンの怒りをかって、五年間、男とつき合うことを禁止されているかもしれませんが、それでも、あなたの家中の方にはちがいありません」
 その言葉の余韻が消えないうちに、船員たちが贈り物を脱いっばいに抱えて、入ってきました。女が喜びそうな細々としたもの、ビーズのネックレスに、ゆったりしたシフトドレス、香水の小瓶に、香油や軟膏や精油の壷、目のつんだウールに、薄く透き通ったリネンが、無造作に山と積み上げられました。さらに船員たちが入ってきて、今度は、みごとな青銅張りのよろい、楯、槍、剣、胸当て、兜、すね当てといった男向けの贈り物ものが運びこまれました。
 リュコメデス王の目のなかで、貪欲と警戒心が争っていましたが、家令を呼び命じました。
「家中の者を全員呼んでまいれ。女たちはポセイドンの禁令に背かぬように、遠く離れたところへ立たせよ」
 玉座の間は男たちでいっぱいになり、やがて、女たちもやってきました。オディッセウスたちは整列した一同の顔をとっくり見まわしましたが、アキレウスを見つけることはできませんでした。
「リュコメデス王よ。アガメムノン王はあなたの宮廷の方々の助力とご歓待に感謝の意を表したいと存じます。こちらはご婦人方への贈り物です。そして、こちらは殿方への贈り物です」
 男も女も、歓喜の声をもらしてざわめきました。そして、王のお許しが出ると、皆はいっせいにテーブルの周りに群がり、嬉々として贈り物の品定めにとりかかりました。

 まさにその瞬間に、宮殿の外で急を知らせるかん高い悲鳴があがりました。角笛が吹き鳴らされ、遠くのほうで、鬨の声をあげるのがだれの耳にもはっきりと聞こえました。女たちは金切り声をあげて、逃げはじめ、男たちは口々に支離滅裂な問いを発し、リュコメデス王は「海賊だ!」と言って、死人のようにまっ青になって、贈り物の斧のことなど眼中になくなってしまいました。
 その時、広間に集っていた婦人たちの一人が身にまとったリネンの衣を剥ぎとり、武具が積み上げられたテーブルへつかつかと歩み寄りました。
 女はテーブルの上に積み上げられた武具の山を床に払い落として、楯と槍を手に取ると、すっくと背筋を伸ばしました。オディッセウスは、斧を差し出しながら、女のもとへ行きました。
「さあ、乙女よ、これをお使いなさい! あなたのほうがふさわしいようだ。ところで、アキレウス王子とお見受けするが?長い裳裾を持ちあげるのは、もうやめにしないか」

 こうして、アキレウスも戦線に加わることになりました。トロイの市までの遠征を妨げるものは、もはやなにもありません。英雄たちは結集しました。イードメネウスはクレータ島から、ディオメーデースはアルゴスから、オディッセウスはイタケー島からやってきました。ピユロスからは老ネストールが馳せ参じました。テラモーンの子アイアースもいました。パトロクロス、ピロクテーテース、そしてその他大勢… 全軍はアウリスの港に結集し、船団はここから東をめざして海を渡っていきました。

    

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