ムーラデーヴァの秘薬

(原作「カター・サリット・サーガラ」より)

 昔、ネパール国にシヴァプラという都があり、ヤシャハケートゥという王様がいました。
 この王様は、プラジュニャーサーガラという名の宰相に国政を任せて、チャンドラプラバーという王妃とともに幸せな生活を送っていました。やがて、王様と妃の間に、シャシプラバーという名の王女が生れました。時が過ぎ年頃になると、王女はその名のとおり月の光のように美しい娘になりました。

 ある春の日、王女は行列祭を見るためにお供を連れて御苑に行きました。そしてその御苑の中で、彼女は花を摘みはじめました。花を摘む彼女の姿は優雅で、その指は花々に融け込みとても魅力的なものでした。
 行列祭に来ていた人々のなかに、富豪のパラモン青年がおりました。彼は、マナハスヴァーミンという名でしたが、花を摘む彼女の姿を見たとたんに心を奪われて、「心(マナス)の支配者(スヴァーミン)」どころではなくなってしまいました。
「森の女神がクリシュナ神を崇めようとして花を摘んでいるのであろうか。
 愛の神は、春の花々のエキスを矢じりに塗って恋人達の心を射るというが、愛の神の矢を造るために、彼女はその花々を摘んでいるに違いない」
 彼が王女を見つめていると、王女の方もまた、彼を見ました。そして愛神のように美しい彼を見るやいなや、彼女もまた、花のことも身体のことも自分自身のことも忘れてしまう程、一目で恋に落ちてしまいました。

 このように二人がお互いに芽生えたばかりの恋愛の情にひたっているうちに、突然、わあわあという大騒ぎが始きりました。どうしたことかと我に返った二人が顔を上げて見ますと、一頭の象がこちらへ走って来るではありませんか。
 発情したその象は、他の象の臭いをかいで怒り狂い、繋がれていた杭をへし折って逃げ出し、興奮して途中の樹々をうち砕き、御者を振り落し、牙を振りかざして駆けて来たのです。王女の従者たちは恐れて、われさきにと逃げ散ってしまいました。
 マナハスヴァーミンは急いで走り寄るやいなや、一人ぼっちになった王女を両腕でかかえ上げ、柵の外につれて行きました。王女は、ためらいながらも彼に抱きつき、恐怖と愛情と恥じらいで心を乱しておりました。
 騒ぎが収まり、やがておつきの人々がもどって来て、このバラモン青年にお礼を言い、王女を宮殿に連れ帰りました。彼女は生命を救ってくれた男を、何度も振り返えりながら、宮殿に戻っていきました。

 一方、マナハスヴァーミンも、御苑から帰っていく彼女の後をつけて行き、王宮に入るのを見とどけました。
「もう彼女なしではいられない、生きてもいけない。しかし、王宮にいるのでは会うこともかなわない。あの魔術に長けたムーラデーヴァ仙人におすがりする他はない」
そう考えつくと、翌朝、さっそく仙人のところへ行きました。
 その魔術の不可思議な道を極めた男は、さながら大空の化身のように見えました。マナハスヴァーミンが、敬礼して自分の望みを告げると、ムーラデーヴァは笑って、それを実現させることを約束しました。
 そしてムーラデーヴァは、マナハスヴァーミンを鏡の前に連れていき、魔法の丸薬と少女の服を与え、丸薬を口に含んで服を着替えるように命じました。
 マナハスヴァーミンが、躊躇していると、
「この丸薬を飲んでも、自分では何も変わったとは気づかないだろうが、お前を見た者には、お前がこの世で一番美しい女に見えるのだ。薬を口から出せば、もとどおりお前の姿にしか見えない。だが、まちがって飲み込んでしまったらお前の姿は、一生女にしか見られないから気をつけるんだな」
と、ムーラデーヴァは彼に丸薬を口に入れるように言いました。
 マナハスヴァーミンが薬を口に入れると、鏡の中の彼はたちまち男装の美女の姿に変わりました。

