トール伝説(北欧神話)

 北欧の神様のことなんて聞いたこともないと思っていたら、意外と身近な生活に入り込んでいて驚いてしまいます。
 主神オーディンは、アングロ・サクソン人の間で、「ウォデン」と呼ばれ、ウォデンの日がウェンズデイ(水曜日)、オーディンの妃フリッグの日はフライデイ(金曜日)、軍神チュールの日は、テューズデイ(火曜日)、そして、木曜日のことをサーズデイというのも、このお話の主人公トール神に因んで名づけられたもので、ThursdayはThor's day(トールの日)に由来しています。

 トールは、北欧の十二神のうちでオーディンにつぐ偉大な神で、雷の神であり、春の神であり、巨人族の恐るべき相手です。神々の国アスガルドに、トルドハイムという領地を持ち、そこにビルスキルニルと呼ばれる広大な館を建てて住んでいました。ビルスキルニルとは「稲妻」を意味し、神々の館のうちで最も大きく、百姓たちは、この世の命を終えると、トールの館に迎えられて、そこで楽しく平和な日を送るといわれています。

 トールの武器は、ミョルニルと呼ばれる鉄の槌で、「霜の巨人」と戦うときには、いつもこれを投げつけます。槌には魔力がこもっていて、一発必中で相手を砕き、どこに投げても必ずブーメランのようにトールの手に戻ってくるのです。そして、腰にはメギングヤルデルとよばれる力が二倍になる力帯を縮めていました。

スリュムの歌

 ある朝、トールが目を覚ますと、大切な武器として、いつも肌身を離さぬ鉄の槌がなくなっていました。驚いて、あたりを隈なく探し回りましたが、どうしても見つかりません。トールは、あまりのことに落胆し、怒りと悲しみにかられて、大きな声で叫び立てていました。
 ロキ神が、その声を聞きつけて、トールのそばに駆けつけて来ました。
「どうしたのだ。朝早くからわめき立てて」
 トールは、ロキをにらみつけるようにして、
「一大事じゃ。わしの槌が失くなった。もし巨人どもが、それと知ったら、すぐにアスガルドに押し寄せて来て、わしたちをみな殺しにするであろう」
と答えました。
「そんなに心配するには及ばぬ。もしフライアが、宝物の鷹の羽衣を貸してくれるなら、私が盗人を
探し出して、槌を取り返してやろう」
 トールとロキは揃ってフライア女神の館を訪れました。
 フライアに訳を話すと、女神もアスガルドが危ないと思ったので、すぐに鷹の羽衣を貸してくれました。
 トールの宝を盗んだ者は、巨人のうちの誰かに違いないとにらんだロキは、羽衣をまとって鷹に姿を変えると、イフィング河を越え、ヨッツンハイムの荒野を越えて、巨人たちのいくつかの館の上を静かに旋回しながら様子を窺いました。
 すると、果たして「霜の巨人」たちの王スリュムが、さも愉快そうな顔をして、とある丘の中腹に座り込んで、金の首輪を犬たちにつけているのを見つけました。
「大分機嫌がいいじゃないか」
ロキがスリュムのそばに近づいて言葉をかけると、スリュムはふふんと軽く笑って、
「神たちに変わりはないか。あんたは、どうして一人でこんなところまで来たんだい」
「すこしばかり具合の悪いことが起こったもんでね。お前さんが、トールの槌を隠したんだろう」
「そうさ、えらい宝物を手に入れたんだ。機嫌がわるかろうはずがない」
「あんなものを盗んだって、お前には仕方がないじゃないか。早く返してもらいたいもんだね」
とロキがわざと事もなげにいうと、スリュムはたちまち目をむいて、
「どうして、どうして、滅多に返されるものか。あの槌さえ取り上げたら、アスガルドの神なんぞ、少しも恐れるに足らんからな。だから俺は地の底の深い所に、大切にしまっておいたよ」
 ロキは、心の中で、これは困ったことになったと思いました。
 スリュムは、その顔をじろりと見やると、
「どうじゃ、さぞあの槌が欲しかろな。欲しけりゃ、フライア女神を連れて来て、俺の花嫁にくれるがいい。そしたらすぐに槌を返してやるさ」
 ロキは、スリュムの無法な申し出にひどく腹を立てましたが、いまさら何ともしようがないので、急いでトールの館トールドハイムに飛び帰りました。
 ロキの帰りを待っていたトールは、すぐに尋ねました。
「どうじゃ、うまく槌が見つかったか」
「見つかったとも。巨人の王スリュムの奴が盗んだんだ。そしてフライア女神を花嫁にくれるまでは、槌は返せぬといいくさるんだ」
 ロキが答えると、トールは困ったような顔をして、
「あんな美しい女神を、いくら何だって、巨人のもとにやるわけに行かないじゃないか」
といいます。
「それはそうだが、しかし神々のためなら、我慢をしてもらわなけりゃなるまい。まあとにかくフライア女神に話して見ることにしようじゃないか」
と二人は、フライア女神の館に行って、鉄の槌を盗まれたことや、スリュムのいい草を話して、
「さあ、フレイヤよ。一番美しいあなたに大急ぎで花嫁衣装を着ていただかねばなりません。私たちと一緒に、スリュムの許に行ってもらいたい」
と頼みました。
 それを聞いたフライアは、首につけていた首飾りが裂けて飛んだほど、身を震わして怒り出しました。
「いやです。私はちょっとでも愛する夫のそばを離れるのはいやです。そんなことをしたら、男狂いの女のように思われてしまいます。まして、醜い巨人の妻となって、ヨッツンハイムに住むなんて、思っても汚らわしい。あんなわびしい荒野に日を送ったら、日頃から愛している緑の野や花の牧場を憧れる余りに、悶え死をしてしまうではありませんか」
 フライア女神はこういって、どうしてもトールやロキの頼みにどうしても応じませんでした。

