天女散華

(維摩経観衆生品より)

 瑞雲が、青い空にひろがっています。わたくしは 、お釈迦さまのお言い付けで、三千世界(さんぜんせかい)を雲の下に見下ろしながら、花の香の国からこの山まで飛んで参りました。あざやかな朝日が、青空に美しくきらめいている山の景色は、なんと美しいことでしょうか。
 世界の中心にそびえたつ須弥山(しゅみせん)は、色即是空(しきそくぜくう)の超越した世界、はるか無限の彼岸(ひがん)へと通ずるさとりの入り口。巨大な鳳凰が、太陽を背負って空を飛び、迦陵(かりょう)の鳥たちも、翼を広げて踊っています。仏教を守護する龍天八部(りゅうてんはちぶ)の神々は金色に光り輝き、海の中には龍神が身をひそめています。青く果てしない大宇宙の中でうっすらと見えているのは、普陀岩(ふだげん)です。
 あちらに見える落迦山(らっかせん)の景色は、なんとも、おごそかでございます。
 南海(なんかい)にいらっしゃる観音菩薩(かんのんぼさつ)さまは満月のように美しいお顔をしていらっしゃいます。観音菩薩さまのお弟子さんたちが、うやうやしく列をつくって立ち並び、菩提樹(ぼだいじゅ)と美しい花のあいだを、白いオウムが飛び交っています。緑の柳からしたたる天の甘露(かんろ)は、三千世界をうるおします。

 天女は、空から沢山の花を雨のように降らせて、世界を清めたあと、さらに別の世界へと飛んでゆきます。

 維摩の部屋に一人の天女が現れました。そして天の華をたくさんの菩薩や、大弟子たちの上にまき散らしました。
 すると不思議なことが起こりました。菩薩の体にふれた花びらはそのまま地上に落ちるのですが、舎利弗などの大弟子の体にふれた花びらは大弟子たちの着物や体に付着して、どうしても離れません。
 花びらが衣服についているのは美しいものですが、しかしまったく離れないのも異様です。大弟子たちがどんなに花びらを取りさろうとしても花びらは離れないのです。
 その時、天女は舎利弗にいいました。
「舎利弗さん、なぜ花びらを取ろうとするのですか」
と。すると舎利弗が答えました。
「この花びらは法にかなわない花びらですから取ろうと思っているのです。香華を衣服や体につけることは戒律に反することです」
と。体を飾ることは異性を誘惑することになるからです。舎利弗が体についた花びらを取りさろうとしたのは当然でした。
 すると天女は、舎利弗に言いました。
「この花びらを戒律にかなわないものとしてはいけません。花びらそのものには善も悪もありません。花びらはどこまでも自然の花びらであるだけです。この花びら自体には戒律にそむくとか、きれいだということもないのです。この花びらを見て、きれいだなあと思うのも、これを身につけると戒律に反すると思うのも、それは自分の分別、はからいがそうするのです。あなたが自分で分別の想念を生んだのです。
 菩薩さまの体に、花びらがつかないのは、一切の分別の想念を断っているからです。花びらをつけていると戒律に反するというような恐れやおびえもありません。女人のまいた花びらだから汚らわしいと思うこともありません。自然の花びらがただ体についただけなのです。
 わたしたちの心の奥底には表面的には消え去った煩悩がなお深く残っています。煩悩のならわしが少しでもぬけないものには、花びらが付着するのです。」と。

 舎利弗は天女にいいました。
「あなたはこの室に長い間いるのですか」
 すると天女は
「あなたが解脱されてから長く経ちますか」
と答えました。
「……」
「舎利弗さん、なぜ、黙っていらっしゃるのですか」
 天女に促されて、舎利弗は答えました。
「解脱は言葉でいい表すことができない。だから何と答えてよいか分からないのです」
 天女が、
「言葉や文字はみな解脱の相を現します。解脱は内なる体験、言葉は外なる表現と、内と外とを分けて考えてはいけないのです。文字を離れて解脱を説くことができません。体験と言葉は別々なものではないのです」
と答えると。さらに舎利弗は
「淫、怒、痴を離れるのを解脱というのではないですか」
と問いました。
 天女は
「仏は増上慢の人のために淫、怒、痴を離れたのを解脱とお説きになりますが、本当の悟りを得た人には、淫、怒、痴の性がそのまま解脱であるとお説きになります」
と答えました。
 舎利弗が
「それは大へんによいことですが、一体、天女よ、あなたは何を証拠にそのようにおっしゃるのですか」
と重ねて尋ねると、天女は
「わたしは何も得るものもなく、何も悟るものはないのです」
と答えました。