 こうして仙人は、少女に変身したマナハスヴァーミンを王宮に連れて行き、謁見の間で、ヤシャハケートゥ王にこう告げました.
「陛下、私には一人の息子がおります。私は息子の為にこの娘を嫁にもらいうけ、遠くからつれて来ました。ところが今日、その息子がどこかへ行ってしまったのです。私は息子を捜しに行きます。そこで息子をつれて来るまでこの娘を保護していただきたいのです。あなた様は一切の保護者であられますから」
 マナハスヴァーミンの美しさに魅了されたヤシャハケートゥ王は、即座に仙人の申し出を承諾しましたが、王妃の嫉妬を恐れ、いつでも会いに行けて、しかも王妃の目に付かぬようにと、王女のシャシプラバーを呼び寄せて言いました。
「わが娘よ、この少女をお前の屋敷において守ってやれ。もし断ったら呪詛をうけるかも知れぬ。食事をする時も寝る時も、いつもお前の側から決して離すな」
 父にそう言われた王女は、かしこまりましたと答えて、少女に変身したマナハスヴァーミンを自分の後宮に連れて行きました。
「あなたは、この世の女と思えないほど美しい。でもあなたの振舞は、まるで男のように見えます。この国に嫁いで暮すには、この国の女としての振舞を身に付けなければいけません。そして王女様に仕える侍女としてのマナーも学ばなければなりません」
 美しいマナハスヴァーミンを見た後宮の女官長は、花嫁修業だと言って、マナハスヴァーミンを厳しく指導しました。
 マナハスヴァーミンにとってはとても恥ずかしいことばかりでしたが、王女のそばにいるためには仕方がないことだと観念し、次第に女らしい仕草を身に付けていきました。

 一方、王女は、御苑での事件以来、自分を助けてくれた男のことばかり思い出して、昼も夜も恋の焔に焼かれておりました。想いは募るばかりで、夜ごとベッドの中で身悶えていました。それに気づいたマナハスヴァーミンは密やかにベッドのそばに寄り添って、王女にたずねました。
「ねえ、シャシプラパー様、蒼白い顔色をして日ごとにおやつれになっていくみたいだけど、どうなさったの。まるで愛しいお方と別れて苦しんでいらっしゃるようね。私におっしゃって下さい。そんなあなたを見ているとわたしも辛いのです。あなたを愛している友を信用して話して下さいませ。話していただけないのなら私はもう何も食べないから。」
 日ごとにしとやかになっていくマナハスヴァーミンを見て、王女もこの少女に変身した男に友情と信頼を寄せるようになっていました。王女は溜息をつき、おもむろに答えました。
「私があなたを信用しない筈がないわ。聞いて。
 この前、私は春の行列を見に公園に行きました。そこで私はハンサムなバラモン青年を見ました。彼は霧氷から脱した月のように美しく、まるで見るだけで愛をかき立てられる春の季節、森々が装いをこらし、見る者を楽しませる春の季節のようでした。月のように輝く彼の顔を見ているだけで、甘露を飲んでいるように私の心は満たされてしまいました。
 その時です。突然そこへ、鎖を断ち切った巨象が、時ならぬ黒雲のように大音響をたてて走って来たのです。つき人たちはあわてふためいて我先にと逃げ散ってしまいました。ところが他ならぬあのバラモン青年が、恐怖におののく私を抱き上げて遠くの方へ運んでくれたのです。彼の身体に触れ、私は白檀を塗られ甘露で濡らされたように、何かしら恍惚とした状態になりました。ところが程なく戻って来た従者たちは私を引き離し、ここにつれ帰ったのです。
 私はまるで天上から地上に落ちたかのようでした。それからというもの、目覚めている時は、あの生命の恩人が会いに来て私の傍にいてくれることを願い、眠ている時は、彼が甘い言葉をささやき、キスをして力強く抱きしめてくれる夢ばかり見るのです。でも私は、不幸にも後宮からは出してもらえず、彼の名前さえも知らない。もう気も狂わんばかりです。恋しいお方との別離の火が、このように私を燃やし苦しめるのです」
 彼女の言葉は、娘の姿をしたマナハスプアーミンの耳の穴を甘露のように満たしました。彼は喜び、口から丸薬を出して自分の姿を現して言いました。
「魅力的な眼をしたお方、私こそその男です。御苑でのあなたのまなざしは、私の心を縛りつけ、文字通りあなたの奴隷にされてしまった……。あなたとの出逢いがたちまち破れてしまったので、私はとても苦しみました。さんざん苦しんだあげく私は仙人に相談して、少女に変身したのです。この薬を口に入れた者は、皆、この世で一番美しい女に見えるのです」
 恋しい男がこう言いながら突然あらわれたのを見て、王女は驚きと恥じらいで取り乱してしまいました。
「私やあなたが堪え忍んで来た別離の苦痛をどうか実らせて下さい。美しい方、愛の神はもうこれ以上は我慢できません」
 二人は情熱の導くまま結ばれました。そして二人の間には、その愛情からご想像されるように、盛大な悦楽の饗宴が繰り広げられたのです。
 それからというもの、目的を達したマナハスヴァーミンは、二様の姿をとって後宮で暮しました。すなわち、昼は丸薬を口に含んで少女になり、夜は丸薬を出して男になって。