 二人は弱りきって、神々の王オーディンに頼んで、相談することにしました。男神たちは、天の審議場に集まって、槌を取り戻す方法を、女神たちはヴィーンゴールグの神殿に集まって、フレイヤがこれからどうしたらいかを話し合いました。
 すると神々のうちでの知恵者ハイムデルが、
「こうなっては、巨人王をだまして、鉄の槌を取り返す外はないだろうな」
といい出しました。
「どうしてだますのじゃ」
と神々が、身をのりだして尋ねると、
「トールにフライア女神に化けてもらうのじゃ。トールが花嫁の衣をまとって、ブリージンガーメンの飾りをつけて、腰に鍵(※)をさげて、髪を編み上げて、胸には大きなブローチを止めるのじゃ」(※北欧では、女は家内のことを司るしるしとして鍵を腰につけました)
 するとトールがすぐに口を尖らせて、
「そんな馬鹿げたことが出来るものか。花嫁の衣を着けたら、みんなの物笑いじゃ。わしはどうしてもそんなことをするのは嫌じゃ」
と怒り出しました。ロキがそれを押し止めて、
「いやでも何でも、私たち一同のためじゃ、どうしても我慢してもらわなくてはならぬ。もし鉄の槌を取り返すことが出来ないとなると、いまにアスガルドに巨人どもの家が建つようになるぞ」
 他の神々も口をそろえて同じことを言いました。神々は、いやがるトールを捕えて、花嫁の衣を着せて、首飾りを着け、胸にブローチをさして、髪を編み上げて、腰に鍵を下げて、膝まで垂れる被衣をかぶせました。
 ロキはそれを眺めながら、
「うん、なかなか好い花嫁振りだ。ところで腰元が一人いなくてはなるまい。よし私が腰元になってやる」
といって、手早く付添いの女の装いをしました。
 神々は、トールの前には鏡のように姿を映すものを出さないように気をつけました。
 仕度がすむと、急ごしらえの花嫁と腰元とは、山羊にひかせたトールの車に乗り込んで、巨人の世界ヨッツンハイムを指して出掛けて行きました。