 舎利弗はつづいて尋ねました。
「声聞、縁覚、菩薩の三乗の中の何乗で衆生を教化しようとするのですか」
「わたしは声聞でもあり、縁覚でもあり、菩薩でもあります」
と天女は答えました。
「声聞の教えで衆生を救おうとすれば、声聞となります。十二因縁の教えで衆生を教化しようとすれば縁覚となります。大悲の教えで衆生を教化しようとすれば菩薩となるのです。それは利他を求める菩薩として生きているからなのです」

 天女は
「私はこの室に十二年いますが、はじめから声聞や縁覚の法を聞いたことがありません。ただ菩薩の大悲、不可思議諸仏の教えだけを聞きました。この菩薩の教えの説くところには、八つの未曾有の得難きものがあります。この室には未だかつて存在しない、すばらしい八つのものがあると説きます。」
といいました。  
 第一のすばらしさは、この室は金色の光に照らされて昼夜がありません。燦々と輝く光明に照らし出されている室です。
 第二のすばらしさは、この室に入れば、垢のために悩まされません。一切のものが清浄となります。垢のない世界が存在するのです。
 第三のすばらしさは、この室には、帝釈天、梵天、四天王や多くの菩薩たちが絶えず集まって来ます。人が絶えず集まって来ることは、そこにいる人の人徳の高さを示しています。
 第四のすばらしさは、この室では、常に六度(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・知恵の六つ)が説かれて、それによって衆生を救済しようとする不退転の決意が生まれます。
 第五のすばらしさは、この室では、天人が一番よい音楽を奏でて、無量の教化の声を出していることです。法の音が絶えない世界です。
 第六のすばらしさは、この室には四つの倉があってたくさんの宝石が充満しており、貧乏な人に恵み、因っている人を救うことができます。
 第七のすばらしさは、この室には釈迦仏、阿弥陀仏、阿閑仏、宝徳仏、難勝仏など無量の仏さまが、みな姿を現し、法をお説きになることです。
 第八のすばらしさは、この室には、一切の諸天によって飾られた宮殿や、諸仏の浄土をこの中に現すことができることです。
 天女が、菩薩の教えを学んだこの室には、八つの未だかつてないすばらしいものがあるのです。

 舎利弗は、天女に向かって
「あなたはなぜ女身を転じて男にならないのですか」
と問いました。
すると天女はいいました。
「私は十二年来、女人の相を求めていますが、まだそれを得ることができません。どうして転ずる必要がありましょう。たとえば幻術師が幻の女を仮に作ったようなものです。それに女身を転じて男にならないのですか、と質問するような人間が、果たして正しいでしょうか。男の形をしているからといって真の男性であるとは限りません。女の形をしているからといって、女相そのままとも限りません。一切のものは仮に姿を現しているものですから、きまった形がない女人が男に転身する必要もありません。」
と。

 この時、神通力をそなえた天女は舎利弗を女人にしてしまいました。女身に身を転じた舎利弗に対して天女はいいました。
「あなたはなぜ女身を転じて男にならないのですか。」
舎利弗は驚きました。自分が知らないうちに女身に変えられたのです。すかさず天女はいいました。
「舎利弗さん、あなたがもし女身を転じて男になれるのなら、どんな女もまたそのようにするでしょう。あなたは女身を現していても、女ではないのです。だから仏は一切のものは男でも女でもないとお説きになったのです」
と。
 天女が神通力をやめると、舎利弗はもとの男の身になりました。
「女身の姿は今どこにありますか」と。
今は男身の舎利弗がいるだけであって女身の舎利弗はおりません。
舎利弗は「女身の姿は在るのでもなく、不在のでもない」と答えました。
舎利弗が女身を現した時には、女身はたしかに在りました。しかし、神通力を解かれて、もとの舎利弗にもどった時には女身は不在なのでした。
天女は、
「全てのものは、また、同じです。そもそもあるのでもなく、ないのでもないのです。そもそも、あるのでもなく、ないのでもないというのが、仏のお説きになったことです」
と、いいました。

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