 こうして日々が過ぎた時、ヤシャハケートゥ王の義弟のムリガーンカダッタが、自分の娘のムリガーンカヴァティーを、大宰相プラジュニャ−サーガラの息子であるパラモンに、莫大な持参金つきで嫁がせました。王女シャシプラバーもその従姉妹の結婚式に招待されて叔父の家へ行きました。
 彼女は侍女たちを伴って行きましたので、マナハスヴァーミンも彼女について行きました。ところが、何と新郎である宰相の息子は、少女に変身した彼を見て愛神の矢にしたたか撃たれてしまったのです!
 宰相の息子はこの偽の少女に心を奪われ、新婦とともに自分の家に帰りましたが、そこはまるで空家のようでした。そこで彼は例の「少女」の美しい顔をひたすら思い続けておりましたが、激しい欲情という大蛇に噛まれ、不意に失神してしまいました。人々はどうしたことかとうろたえて、祝宴どころではなくなりました。父親のプラジュニャーサーガラはそのことを聞いて急いで帰って来ました。父親が元気づけますと彼は失神からは覚めましたが、ほとんどうわ言を言うように逆上して思いのたけを打ち明けたのです。父親が、こいつは正気を失ってしまったわい、と考えて非常に当惑しているうちに、国王もそのことを知ってその場にやって来ました。
 王は彼が深い愛着から、たちまちにして恋愛の第七段階に達しているのを見てとり、大臣たちにたずねました。
「仙人が預けたこの少女を彼にやることがどうして出来よう。しかし、もし彼女をやらなければ、この男は必ずや恋の最終段階に達してしまうに違いない。彼が死ねば、その父親である宰相も死んでしまうだろう。宰相が死ねば国が滅びてしまうことだろう。そこで、いかなる方法があるか言ってくれ」
 王にそうたずねられた時、大臣たちはこぞって答えました。
「王に固有の義務は臣民の正義を守ることだと申し                         ます。その根本は政策であります。そして政策は宰相に依存します。宰相が死ねば根本が崩壊し、必ずや正義が滅びますから、それは何としてでも防がなければなりません。それに、もしパラモンである宰相を息子もろとも死なせてしまえば、バラモン殺しの大罪を犯すことになりましょう。ですからまずこのさし迫った正義の崩壊を防がねばなりません。あの仙人が預けていった少女を宰相の息子に与えるべきであります。あのバラモンがやがて帰って来て怒っても、その時はその時で対処いたしましょう」
大臣たちがそう言うので、王は「そうしよう」と承知して、例の偽の少女を宰相の息子に与えることにしました。そして吉日を選び、少女に変身したマナハスヴァ−ミンを王女の部屋から連れて来るように命じました。
うわさを聞きつけた王女はマナハスヴァ−ミンを匿おうとしましたが、彼は、
「私たち二人は、いつまでもこのままの形で愛し合うことはかないません。きっと、あなたもいつかは嫁がなけらばならなくなります。わたしに、考えがあります」
と言い、王女の部屋を出ていきました。
マナハスヴァ−ミンは王に申しました。
「他の男が別の男の為につれて来た私をまた別の男に与えても、全くあなたの御意のままです。あなたは国王ですから、正法も非法ももう全くあなた次第なのです。ただ私は次のような条件と交換にこの結婚を承知したいと思います。夫たる人が六ヵ月のあいだ聖地巡礼をして帰って来ないうちは、決して私を無理に一つ床に導いてはなりません。もしそうでなければ、私は舌を噛み切って死んでしまうとお思い下さい」
少女に変身した青年はそういう条件をつけました。そこで王が宰相の息子にそのことを告げると、彼は喜んでその条件を承知しました。そして急いで結婚式をすますと、第一夫人のムリガーンカヴァティーと偽の第二夫人とを警護の厳しい一つ部屋に住まわせました。それからこのおめでたい男は、愛人を喜ばせようと思って、聖地巡礼へ出かけたのです。