 スリュムは、山頂に腰をかけてフレイヤの到着を待ちわびていました。そして、二人を乗せた車が近づいてくるのを目にすると、永い年月思いをかけていた神界随一の美しい女をわがものとする時が来たというので、気もそぞろに、手下の巨人どもを呼び立てては、
「何をぐずぐずしているのじゃ。早く椅子を並べ立てろ。饗宴の用意はととのったか。御馳走の準備はどうじゃ」
と叫び続けました。そして、その合間には、
「黄金の角をした赤い牝牛も持っている。黒々とした逞しい牡牛も沢山いる。わしは富にも宝にも不足はない。足りないのは、フライアだけであった。それがいまわしのものになるのじゃ」
と、ひとりほくほくとしていました。
 偽のフライア女神と腰元とを乗せた車は、明けの朝早く巨人王の館に着きました。盛装したスリュムは二人を館の戸口に迎えて、すぐに饗宴の大広間に案内しました。
 トールの頭のリンネルの頭巾が、彼の髪と頬を隠し、ベールが目を覆い、ビリージンガーメンの飾りのまばゆいばかりの輝きが巨人たちの目をうばいました。
 酒盛が始まると、花嫁の食うこと飲むこと、一匹の牡牛をまるまる食いつくして、八尾の大きな鮭を平げて、女たちに出した山ほどの菓子を一舐めにして、それから三樽の酒をあおってしまいました。
 巨人王スリュムは、驚きあきれて、
「こんなに腹の空いた花嫁を、わしはまだ見たことがない。花嫁がこんなにものを口にし、しかも大口でものを食べるなんて。これほどがぶがぶ飲む花嫁も見たことがない」
と叫びました。花嫁のそばに座っていたロキは、とりなすように、
「フライア様は、この八日というもの、何一つ召し上がらなかったのです。それほどヨッツンハイムを恋しがっていらっしたのです」
と言い繕いました。
 スリュムはそれを聞くと、満足げに頷いてそのそばに歩み寄りました。
 そして、接吻をしようと、花嫁のベールをあげのぞき込んだかと思うと、たちまちあっと叫んで、広間の端まで飛び退いてしまいました。
「フライアという女は、何という鋭い目を持っているのだろう。まるで火が燃えているような目ではないか」
 すると、またロキがスリュムをなだめて言いました。
「フライア様は、この八日というもの、ただの一夜もお眠りにならなかったのです。それほどヨッツンハイムを恋しがっていらっしたのです」
 その時スリュムの姉が入って来て、恨めしそうに花嫁をにらみつけながら言いました。
「私、花嫁からの贈り物が貰えると思って、いままで待っていましたのに、いつまで待っていても下さらないから、わたしのほうから来てしまったのよ。さあ、あなたが私と仲よくなって可愛がってもらいたいのなら、黄金の指環を下さいな」
 スリュムの身内にやる品など一つも用意して来なかったので、トールは因ってしまって、しきりにもじもじし始めました。それを見ると、ロキはまた横から口を出して、
「ほんとにすみませんでした。あなたへの贈り物を忘れるなんて。でも恋は、あらゆる人をうつけ者にすると申しますから、どうか気を悪くしないで下さい」
と、とりなしました。
 スリュムは、すっかり有頂天になって、手下の巨人に、
「花嫁を聖めるのじゃ。早くあの鉄の槌を持って来い。ミョルニルを花嫁の膝に置いて、ファル女神の名によってわしたち二人が永久の夫婦として結びつくのじゃ」
と挙式の準備を命じました。
 巨人たちが鉄の槌を広間に持ち込んで来ると、スリュムはそれを取り上げて、静かに花嫁の膝の上に置きました。と思うと、いままで花嫁になりすましていたトールが、いきなり槌の柄をつかんで、むっくと立ち上がると、ムチのように軽々と振りました。
 巨人たちは驚き騒ぎ始めましたが、その時には、ベールと頭巾を投げすてたトールの手は、うなりを発して鉄の槌を振り回していました。槌が動くごとに、巨人が断末魔のけたたましい叫び声をあげて、ばたばたと倒れていきました。スリュムも叩きつぶされ、その姉も叩き倒されました。そして群がる手下の巨人たちも、折り重なって、あえない最期を遂げてしまいました。
 首尾よく鉄の槌を取り返したトールは、累々たる巨人の屍を冷ややかに見返したまま、ロキと一緒に車に乗り込みました。
 暫くたってから、オーディンが王座の上から、遥かかなたのヨッツンハイムを見下ろすと、いままで木もなく草もなくて、すさまじく荒れ果てていた所に、緑の芽が萌え始めていました。

    

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