 こうして少女に変身したマナハスヴァーミンは、ムリガーンカヴァティーと一つ家の中で寝食を共にして暮しておりました。ある時、ムリガーンカヴァティーは、夜中、外で従者たちが眠ってしまった時、寝室でいっしょにいる彼に小声で言いました。
「あなた、何かお話ししてちょうだい。わたし眠れないの」
 それを聞くと少女に変身した青年は彼女に物語をしてやりました。
「昔、イラという名の太陽族の王様がいました。彼はガウリー女神の呪狙により女性になってしまいましたが、全宇宙を迷わすほど魅力的でした。神殿の境内の森でブダと出会い、お互いに一目見て好きになり、契りを交したのです。そしてプルーラヴァスが生れました」
 彼はそういう物語をしてから、更に抜け目なく次のように言いました。
「このように、神様の指令により、あるいは魔法の薬の力により、ある時は男が女になったり、またある時は女が男になったり出来るのです。そして、偉大な人々といえども、愛しあって交わるのです」
 若いムリガーンカヴァティーは、結婚したとたん夫に旅立たれて欲求不満になっていました.そして同棲生活によってすっかりマナハスヴァ−ミンを信頼しておりましたので、この話を聞くと無邪気にこうたずねました。
「この物語を聞いたら私の身体が震えてきたわ.そして心臓が止まるみたい。あなた、どうしてかしら.教えてちょうだい」
 それを聞いて女に変身したマナハスヴァ−ミンは再び彼女に言いました。
「あなた、それは恋愛の徽候よ。そんなこと初めて? 実は私もそう感じていたの。あなたには隠さずに言うけど」
 彼がそう言うと、ムリガーンカヴァティーはおずおずと言い出しました。
「あなた、私はあなたを生命と同じぐらいに愛しているの.今がよい折だと思うから何でも言ってしまうけど。何かよい方法を用いて男に変身することは出来ないかしら」
 彼女がそう言うので、マナハスヴァ−ミンは彼女に答えました。
「それでは申し上げましょう.私にはヴィシヌ神の恩寵があります。そのおかげで、私は夜なか自由に男性になれるのです。今夜、あなたの為に男になりましょう」
 マナハスヴァーミンはそう言うと口から丸薬を取り出し、若さにあふれた自分自身を愛人に見せました。それまでに二人はとても親密になっておりましたので、理性をすっかり投げ棄ててしまい、その場の雰囲気に酔い、熱烈な性の饗宴を繰り広げたのでした。かくてマナハスヴァ−ミンは、昼は女になり夜は男になり、宰相の息子の妻とともにすごしておりました。やがて、数日後にその宰相の息子が帰って来ると知り、マナハスヴァ−ミンは彼女を連れて密かに夜逃げをきめこみました。

 ムーラデーヴァ仙人はこのことを知って、若いバラモンの姿をした友人のシャシンをつれてヤシャハケートゥ王のところに行き、お辞儀をして申しました。
「私の息子をつれて参りました。嫁をお返し下さい」
 そこで王は評議した結果、仙人の呪阻を恐れて彼に言いました。
「ムーラデーヴァ殿、あなたの嫁御はどこぞ知らぬが姿を消してしまった。どうか許してもらいたい。こちらの落度であるから、私の娘をあなたの息子さんにあげよう」
 ムーラデーヴァは怒り狂ったふりをして文句を言っておりましたが、王は彼に頼みこんで、その息子と称する友人のシャシンに、婚礼の作法にのっとって娘のシャシプラバーを与えました。こうしてムーラデーヴァは、王の財産には眼もくれずに夫婦となった二人をつれて自分の住処に帰ったのです。
 しかし、皆が集まった時、ムーラデーヴァ仙人の前で、マナハスヴァーミンとシャシンの間に大論争がもちあがりました。
 マナハースヴァーミンは言いました。
「シャシプラバーは私に与えらるべきです。というのは、私が先に、まだ生娘であった彼女を師匠のご好意によって娶ったのだから」
シャシンは主張しました。
「お前は彼女の何なのだ。馬鹿もの! この女は俺の妻だ。父親が聖火のまん前で彼女を俺にくれたのだから」
 二人は魔法の力で手に入れた王女をめぐって激しく口論しましたが、その決着はつきませんでした。

    

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